連帯運動の活発化
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「サンタクルス事件」の記事における「連帯運動の活発化」の解説
ポルトガルでは、事件を機に東ティモール問題が国際的なテーマとなり、各地の学校で特別授業が開かれ、支援運動の輪も広がっていった。支援運動は、1992年3月9日から、オーストラリアのダーウィンから東ティモールへ向けて、「ピース・ミッション」と銘打った航行を行った。この企画には、元大統領のアントニオ・エアネスなど、世界21か国から約150人が参加した。しかし、翌朝にはインドネシア軍艦3隻に囲まれ脅しを受けたため、引き返した。 アメリカ合衆国では、東ティモール行動ネットワーク(ETAN)が設立され、ニューヨークを拠点としてワシントンD.C.にロビー活動の担当事務所を置き、運動が広がりを見せた。1990年代半ばになると、日本に置かれていた国際東ティモール連盟(IFFT)事務局も、アメリカへ移転した。 またアイルランドでは、スタールの製作したドキュメンタリー番組を発端にして、連帯グループが急速に広がった。イギリスの支配を受けていたアイルランドは、当時の東ティモールの状況が理解されやすく、アイルランド政府も東ティモール支援に熱心となった。 インドネシア国内でも、インドネシア法律扶助協会(LBH)、インファント、人権擁護協会、新人生協会といったNGOや、カトリック司教協議会などが声明を発表した。事件から1週間後の1991年11月19日には、インドネシア在住の東ティモール人学生によるデモ行進がジャカルタで行われた。80 - 100人の参加者は、国連事務所からソ連、日本、イギリス、オーストラリアの大使館前を行進したが、途中で当局により逮捕された。これを機に、当局は東ティモール人学生の地下組織の摘発に乗り出した。バンドンのパジャジャラン大学では、ジャカルタの東ティモール人学生逮捕に抗議するデモが行われ、8人が逮捕された。同大学で開かれていた全ジャワ学生会連絡会の総会は、11月21日、インドネシア国軍の東ティモール撤退と東ティモール人の自決権行使を求める声明を発表した。 このほか、アジア地域でも1994年6月、市民団体によってアジア太平洋東ティモール会議(APCET)がフィリピン・マニラで開催された。この会議の開催にあたっては、直前にインドネシア政府がフィリピン政府に対して、自らが仲介しているモロ民族解放戦線(MNLF)とフィリピン政府の和平交渉の破棄を示唆し、国境海域でのフィリピン漁船拿捕などの圧力をかけ始めた。しかし、言論の自由を憲法で保障しているフィリピンでは会議の中止は難しいとして、外国人参加者の入国禁止などによって要請に応えようとした。さらに同年4月に結成されたフィリピン・インドネシア友好協会が、国益を損ねるとしてケソン地裁に仮差し止めを請求し、これが認められた。しかし、会場のフィリピン大学法学部長らが原告となって、仮差し止めの停止を求め、最高裁に提訴した。判決は、会議開始2時間前に出され、仮差し止めを違法とした。会議は、アジア太平洋東ティモール連合(APCET)を発足させ、初代名誉議長に名古屋教区の相馬信夫司教を選出して終結した。APCETは、その後、2年ごとに会議を開催している。
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