外征と晩年とは? わかりやすく解説

外征と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 04:28 UTC 版)

康熙帝」の記事における「外征と晩年」の解説

台湾を収併した年、ピョートル1世摂政ソフィア・アレクセーエヴナ顧問ヴァシーリー・ゴリツィン時代ロシア帝国が、満州人故地である黒竜江付近アルバジン南下してきたので、この地域軍事力強化し清露国境紛争)、康熙28年1689年)にソンゴトゥ派遣してネルチンスク条約締結した19世紀受け入れさせられ一連の不平等条約異なり、この条約両国対等立場として結ばれたのである中華思想によれば中国唯一の国家であり、対等な国家存在認めず国境など存在しないという建前だったが、この原則揺るがす内容であった。これには側近イエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト南懐仁)の助言があったといわれ、条約締結の際にもイエズス会士交渉助けた。ただし、その後対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国同様の扱い受けていた。そのため、この条約締結をもってして清朝主権国家体制枠組み包含されたとまではいえない。 1670年代ジュンガル部ガルダン・ハーン噶爾丹)がオイラト覇権握り、さらにモンゴルハルハ部内紛介入ハルハ諸部を制圧した康熙32年1693年)、ハルハ諸侯康熙帝保護求め康熙帝はこれに応えてガルダン対決清・ジュンガル戦争)、みずから軍勢率いて戦闘経て康熙35年1696年)に致命的打撃ガルダン与えることに成功(ジョーン・モドの戦い英語版))、ガルダン敗走中に死去した従来ハルハ諸侯清朝朝貢行い冊封を受けるのみで、他の朝貢国同様に内政自主権行使していたが、これ以後は清の盟旗制に組み込まれることとなる。 18世紀初めダライ・ラマ6世巡って生じたチベット内紛で、青海グシ・ハン王家傍系王族一部ジュンガルツェワンラブタン同盟を結び、康熙56年1717年)にジュンガル軍がチベットへ侵攻しラサ制圧チベットのラサン・ハン(英語版中国語版)を殺害した康熙帝はラサンの救援要請応じ康熙57年1718年)にチベットへ出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた(サルウィン川戦い英語版))。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族主だった者たちを、当初ジュンガル同盟した者たちを含めて北京招き爵位釣って清朝につけることに成功した康熙59年1720年)の第二次派遣軍は、「グシ・ハン打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族軍勢とともに進軍したガリーのガルトク(フランス語版)の知事カンチェンネー(中国語版ドイツ語版)とラサンハン軍にいたツァンのポラネー(中国語版ドイツ語版)らゲリラ勢力蜂起苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て戦わずして中央チベットから撤退していった。 康熙帝は「グシ・ハン立てた法の道ダライラマ擁するチベットハン)」をチベット正統政体認め、この政体回復チベット介入旗印にしていた。康熙60年1721年)には、グシ・ハン一族ハン継承候補者選出するよう求めたが、グシ・ハン一族18世紀初頭以来内紛極み達しており、一族チベット有力者一致して支持しうる候補者選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハン冊封しないまま没しチベット戦後統治処理は次代雍正帝の手委ねられることになる。 康熙60年1721年)、一貴(中国語版)が台湾阿里港(現在の里港郷)で反乱起こしたが、総兵廷珍(中国語版)とその族弟鼎元(中国語版)を派遣し、翌康熙61年1722年)に平定した。この年正月在位61年宴会機嫌よくした康熙帝大臣たちを私室招き機嫌よく思い出話をした。 「私が10年在位した時は20年在位するとは思わなかったし、20年在位した時は203040年在位するとは思わなかった。50の時も60年在位するとは思いもかけなかった。今はもう61年である。歴史によれば70歳達した帝王は3人しかいない。なんと私は恵まれているのだろう。私はいつも臣下寛大にふるまい大臣たちの身の保全には特に気をつけた。だからお前たちもみな、年を経て幸福に暮らし、名誉をともなっていられるのだ。こうやって向かい合っている君臣が髪も髭も白くなっているとは楽しいことではないか。」 また、得意の戦争や6回の南方巡航回顧した康熙61年11月8日康熙帝冷風に当たり高熱出し、その6日後の11月14日崩御した。順治帝は清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清東陵陵墓がある。 1691年国内キリスト教邪教として扱い宣教師追放した動きがあったが、この際康熙帝寛容態度をとり、「西洋人我が国暦法助け軍事面においても大砲造った。これらの誠心認め布教事業禁止はしない」と1692年命令下した。しかし、1704年ローマ法王中国圧力かけよう派遣した鐸羅との謁見中国対する『禁約文』を出され態度変わったローマ法王このような行為中国への内政干渉であると立腹し中国法律違反した宣教師らを国外追放、さらに鐸羅をマカオ追放するなどとした。

※この「外征と晩年」の解説は、「康熙帝」の解説の一部です。
「外征と晩年」を含む「康熙帝」の記事については、「康熙帝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「外征と晩年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「外征と晩年」の関連用語

外征と晩年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



外征と晩年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの康熙帝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS