富山鉄道時代
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1912年(大正元年)10月22日に佐藤組の佐藤助九郎、旭勇平、見田勇吉は富山軽便鉄道合資会社の名義を以て富山笹津間における軽便鉄道敷設免許を出願した。明治以来三井鉱山経営下の神岡鉱山は銅、鉛、亜鉛等の重要鉱産品を多く産出し、殊に日清・日露戦争による軍需拡大以来はその生産量も飛躍的な増大を遂げつつあったが、その輸送量急増に対処するため飛騨街道の改修とともに、馬車鉄道の敷設が計画されていた。その鏑矢は1892年(明治25年)8月の越飛馬車鉄道(東岩瀬 - 笹津間)であり、これに続いて1896年(明治29年)5月には富山馬車鉄道が東岩瀬 - 笹津間の鉄道敷設免許を取得したが、株式募集の不調や1897年(明治30年)11月の名山鉄道計画(東岩瀬 - 飛騨 - 富山間)の浮上もあり、いずれも計画実現をみることなく解散していた。この名山鉄道計画も政府が鉄道敷設法に「岐阜県下岐阜若ハ長野県下松本ヨリ岐阜県下高山ヲ経テ富山県下富山県ニ至ル鉄道」を計画していたことや工事困難等の理由により立ち消えとなった。そこで富山軽便鉄道はまず平坦で鉄道敷設工事が比較的容易な富山 - 笹津間に軽便鉄道を敷設し、馬車等に頼っていた鉱石輸送の不便の解消と飛越間における交通の便を開くことを目的としてこの出願に至ったのである。 軽便鉄道としての出願には国と県の政策が背景にあった。従来の繁雑な私設鉄道法が純然たる地方交通路線建設には支障を来していたことに鑑みて1910年(明治43年)8月3日より施行された軽便鉄道法と、その建設促進を主眼として1912年(明治45年)1月1日より施行された軽便鉄道補助法は全国的に軽便鉄道建設の機運を高めていた。これに加えて富山県は独自の政策として1912年(大正元年)11月1日に軽便鉄道及軌道県補助規定を制定し、政府の補助対象とならない路線への補助を行う姿勢を打ち出した。こうして富山県下においては富山軽便鉄道のほか、1913年(大正2年)6月25日に立山軽便鉄道線、同年9月1日に富山電気軌道線、1915年(大正4年)7月21日に砺波軽便鉄道線が開業したのであった。 鉄道院は1913年(大正2年)3月6日に富山軽便鉄道へ富山停車場 - 上新川郡大沢野村間の鉄道敷設免許を下附した。この時代には1910年(明治43年)に鉄道院が行った測量結果をもととして、飛越間における官設鉄道予定線はのちの高山本線がとった越中八尾経由ではなく笹津経由が有望視されており、富山軽便鉄道の敷設免許下附に際しても「本線路ハ敷設法ノ予定線ニ該当スルヲ以テ予定線ヲ敷設スル場合ニ於ケル場合ニ於ケル相当条件ヲ附シ可然ト認ム」との条件付きであった。 1913年(大正2年)12月5日に富山軽便鉄道は合資会社の方式を改め株式会社として設立され、社長には佐藤助九郎が選出された。株式は2割9分7厘が三井鉱山、佐藤組関係者が2割1分6厘、残余の5割程度を沿線地域の有力者が占めた。同年12月15日に合資会社名義の鉄道敷設免許を富山軽便鉄道へ譲渡する申請を行い、同年12月26日に許可を得て正式に事業を開始した。1914年(大正3年)3月9日には工事施工認可を得たので、同年3月20日より着工した。当初計画においては富山駅 - 稲荷町間は神通川旧流への架橋費節減のため北陸本線と共用する予定であったが、信号所建設等に多大の費用を要し、且つ列車運行に生ずることが見込まれたため、工費2万5千円を以て新線を建設することとした。同年7月18日に土地収用法による土地収用認定が公告され、同年9月からはレール敷設工事に着手した。 工事は全く順調に進捗していたが、富山軽便鉄道が東京高田商会経由でドイツのヘンシェル社に発注していた機関車は輸送中に第一次世界大戦の勃発によって商船がマニラ港にて抑留されたため、鉄道院より国鉄110形蒸気機関車を借用して工事列車運転にあてた。東京天野工場にて製造された客車6輌、貨車30輌は無事に届いたが、機関車は全く到着する見込みがたたないので、鉄道院よりもう1輌を借りて開業に臨むこととなった。1914年(大正3年)11月14日には富山 - 笹津間において試運転が行われ、同年12月6日より正式に開業した。停車場として稲荷町駅、堀川新駅、熊野駅、大久保町駅、大沢野駅および笹津駅が開業し、停留場として山室駅および蜷川駅が設けられた。当初は混合列車が富山駅 - 笹津駅間を1日5往復しており、開業第1期の運輸成績は旅客1日平均490人、貨物1日平均585トン、収入は政府補助金の7341円を合わせて10461円、支出は9664円であり、797円の利益を得た。 富山軽便鉄道線の開業に平行して三井鉱山は神岡鉱山専用軌道を建設しており、1909年(明治42年)5月にはまず杉山 - 土間が開通し、続いて1915年(大正4年)4月に笹津駅まで開通、加えて1920年(大正9年)に鹿間まで延伸され、富山と神岡は鉄路によって連絡し得るようになった。