石川啄木との親交とは? わかりやすく解説

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石川啄木との親交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:32 UTC 版)

土岐善麿」の記事における「石川啄木との親交」の解説

1910年明治43年)に刊行した第一歌集NAKIWARAI』の批評を、当時東京朝日新聞にいた石川啄木執筆。これは編集局長安藤正純土岐とは縁戚関係にあった)が土岐贈られた『NAKIWARAI』を「批評してくれまいか」と託したもので、啄木同年8月3日付の紙面に「大木頭」の筆名好意的に紹介した土岐当初筆者誰かわからず安藤から啄木だと教えられる。だが、土岐以前出席した新詩社文士劇見た啄木に「生意気」という印象があったため、すぐには会わなかった。その後啄木歌壇時評「うたのいろいろ」で、土岐別の短歌賞賛した。 啄木同年12月第一歌集一握の砂』を出し、翌1911年明治44年1月10日付の読売新聞に、文芸評論家楠山正雄匿名啄木土岐歌壇新しホープとして取り上げた土岐はこの直後1月12日東京朝日新聞啄木電話をかけ、翌日初め面会するこの面会で意気投合した二人は、啄木提案雑誌を出すことを決め二人筆名から一文字ずつを使った樹木果実』に誌名決める。しかし啄木病気発したことや、出版依頼した印刷社が倒産したことから、刊行断念した1912年明治45年4月13日啄木病死土岐同年刊行した第二歌集黄昏に』の前書きに「この一小著の一冊をとつて、友、石川啄木卓上におく。」と記した啄木とはわずか1年ほどの付き合いであったが、啄木才能評価していた土岐死後遺族助けたまた、啄木遺稿整理出版務め、特に新潮社佐藤義亮説得の末に刊行実現した初の『啄木全集』(1920年)はベストセラーとなり、その名を広めることに貢献した

※この「石川啄木との親交」の解説は、「土岐善麿」の解説の一部です。
「石川啄木との親交」を含む「土岐善麿」の記事については、「土岐善麿」の概要を参照ください。

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