球場にまつわる出来事
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1950年・日本ワールドシリーズ第5戦 当時はまだフランチャイズの定義が曖昧だったこともあり、この年の日本シリーズ(当時の名称は日本ワールドシリーズ)は全国各地で行われた。中日球場は第5戦において使用された。 1953年・プロボクシングの試合 8月10日、日本バンタム級堀口宏(堀口)VS横井義春(松田)、ライト級秋山政司(極東)VS米津利治(岡崎)のダブルタイトルマッチが行われ、堀口が判定で5度目、秋山が7回TKOで12度目の王座防衛にそれぞれ成功。 1954年・中日初の日本一 同年の日本シリーズで西鉄ライオンズと対戦。3勝3敗で迎えた中日球場での第7戦では杉下茂が西鉄を完封し、中日は初の日本一。監督の天知俊一は顔を涙でくしゃくしゃにしながら選手たちに胴上げをされた。中日の次の日本一はこの後53年間待たされることになるが、中日球場・ナゴヤ球場時代では唯一の日本一の瞬間でもあった。 1959年・伊勢湾台風 9月下旬、超大型台風が東海地方を直撃した影響で中日スタヂアムのグラウンドが冠水し、スコアボードも大破するなど大きな被害を受けた。9月26日から予定されていた巨人との3連戦が中止となる。この試合は後日川崎球場などに振り替えて開催された。また水没から復旧した同年9月30日・10月1日(後者はダブルヘッダー)の3連戦を同台風被災地への義援金を募集するシリーズとして開催したほか、10月10-12日(11・12日はダブルヘッダー。また12日は本来中日主管である試合を広島市民球場に会場変更したもの)の5連戦を同様に被災地復興支援シリーズとして開催している 1967年・大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオスに登場 大映の特撮映画「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」にて、夜に名古屋に現れ街を破壊するギャオスからの避難場所としてナゴヤ球場が登場するシーンがある。ギャオスが光に弱いという特性のため照明設備のある球場が避難場所となった。 1972年・爆破予告電話で試合中断 8月24日の中日対巨人戦の試合中、球場に「三塁側内野スタンドに爆弾を仕掛けた。午後7時45分に爆発する」という内容の電話があり試合は午後7時38分に中断。三塁側ベンチ内の巨人選手と三塁側内野席の観客を緊急避難させスタンドを調べたが、不審物は見つからず午後8時3分に試合を再開した。 1973年・「10・20」 阪神の優勝を中日が阻んだ一戦のことを指す。阪神はこの試合を含めたシーズンの残り2試合のうち1試合を勝つか引き分ければ優勝であったが、この試合と最終の対巨人戦で連敗した結果巨人がセ・リーグ9連覇を達成した。敗れた阪神は12年後の1985年まで優勝から遠ざかることとなる。 試合は中日星野仙一、阪神江夏豊が先発。2-2で迎えた4回裏に中日が木俣達彦の本塁打で3-2と勝ち越し、8回裏にも1点を加え4-2で勝利した。デーゲームで行われたこの試合中、新幹線で移動していた巨人の選手達は、試合経過を知るために車窓から中日球場のスコアボードを見ようとしたがはっきり確認できず、名古屋駅に到着した時にファンから中日が勝ち越していることを知らされた。この知らせによって、車中の雰囲気は一気に明るくなったと言われている。巨人の9連覇をテーマにしたテレビアニメ『侍ジャイアンツ』にも、この試合をモチーフとした試合が登場する。そこでは、主人公・番場蛮の乗車した新幹線が中日球場の側を通過中に、蛮の親友である中日・大砲万作がホームランを打っている。 