連年の外征と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 05:49 UTC 版)
翌918年、シメオンは北ギリシアへ侵入し、ブルガリアから遙か南方のコリント湾まで進軍した。これまで基本的に東ローマ首都を目指していたシメオンが示した突然の方向転換に対して、ブラウニングはこの遠征目的が、彼の活動的な性格による物か、あるいは東ローマ軍をギリシア方面まで釣り出したかったか、またはブルガリア国家の性質として、軍の維持費や功績の報奨を自国で賄えないため、他国を侵略するしかなかったからではないか、としている。ブルガリアの軍事行動は毎年に及び、920年には再びセルビアの反ブルガリア勢力を攻撃し、南方はトラキアの各地に侵攻した。翌年や翌々年もコンスタンティノープル前まで進軍し、923年にはアドリアノープルを再び奪取した。この頃、シメオンは総主教ニコラオスに、共治帝に登っていたロマノス・レカペノスの退位や自分の親族と東ローマ皇帝との間に結婚同盟を結ぶことを提案しているが拒絶されている。 また、シメオンは海軍の支援を得るためにアフリカのファーティマ朝と交渉して合意に達したため、924年に再びコンスタンティノープルに軍を進めたが、東ローマもファティーマ朝と外交を行って妨害したため都市の攻略を断念した。9月9日、シメオンは皇帝との謁見を求め城内に入る。その際、シメオンは「バシレウス」と絶えず歓呼する多数の随員を伴ってロマノスとの会見に臨んだ。このときの会見の内容は不明だが、シメオンはブルガリア北方での不穏な動きのため急遽プレスラフに帰還する。925年頃、シメオンは「ローマ人とブルガリア人の皇帝」を名乗り(ロマノスから抗議が届いたが無視した)、926年にブルガリア大主教レオンティウスを東ローマ教会から独立させ、総主教に昇格させた。同年、シメオンは敵対的な諸侯の鎮圧のためセルビアに侵攻していたが、秋に西隣のクロアティア王国にも配下を遠征させるとクロアティア王トミスラフの軍勢に主力部隊を全滅させられ、ローマ教皇の仲裁でやっと侵攻を免れる事態に陥った(この際の書簡でシメオンはローマ教皇から「皇帝」の称号を使うことを許されている)。 翌927年5月27日、首都プレスラフでシメオンは崩御した。東ローマの年代記には、占星術師はシメオンのストイケイオン(特定の人物や地域の守護精霊)が首都のクセロロフォス地区の像であると見なしたため(当時は「ある人物」と「ある物体」は運命を共有するという迷信があった)、ロマノスがこの像の首を撃たせると、同時期にシメオンが崩じたと記している。 シメオンの崩御後、長男のミハイルは修道院に監禁されていたため、伯父ゲオルギを後見人にして次男のペタルが皇位を継いだ。ペタルは父の崩御の数ヶ月後にはロマノスの孫娘マリア・レカペナと結婚し、毎年の貢納金も認められるなど、父とは一転して東ローマ帝国に従属する方針をとった。このペタルの方針やシメオン治世下による負の遺産(例年の軍事行動で人的、物的資源を消耗した)によってブルガリア(第一次ブルガリア帝国)は衰退していったが、一方でほとんど外敵に侵略されることがなかったため首都プレスラフを中心にスラブ・キリスト教文化が大いに発展した。
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