石川啄木との親交
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1910年(明治43年)に刊行した第一歌集『NAKIWARAI』の批評を、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が執筆。これは編集局長の安藤正純(土岐とは縁戚関係にあった)が土岐に贈られた『NAKIWARAI』を「批評してくれまいか」と託したもので、啄木は同年8月3日付の紙面に「大木頭」の筆名で好意的に紹介した。土岐は当初筆者が誰かわからず、安藤から啄木だと教えられる。だが、土岐は以前に出席した新詩社の文士劇で見た啄木に「生意気」という印象があったため、すぐには会わなかった。その後啄木は歌壇時評「うたのいろいろ」で、土岐の別の短歌を賞賛した。 啄木も同年12月に第一歌集『一握の砂』を出し、翌1911年(明治44年)1月10日付の読売新聞に、文芸評論家の楠山正雄が匿名で啄木と土岐を歌壇の新しいホープとして取り上げた。土岐はこの直後の1月12日に東京朝日新聞の啄木に電話をかけ、翌日初めて面会する。この面会で意気投合した二人は、啄木の提案で雑誌を出すことを決め、二人の筆名から一文字ずつを使った『樹木と果実』に誌名を決める。しかし啄木が病気を発したことや、出版を依頼した印刷社が倒産したことから、刊行を断念した。 1912年(明治45年)4月13日に啄木が病死。土岐は同年刊行した第二歌集『黄昏に』の前書きに「この一小著の一冊をとつて、友、石川啄木の卓上におく。」と記した。 啄木とはわずか1年ほどの付き合いであったが、啄木の才能を評価していた土岐は死後も遺族を助けた。また、啄木の遺稿整理と出版に務め、特に新潮社の佐藤義亮を説得の末に刊行を実現した初の『啄木全集』(1920年)はベストセラーとなり、その名を広めることに貢献した。
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