啄木の死後
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啄木死後、いったん千葉県北条町に移住しながら、転居先の当てが突如なくなった節子は、1912年9月に両親が住む(1911年に盛岡から移住)函館に再度移住した。 1913年(大正2年)4月13日の啄木一周忌に函館図書館長の岡田健蔵と啄木追悼会を開き、函館の立待岬に墓碑「石川啄木一族の墓」を建て遺骨を移す。節子の依頼もあり、啄木の遺品を納め、函館図書館啄木文庫を作った。直後の5月5日に節子は結核のために死去した。 1923年(大正12年)、父・竹四郎が没したため、家業の味噌醤油醸造業を継いで従事する。同年、永山力(ながやま ちから)と共著で紅茶倶楽部より『函館戦争と五稜郭』を刊行。 1925年(大正14年)、社団法人函館慈恵院監事に選任される。以降、1931年に理事、1933年に常任理事を歴任することになる。1933年には味噌醤油醸造業を廃業し、栄町に味噌小売店を開業する。翌1934年(昭和9年)3月21日の函館大火で栄町の味噌小売店を類焼し、新川町に書籍と保険と味噌醤油の小売店を開業するが、5年ほどで廃業する。以降は慈恵院の事業に専念。 1927年(昭和2年)6月、弘文社より『啄木書翰集』(石川啄木著)を編集、刊行。 1940年(昭和15年)、支那事変における功により勲六等瑞宝章を授与される。 1945年(昭和20年)、自身の還暦を記念して歌集『自画像 : 郁雨歌抄』を刊行する。 1946年(昭和21年)、恩賜財団同胞援護会北海道支部幹事を委嘱される。また、社会福祉法人函館厚生院相談役に推薦され、市立函館図書館の嘱託となる。図書館長も務めた。 1947年(昭和22年)12月より公職追放に遭う(在郷軍人会で要職に就いていたことが原因)。 1948年(昭和23年)、函館引揚援護局総務部渉外課に勤務し、1950年(昭和25年)には『函館引揚援護局史』を編纂する。 1956年(昭和31年)、函館の郷土雑誌「海峡」に啄木関係の記事の執筆を始める。 1958年(昭和33年)、函館市文化賞を受賞。函館図書館に「啄木を語る会」を発足させ、毎回出席し講演する。 1960年(昭和35年)9月、函館市湯の川の役宅で脳溢血となり入院、退院は翌年となったが、同年11月には東峰書院より『函館の砂 : 啄木の歌と私と』が刊行されている。 1961年(昭和36年)、啄木50回忌記念として森屋より『函館と啄木』を阿部たつを、田畑幸三郎との共編で刊行する。同年8月2日、脳溢血が再発し一時重篤になる。この後も一進一退をくり返し、1962年3月29日午前0時10分に函館中央病院で生涯を閉じた。享年78(満76歳没)。 宮崎家の墓は、函館の立待岬の「啄木一族の墓」に寄り添うよう建てられている。
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