啄木との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:56 UTC 版)
1906年10月頃に函館に結成された文芸結社「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」は、1907年1月に同人誌『紅苜蓿(べにまごやし)』第1号を刊行した。この第1号に石川啄木は「公孫樹」など3編の詩を寄稿した。創刊号が好評を得て続刊の作業に入り、郁雨が結社に加わったのはこの頃とされている。 編集人材を求めた苜蓿社と故郷渋民での生活に行き詰まった(父が住職再任を断念して出奔)啄木の希望が重なり、1907年5月に啄木は函館に移り住んだ。これが縁で啄木との交流が始まることになる。啄木を函館日日新聞社に紹介し、遊軍記者として勤めさせているが、市内に大火災が起きて新聞社が焼失したため、在籍期間は8月18日 - 25日の8日間であった。このあと啄木は札幌→小樽→釧路と道内を転々とする。この間、啄木の小樽在住時代の1907年10月、旭川に予備役の勤務招集を受けていた郁雨は、演習で江別まで来た際に上官の許しで(本来は外泊許可区域外だった)啄木の家を訪問・一泊した。この夜、啄木との歓談中に、昼に初めて会ったばかりの啄木の妹・ミツ(光子)と結婚したいと酔いに任せて話したが、啄木は「明らかに当惑したような顔」で首を振ったと後に回想している。啄木と知り合った頃、郁雨は失恋の傷心を抱えており、啄木が語る妻・節子との恋愛談に魅了され、妹との結婚により啄木と兄弟になることを思い描くようになっていた。一方で小樽の啄木の借間が不便と感じた郁雨は、召集解除で函館に戻る途中に再度小樽に立ち寄り、借家を手配し費用を親から取り寄せて啄木一家を転居させている。 1908年(明治41年)4月に文芸活動のために釧路新聞記者を辞めて函館に来た啄木から、「函館で半年から1年働いて資金を貯めてから上京したい」という希望を聞かされる。これを知った郁雨は啄木の創作意欲に応えたいと、両親の承諾を得て上京資金を提供した。この際、郁雨は啄木の家族を託され、1909年(明治42年)6月まで函館区(1899年から1922年までの北海道区制に基づく行政単位)栄町の自家の貸家に居住させることになる。また、この年、陸軍砲兵少尉に任じられ、正八位に叙せられている。残された啄木の妻子・母とともにミツも函館で暮らしており、郁雨はミツには「友達」として接したが思慕を完全には断ち切れず、節子に「なぜ啄木は妹を友人にやらないのか」と尋ねたりもした。 啄木は上京に際して、3か月から半年の間に家族を必ず上京させると郁雨に約束したものの、もくろんだ小説の売り込みに失敗してその目処が立たなかった。結局、1909年(明治42年)3月に啄木が東京朝日新聞に校正係として入社した後、5月に郁雨は旅費を負担して啄木の妻子と母を連れて上京することを手紙で啄木に伝え(啄木には5月26日に着信)、6月7日に函館を出発、途中盛岡で節子の実家に寄った後、同月16日に東京に到着した。この道中、節子の実家で郁雨は初めて節子の2人の妹(ふき子・孝子)と面会する。啄木が下宿を引き払って家族と同居するための新居(理髪店「喜之床」の2階)を借りるに当たり、郁雨の送った15円を使っている。東京で再会した啄木に郁雨は再度ミツとの結婚を申し入れたが、啄木は「あれは話にはならん。君と僕とが兄弟の関係になるのだったら節子の妹はどうか。」と薦め、郁雨はそれを受け入れることになる。郁雨は函館への帰路に再度盛岡に寄り、節子の両親と面会して承諾を得る。竹四郎や母も結婚を認めた。 1909年10月26日、節子のすぐ下の妹・堀合ふき子と結婚、啄木とは義理の兄弟の関係となる。 啄木は1910年(明治43年)に刊行した歌集『一握の砂』で、前文に「函館なる郁雨宮崎大四郎君」として金田一京助とともに名を挙げた。また、同書に収められた以下の3首は郁雨を詠った歌である。 演習のひまにわざわざ 汽車に乗りて 訪ひ来し友とのめる酒かな (326番目) 大川の水の面を見るごとに 郁雨よ 君のなやみを思ふ (327番目) 智慧とその深き慈悲とを もちあぐみ 為すこともなく友は遊べり (328番目) しかし、1911年(明治44年)9月、軍の勤務召集として郁雨が旭川の連隊にいた折に演習地の美瑛から節子に送った手紙が原因で啄木と節子の間にトラブルが起き、その結果郁雨と啄木は義絶する。 この義絶により、啄木は家計の危機に陥る。啄木が1909年頃に作成したと推測される、1905年から約4年間の借金(ツケ払いや支払延滞を含む)を記したメモが函館市中央図書館啄木文庫に残されているが、総額1372円50銭のうち、最も多い借主は郁雨の150円である。上京後に啄木が東京朝日新聞に就職して以降は、郁雨が啄木一家の家計を助けていた。 郁雨は啄木の才能を愛して支援を惜しまなかったが、生活力の無さや自己中心的な行動が家族を不幸にしたという点には批判的だった。前記の借金記録は郁雨が1957年に公表したものである。 啄木は1912年4月13日に東京で死去する。
※この「啄木との出会い」の解説は、「宮崎郁雨」の解説の一部です。
「啄木との出会い」を含む「宮崎郁雨」の記事については、「宮崎郁雨」の概要を参照ください。
- 啄木との出会いのページへのリンク