1974年・中日20年ぶりの優勝 前年までV9を続けていた巨人に代わり、この年は中日が優勝した。同年10月12日の対大洋・第二試合で最後の打者・山下大輔をサードライナーに打ち取った星野仙一・木俣達彦のバッテリーがマウンド上で抱き合った直後、興奮した観衆がグラウンドになだれ込んだ。その後の表彰式は、なだれ込んだ観客を外野グラウンドに隔離した上で行われている。 同日、巨人・長嶋茂雄が引退発表し、翌14日に引退試合を行った。 この年に当時大学生の山本正之によって作られた応援歌『燃えよドラゴンズ!』には当時の球場名(通称)である「中日球場」が1番の歌詞に登場する。その後、'77年バージョンから'93年の『平成FIVE』までは「ナゴヤ球場」、'98年以降のバージョンには「ナゴヤドーム」と、球場名や選手名の部分が時代に合わせて変更されながら歌い継がれている。 1975年・照明故障で試合が中止に 7月26日の中日-広島戦の2回表、広島の攻撃中に三塁側内野席裏の照明塔の照明全てが突然消灯。試合を中断して復旧に当たったが復旧せず、審判員と両監督が協議した結果、試合はノーゲームとなった。 同カードの折り返し、9月10日の広島市民球場の試合では試合中に選手やファンが乱闘を起こした影響で選手にけが人が出たことや警備上の問題から9月11日開催予定の試合が取り消されたことがあり、自然災害以外のトラブルで同じカードが2度中止になる珍しいケースとなった 1982年・「9・28」逆転サヨナラ 優勝争いをしていた巨人との最後の直接対決3連戦。当時の中日は先発江川卓を苦手にしていたが2-6で迎えた9回裏、大学時代から江川キラーといわれた代打・豊田誠佑のヒットを皮切りに中尾孝義のタイムリーで同点に追いつく。延長10回裏に満塁とし、大島康徳が江川の後を継いだ角からタイムリーヒットを打ってサヨナラ勝ち。中日はこの時点で巨人よりも残り試合数が多かったためマジック12が点灯。中日はレギュラーシーズン最終戦の横浜スタジアムでの対横浜大洋ホエールズ戦で優勝を決めた。 1987年・初登板でノーヒットノーラン 1987年8月9日対巨人戦、ドラフト1位指名で入団した新人の近藤真一が先発に抜擢される。2四球1失策のみに抑え、日本プロ野球史上初となる初登板ノーヒットノーランでデビューを飾った。 1988年・ナゴヤ球場での最後の優勝 監督就任2年目の星野仙一が初めて優勝を勝ち取った年でもある。立浪和義が球団史上唯一人の「高卒新人として開幕戦フルイニング出場」。10月7日の対ヤクルトスワローズ戦、この年2年連続最多セーブ投手やセ・リーグMVPとなった郭源治が目を真っ赤にしながら最終回を抑え中村武志と抱き合った直後、興奮したファンがグラウンドになだれ込んだ。星野の胴上げが終わると同時に選手・コーチは一目散にベンチ裏に避難し、監督インタビューも中止された。何者かが乱入する際にペンチでフェンスを切ったため、そこで指を怪我する観客もいた。 1989年8月12日・ノーヒットノーラン寸前から逆転 巨人の先発斎藤雅樹相手に無安打だった中日は0-3で迎えた9回裏一死、代打音重鎮が右翼線へヒット、2死後川又米利が四球で出塁、3番仁村徹がタイムリーを放ち1-3とする。さらに4番落合博満が右中間スタンドへ逆転サヨナラ3ランホームランを放ち、4-3で中日が勝利を収めた。 1990年・再度の球場火災 1990年9月11日中日-大洋22回戦の試合開始前の17時56分頃、スコアボード右横の照明塔下部付近にあるごみ集積場から出火。一時は10m近く火柱が上がり黒煙がグラウンドに立ち込め、ライトスタンドにいたファンをグラウンドへ避難させた。火は18時11分に消し止められたが、竹製のくずかご50個のうち約30個が焼失、集積場の扉や屋根が焼けた。