石川啄木の資料の保存
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「宮崎郁雨#啄木の死後」も参照 函館ゆかりの歌人である石川啄木が1912年に死去した後、翌1913年(大正2年)、岡田は自ら中心となって一周忌の追悼会を市立函館図書館内で開催した。同年、啄木の義弟でもある宮崎郁雨らと共に、啄木にまつわる貴重な資料の維持保存のための団体として「函館啄木会」を組織し、幹事の1人を務めた。そして同会最初の仕事として、図書館館内に「啄木文庫」を設け、岡田の収集や宮崎の寄贈による図書類を収め、啄木の業績を後世に残すべく尽力した。 啄木文庫の所蔵資料は、開設当初は『一握の砂』『悲しき玩具』、そして第1詩集『あこがれ』のわずか3種であった。追悼会翌日、岡田は入院中であった啄木の妻である節子夫人を見舞い、啄木の遺稿の寄贈を申し入れた。節子死去の同1913年、その遺志に基いて日記などの遺稿類が図書館へ寄贈された。こうして図書館内に保存された啄木の資料は、先述の通り函館大火の際も鉄筋構造と岡田の尽力によって守られ、『啄木日記』など重要な資料が後に伝えられるに至った。 また、1913年に岡田は、前述した2度目の帝国図書館視察の際、節子夫人や宮崎郁雨の依頼のもと、啄木と彼の一族の遺骨を引き取り、函館へ持ち帰った。これは啄木が宮崎に宛てた手紙に「死ぬときは函館で死にたい」とあったことが理由とされる。岡田は遺骨を節子に引き渡したものの、改めて節子から遺骨の保管を依頼されたため、周囲から「気持ち悪い」と言われることも構わずに、図書館内に遺骨を保存していた。 節子夫人の没後、岡田と宮崎は彼女を含む一族の墓碑建設の計画に取りかかった。函館市立図書館の建設方針を巡って市会と対立し続けていたときも、岡田は墓碑建設の計画を絶えず勘案していた。毎年の忌日には、啄木追想の行事を続けた。啄木忌は、数十年の間には諸々の事情で参加者が減ることもあったが、岡田と宮崎だけは常に出席し続けた。また石匠の選定をはじめ、工事に関する一切も岡田が引き受けた。そして1926年(大正15年)に啄木一族の墓が函館の立待岬に建立されるに至った。 節子夫人から寄贈された遺稿のうち『啄木日記』については、岡田は非公開の姿勢を貫いていた。啄木と最晩年に親交のあった丸谷喜市は、啄木が「自分の死後に日記を出版したい奴が現れたら、日記を全部焼いてくれ」と遺言したと言い、図書館にある日記をすべて啄木の遺児である長女に返却するよう要求した。1926年(大正15年)に日記を啄木の遺児宛てに返却するよう求めたが、岡田は「職務上の責任感と、啄木が明治文壇に重要な存在であるから焼却には反対する」と返した。しかし1939年(昭和14年)頃、啄木の全集の刊行などによって、当初は少数の関係者が知るのみだった日記の存在が次第に公になり、日記の公開を求める世間の動きが活発し、『東京日日新聞』『報知新聞』など新聞各紙が相次いで公開キャンペーンを行なった。これに対し岡田は同年4月、NHKによる全国放送を通じ、日記の焼却および公開を否定する意思を表面化し、世間から大きな反響を呼んだ。 1944年、岡田の死去により日記の公刊を阻むものがなくなったことで、1948年から1949年に石川正雄(啄木の長女・京子の夫)の編で世界評論社から啄木日記(全3巻)が出版されるに至った。なお晩年に入院した岡田は、病床での1年間の療養生活の間、啄木の『小天地』の合本を常に枕元に置き、片時も離すことはなかったという。 岡田の十三回忌の後、函館図書館の児童図書室の利用者でもあった歌人・土井多紀子らが中心となり、岡田の仕事の継承と函館の文化向上への寄与のための団体として、岡田の雅号「図書裡(としょり)」にちなんで「図書裡会」が結成された。1957年(昭和32年)にこの図書裡会により、岡田の功績を称える目的で、前年に函館を訪れた与謝野寛・与謝野晶子夫妻の歌碑が立待岬に設置された。碑には晶子の詠んだ「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと」が刻まれており、この「岡田先生」とは岡田健蔵のことである。
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