外征での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 13:43 UTC 版)
1211年からの第一次対金戦争においては、1212年に金に対して反乱を起こした契丹人・耶律留哥への援軍として派遣される。遼陽を攻撃したジェベは都市の守りが固いことを知ると奇襲をかけ、1213年1月に遼陽を制圧した。易州に進軍してチンギスと合流した後に居庸関の攻略を命じられ、居庸関を陥落させた後に将軍ケエテイ、カタイと合流した。 1218年、西遼の王位を簒奪したナイマンのクチュルクに対して、ジェベ率いる20,000の兵士が討伐隊として派遣される。ジェベはクチュルクが籠るカシュガルを攻撃する際、信仰の迫害を受けていたカシュガルのイスラム教徒に信仰の自由を約束すると、カシュガルの住民はクチュルクに対して反乱を起こした。ジェベは逃亡したクチュルクをさらに追撃し、バダフシャーンの山中で捕殺する。戦後、クチュルクの首を吊るしてジャバル・ホージャと共に征服地の各都市を凱旋し、イスラム教徒弾圧に不満を抱いていた市民から歓迎を受けた。また、ジェベは忠誠の証しとしてかつて射殺したチンギスの乗馬と同じ1,000頭の白馬を征服地から探し出し、これをチンギスに献上した。 1219年の征西では、サマルカンドから逃亡したホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの追撃隊としてジェベ率いる10,000の騎兵隊がスブタイと共に派遣される。ホラーサーンに侵入したジェベはバルフ、ニーシャープールを降伏させるが、1220年5月にムハンマドを見失って以降、両将軍はイラン高原西部(イラーク・アジャミー)で破壊を行った。1220年末にムハンマドはカスピ海のアバスクン島(英語版)で没するが、ジェベとスブタイはこの事実を知らないまま追撃を続ける。
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