普段は火の気がないことから、出火原因はタバコの火の不始末とみられている。なお試合は通常から23分遅れの18時46分に開始し、11-2で中日が大勝している。この試合の3日前に巨人の優勝が決まっていたため、事実上消化試合となっていた。 1991年7月19日・8点差からの逆転 0-8で迎えた7回裏、巨人先発槙原寛己から落合がソロホームラン、8回裏にマーク・ライアルの2点タイムリーで3-8、代わった木田優夫から落合が四球、川又も押し出しの四球で4-8。代打中村武志が左翼席最上段へ満塁ホームランを放ち、8-8の同点に追いつく。延長10回裏、そのまま守備に入った中村が水野雄仁から2打席連続ホームランとなるサヨナラホームランを放ち、9-8で逆転勝利を収めた。 1994年・「10.8決戦」 中日と巨人の同率首位決戦のことを指す。 この日は廃止が決まったJRナゴヤ球場正門前駅の最終営業日となった。 1996年・「10・6」 「メークドラマ」も参照 ナゴヤドームへの本拠地移転に伴う、ナゴヤ球場の一軍公式戦使用が最後となった一戦のことを指す。 カードは「10・8」と同じくまたも中日-巨人。巨人はこの年、首位・広島に最大11.5差の大差をつけられるなど、リーグ優勝はほぼ絶望視されていた。しかし巨人監督である長嶋のメークドラマ発言によってチームが息を吹き返し、8月後半には首位に。その後も勢いは衰えず、マジック1でこの試合を迎えていた巨人が勝利。2年ぶりのリーグ優勝を果たし、長嶋がナゴヤ球場最後の胴上げ監督となった。なおナゴヤ球場最後の胴上げ投手は川口和久、最終打者は立浪だった。星野は目の前で胴上げを見る屈辱を味わいながらも試合終了後行われた、ナゴヤ球場のお別れセレモニーで「ジャイアンツファンの皆さん、優勝おめでとう!」と敵軍を称えるメッセージを贈り、「来年(ナゴヤ)ドームで出直します!ありがとう、ナゴヤ球場!世界一のスタジアムだと思っています!今までナゴヤ球場を愛してくださった皆さん、また来年、ドームでお会いしましょう!」と締め括った。 この試合で、当時中日に在籍していた矢野輝弘(現・阪神タイガース監督)が当球場における1軍の公式戦では最後となるホームランを放った。 1996年・メモリアルゲーム シーズン終了後、中日OB対巨人OBのメモリアルゲームが行われた。この試合では現役代表として出場した松井秀喜が星稜高等学校の先輩にあたる小松辰雄から本塁打を打っている。 1997年11月30日・モーニング娘。メジャーデビュー決定 テレビ番組『ASAYAN』内で1997年に行われた「シャ乱Qロックボーカリスト・オーディション」落選組で、後に女性歌手グループ「モーニング娘。」の初代メンバーとなる5名(中澤裕子、石黒彩、飯田圭織、安倍なつみ、福田明日香)が、『大阪、福岡、札幌、名古屋、東京の5会場でインディーズCD「愛の種」5万枚完売』という課題を4会場目のナゴヤ球場で達成し、メジャーデビューを勝ち取った。ナゴヤ球場はモー娘。の「出発点」とも言える場所で、現在でもモー娘。ファンからは一種の「聖地」とみなされることがある。 2019年・23年ぶりの一軍戦 ナゴヤドーム完成後、一軍の試合は行われてこなかったが、この年の3月7日、23年ぶりの一軍の試合が、オープン戦の対DeNA戦で行われ、定員約3000人のチケットが完売し、内野席のみにも拘わらず超満員の大盛況のもと開催された。 これは、ナゴヤドームが毎年3月第2日曜日に開催される名古屋ウィメンズマラソンのゴール地点(スタートはドームの外)とされ、ナゴヤドームでの試合開催が不可能となるためで、2020年、2021年も同様にナゴヤ球場で埼玉西武ライオンズとのオープン戦が開催された。
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