啄木の死後とは? わかりやすく解説

啄木の死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:56 UTC 版)

宮崎郁雨」の記事における「啄木の死後」の解説

啄木死後、いったん千葉県北条町移住しながら、転居先当て突如なくなった節子は、1912年9月両親が住む(1911年盛岡から移住函館再度移住した1913年大正2年4月13日啄木一周忌函館図書館長の岡田健蔵啄木追悼会を開き函館立待岬墓碑石川啄木一族の墓」を建て遺骨を移す。節子依頼もあり、啄木遺品納め函館図書館啄木文庫作った直後5月5日節子結核のために死去した1923年大正12年)、父・竹四郎没したため、家業味噌醤油醸造業継いで従事する同年永山力(ながやま ちから)と共著紅茶倶楽部より『函館戦争五稜郭』を刊行1925年大正14年)、社団法人函館慈恵院監事選任される以降1931年理事1933年常任理事歴任することになる。1933年には味噌醤油醸造業廃業し栄町味噌小売店開業する。翌1934年昭和9年3月21日函館大火栄町味噌小売店類焼し新川町書籍保険味噌醤油小売店開業するが、5年ほどで廃業する以降慈恵院事業専念1927年昭和2年6月弘文社より『啄木書翰集』(石川啄木著)を編集刊行1940年昭和15年)、支那事変における功により勲六等瑞宝章授与される1945年昭和20年)、自身還暦記念して歌集自画像 : 郁歌抄』を刊行する1946年昭和21年)、恩賜財団同胞援護会北海道支部幹事委嘱される。また、社会福祉法人函館厚生相談役推薦され市立函館図書館嘱託となる。図書館長も務めた1947年昭和22年12月より公職追放遭う在郷軍人会要職に就いていたことが原因)。 1948年昭和23年)、函館引揚援護局総務部渉外課に勤務し1950年昭和25年)には『函館引揚援護局史』を編纂する1956年昭和31年)、函館郷土雑誌海峡」に啄木関係の記事執筆始める。 1958年昭和33年)、函館市文化賞受賞函館図書館に「啄木を語る会」を発足させ、毎回出席し講演する1960年昭和35年9月函館市湯の川役宅脳溢血となり入院退院翌年となったが、同年11月には東峰書院より『函館の砂 : 啄木の歌と私と』が刊行されている。 1961年昭和36年)、啄木50回忌記念として森屋より『函館啄木』を阿部たつを、田畑三郎との共編刊行する同年8月2日脳溢血再発し一時重篤になる。この後一進一退くり返し1962年3月29日午前0時10分に函館中央病院生涯閉じた享年78(満76歳没)。 宮崎家の墓は、函館立待岬の「啄木一族の墓」に寄り添うよう建てられている。

※この「啄木の死後」の解説は、「宮崎郁雨」の解説の一部です。
「啄木の死後」を含む「宮崎郁雨」の記事については、「宮崎郁雨」の概要を参照ください。

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