外征・外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:35 UTC 版)
軍制改革を行い、洪徳元年(1470年)8月にチャンパ王マハー・サジャンの侵入を退けて逆に親征し、チャンパの王都ヴィジャヤ(英語版)を陥落させるなどの成果を挙げた。 征服したチャンパの旧域に広南承宣(中国語版)を設置して現在のベトナム南中部のベトナム化を進め、大越のチャンパに対する優位を確たるものとした。パーンドゥランガ(中国語版)に拠るチャンパ王ガライ(マハー・サジャンの孫)に対しては対立王にデーヴァターを立てて干渉した。また洪徳10年(1479年)8月にラオスのラーンサーン王朝へも親征し、5方向から軍を進めた。王都ルアンパバーンを破壊、現在のジャール平原にあたる地域に鎮寧府を設置し、7県を置いて統治した。その後勢いに乗ってラーンナーに侵攻するが、これは失敗している。雲南に数度派兵、マラッカ王国にも影響を及ぼそうとして後黎朝の最大版図を築いた。 明に対してはチャンパへの侵攻を正当化して介入をかわそうとし、明側は聖宗が偽証を述べたと知っていながら強硬に介入することはできず、土地の返還を勧奨するにとどまった。 洪徳16年(1485年)には周辺勢力に向けて大越に対する朝貢を行うように令を発し、その中にはラオス・チャンパのみならず、ジャワ・シャム・マラッカの名も含まれていた。
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