外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一とは? わかりやすく解説

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外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:09 UTC 版)

カール大帝」の記事における「外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一」の解説

カール生涯大半征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっている。 父ピピン3世死後イタリアランゴバルド王国の王デシデリウス王女カールの妃としてフランク王国からの脅威取り除きローマ教会への影響力強めて勢力挽回図ろうとした。770年カール王女結婚したが、デシデリウスローマへ攻撃開始し773年ローマ教皇ハドリアヌス1世カール援軍要請する至ってカール義父デシデリウス対決することに方針定め、妃を追い返してアルプス山脈越えイタリア攻め込んだランゴバルド戦役de:Langobardenfeldzug))。翌774年にはランゴバルド首都パヴィア占領しデシデリウス捕虜として「鉄の王冠」を奪いポー川流域一帯旧領を握ると、自らランゴバルドとなってローマ教皇領保護者となった。さらに父の例にならって中部イタリアの地(以前ラヴェンナ総督府領)を教皇寄進した。またカール征服したランゴバルド領の各地フランク系の貴族を伯として大量に送り込み、新領土統治体制固めた。これらの新領主は、やがてイタリア土着後世イタリア貴族多く起源となった772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人一派ザクセン族を服属させようとし、ザクセン戦争開始した。このザクセン戦争カール優勢のうちに進められたものの、ザクセン族は頑強に抵抗し遠征10以上に及んだ785年には有力な指導者ヴィドゥキント降伏させたものの抵抗続き結局完全にこれを服属させたのは戦争開始から32年後の804年のことであったカール戦後抵抗する指導者死刑追放処しザクセン族を帝国内に分散移住させ、代わりに征服地にフランク人移住させるなどの方法反抗おさえた。これによって現在のエルベ川からエムス川にかけての広大な地域フランク王国服属することとなった。さらにその東に居住するスラヴ人たちもその多く服属した。一方ザクセン征服によってその北に居住するデーン人との軍事的緊張高まったが、カール存命中は膠着状態続いた778年カール後ウマイヤ朝圧迫されイベリア半島北部ムスリム勢力救援依頼イベリアへの勢力拡大好機とみなしイベリア北部遠征した。サラゴサムスリム勢力制圧し人質を出させたことで目的達した考えたカール撤退はじめた。その途上ピレネー山脈越え差し掛かった時、バスク人襲撃受けて大損害を受け、多数兵士将軍失ったロンスヴォーの戦い)。この戦い題材にしたのが後に神話化され語り継がれた『ローランの歌』である。795年にはピレネー南麓スペイン辺境領をおいた。またこのとき、スペイン後背地にあたり地元勢力強かったアキテーヌフランク人による直接支配の下に置くことを試み息子ルートヴィヒ1世ルイ1世)を王としたアキテーヌ王国創設した。ほぼ同時代史料である『ルイ敬虔帝伝』によればカールアキテーヌの完全掌握目指しアキテーヌ全土の伯、修道院長多くフランク人から任命したという。801年にはフランク王国支配地はバルセロナまで広がったバルセロナ伯)。 北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュ鎮圧して東方ではドナウ川上流半独立勢力となっていたバイエルン族攻めて788年には大公タシロ3世追いこれを征服するとともに791年にはドナウ川中流スラヴ人パンノニア平原にいたアヴァール討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンペーター教会建設している。アヴァールは、中央アジア住んでいたアジア系遊牧民族モンゴル系もしくはテュルク系ではないか推定される6世紀以降東ローマ帝国フランク王国はじめとするヨーロッパ各地侵入しカール遠征後はマジャール人スラヴ人同化ていった考えられる。このときはアヴァール領の西部制圧しただけであったが、カール再度アヴァール侵攻計画し、その一環として793年にはドナウ川ライン川をつなぐ運河計画した796年再度侵攻した際にはアヴァール宮殿にまで到達して大規模な略奪行い、これによってアヴァール致命的な大打撃受けて以後衰退するばかりとなった。またこの勝利に伴いフランク王国は東に大きく領土広げパンノニア平原中央部付近までを服属させた。 結果としてカール王国現在のフランスベルギーオランダルクセンブルクスイスオーストリアスロヴェニアモナコサンマリノバチカン市国全土と、ドイツスペインイタリアチェコスロヴァキアハンガリークロアチアの各一部広がった。このことによって、イギリスアイルランドイベリア半島イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界政治的統一達成しイングランドデンマークスカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族支配してフランク王国最盛期迎えたカールは、ゲルマン民族の大移動以来混乱した西ヨーロッパ世界安定もたらしたのであるカール征服した各地教会修道院を建て、その付属学校では古代ローマ学問ラテン語研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼採用し重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税納入徹底させた。さらに住民キリスト教アタナシウス派カトリック教会)に改宗させてフランク化もおこなったメロヴィング朝はもともと、広い領土支配するために全国を伯領に分けそれぞれの伯領に「伯」(ComesGraf)という長官配置し地元有力者任命して軍事指揮権行政権司法権与えていた。カロリング家カール・マルテル時代から各地の伯に自らの忠実な家臣送り込む努力続けていたが、カール時代にはこれがさらに大規模化徹底され各地の伯にはカール忠実な家臣送り込まれた。こうして伯は地方有力者が就く職からカール地方官僚としての性格強くなった。また、これによって地方独自性薄れ制度平準化地域間人材交流促された。こうした伯などの家臣たちは、カロリング朝崩壊後世襲的勢力蓄え中世貴族王族として権勢をふるうようになるものたち多くいた。荘園経営指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国中央集権化試みている。 「カール大帝巨大な所領群を王領地に併合したばかりではなく管理経営改善しようとも努めた。彼は王領地について、また教会領についても一種検地実施させたが、それは史料のうえでは、教会領および国庫検地範例集「Brevium exempla ad res ecclesiasticas e fiscales describendas」とロルシュおよびクーアラエティアの王国土地台帳にみいだされるカール大帝王国領の管理重視したことを示すきわめて印象深い例証は、御料地令「Capiturale de villis」である。その内容は、国庫領の管理と運営に関する非常に詳細な規定弊害除去のための方策からなっている」。 しかし征服されとはいえザクセンバイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず王国分権傾向社会封建化の進行を完全に抑えることができなかった。カール宮廷そのものが、1箇所留まらずに常に国内移動していた。主な宮廷794年アーヘン築かれいたものの、アーヘンのほかインゲルハイムネイメーヘンなどにも宮廷築いた。それは、絶え領内移動して、王のカリスマ性示し伯の忠誠心を保つため伯との接触確保する必要があったからであり、また、道路整備不充分で、各地から食糧などの生活物資宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。父と共に遠征し南西フランスアクイタニアでは土着貴族勢力強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカール集権化苦慮したことがあらわれている。他に道路改修して交易保護したり、銀を通貨とする貨幣制度定めるなどの施策おこなった外交面では、東方大国であるアッバース朝とは数度使節交換し友好関係保っている。

※この「外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一」の解説は、「カール大帝」の解説の一部です。
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