こうして笹津駅は神岡鉱山の鉱産品輸送拠点として殷賑を極め、駅前には運送店や旅館等が進出して大いに賑わいをみせた。沿線の穀倉地帯において産出される米穀も鉄道によって全国へと搬出され、東岩瀬の仲買人に依存していた肥料についても1920年(大正9年)設立の北陸米肥のように地元業者が主体となって取引を行い得るようになった。こうして開業5年目の大正7年度の成績は旅客貨物共に既に当初計画を突破した。従来神通川によって運搬されていた飛騨の木材も大久保用水経由で大沢野駅附近に運ばれ、そこから鉄道によって輸送されるようになり、大沢野駅南側には飛州木材の貯木場が1920年(大正9年)に設置されている。 1915年(大正4年)4月に富山軽便鉄道は本社を富山市総曲輪203番地から富山市桜町へと移転した。この場所には後に富山地鉄ビルが建設されている。同年10月24日には社名を富山鉄道に改めた。好調なる成績を背景として社名変更と同時に臨時総会にて笹津付近に遊園地を建設することを計画し、1916年(大正5年)1月28日に附帯事業経営の許可を受け、同年4月18日に夏季のみ営業する八木山駅を開設し、富山鉄道が建設した「神通閣」や笹津春日公園への観光客誘致を行った大正後期に入ると神通川水域における電源開発が活発化し、富山鉄道における工事用資材輸送も増大した。こうして富山鉄道は1927年(昭和2年)度に旅客38万9555人、貨物13万7870トン、益金10万5601円の成績を収めて頂点を極め、貨車も増補されて70輌を所有するに至った。 しかし1927年(昭和2年)9月1日に越中八尾まで開通し、1929年(昭和4年)10月1日に笹津駅まで延伸された飛越線は、富山鉄道線の経営を一気に悪化させた。これは神岡からの貨物が富山以遠と運賃通算が可能な国鉄に転換されたために起った現象であり、1930年(昭和5年)度の富山鉄道における貨物数量は前年の約半分、利益は3割程度にまで落ち込んだ。また、乗合自動車の発展による旅客運輸の競争も活発化していた。こうした背景により富山鉄道は1928年(昭和3年)12月に政府へ国有買収申請を行い、1929年(昭和4年)6月と7月には2度に渡って政府損失補償請願を行った。政府は1929年(昭和4年)12月に5ヶ年に限って損失補償を行うことを認めたが、富山鉄道の経営陣はたった5年の損失補償では到底経営を継続し得ないと判断し、1931年(昭和6年)12月26日の株主総会において鉄道事業の廃止を決定、翌1932年(昭和7年)1月11日に廃止許可申請を提出した。1930年(昭和5年)11月27日の飛越線笹津駅 - 猪谷駅間開業によって神岡鉱山専用軌道が、1931年(昭和6年)9月16日に東猪谷 - 猪谷間の路線を完成させて直接猪谷駅に乗り入れ、同年10月28日に東猪谷 - 笹津間の軌道が廃止されて富山鉄道が完全に神岡鉱山の貨物輸送の使命を終えたことがこの判断の背景にあり、1931年(昭和6年)度の利益は1928年(昭和3年)度の1割8分、1932年(昭和7年)度に至っては9分9厘にまで落ち込んでいた。 沿線の住民は廃止反対運動を行ったが、鉄道省としては堀川新駅 - 笹津駅間の路線廃止はやむなしという判断であった。しかし富山県営鉄道が堀川新駅(南富山駅)において連絡していることに鑑み、富山駅 - 堀川新駅間は存続すべきであるとされ、当初は富山県に路線譲渡の検討が行われたが、結局新会社を設立の上、この区間の運行に当る計画が承認された。1932年(昭和7年)12月12日に沿線市町村長を招いて開催された懇親会において廃止後は鉄道省が自動車路線を開業させることが発表されると廃止はほとんど諒承され、翌1933年(昭和8年)4月17日に堀川新駅 - 笹津駅間は廃止、同年4月20日に残存区間である富山駅 - 堀川新駅間を富南鉄道に譲渡して富山鉄道は解散した。富山鉄道に対しては「富山鉄道株式会社所属鉄道中堀川新笹津間廃止ニ対スル補償ノ為公債発行ニ関スル法律」(昭和8年法律第36号)によって廃止補償が行われた。堀川新駅 - 笹津駅間の線路用地は富山電鉄自動車が買収しており、戦後に富山地方鉄道笹津線が建設される際に用いられた。 富山駅 - 堀川新駅間の営業を引継いだ富南鉄道は、1933年(昭和8年)4月12日に発足した。5.0粁の短い区間ではあったが、沿線に不二越鋼材工業や日満亜麻紡織等の工場があったため成績は好調であった。1937年(昭和12年)4月16日に富南鉄道の社長に株式の大半を所有していた富山電気鉄道社長の佐伯宗義が就任して同社経営傘下に入り、1941年(昭和16年)12月1日に富山電気鉄道に買収され、富南鉄道は解散した。
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