地下鉄と東海道新幹線の開通
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「東京駅の歴史」の記事における「地下鉄と東海道新幹線の開通」の解説
山手線と京浜東北線の分離運転が開始されたのと同じ1956年(昭和31年)11月19日、東海道本線の全線電化が完成し、特急「つばめ」「はと」はEF58形電気機関車が全線を通して牽引するようになった。また九州との間を夜行で結ぶ「あさかぜ」も運転を開始したが、当初は各種の寝台車や座席車の寄せ集めであり、1958年(昭和33年)から20系客車による固定編成となっていわゆる「ブルートレイン」となった。さらに1958年(昭和33年)11月1日から、20系電車(後に151系)による初の電車方式の特急「こだま」が運転を開始した。この時期は電車急行も大増発され、夜間は10分おきに夜行列車が出発するなど、東京駅は優等列車の発着で1日中賑わっていた。これに加えて1957年(昭和32年)10月15日からは準急「日光」が日光へ向けて運行を開始し、以降東京駅に発着する東北本線・高崎線・常磐線の特急・急行列車は増加していった。一方、東北・常磐・高崎線方面からの普通列車の東京乗り入れでは順次電車化・電気機関車牽引化がすすめられていったことから、1961年(昭和36年)5月31日の常磐線第435・424列車牽引のC62形蒸気機関車を最後に、東京駅における蒸気機関車定期運行が終了した。 1935年(昭和10年)時点で1日約12万8000人であった東京駅の乗降客数は第二次世界大戦後も増加し続けて1955年(昭和30年)時点で1日約49万8000人に達した。中央線においても通勤客が激増しており、大規模な線増計画なども検討されていたが短期間での対応は困難であった。一方で、東京駅では第2 - 第7のプラットホームがいずれも幅12 mであるのに対し第1プラットホームのみ幅9 mで、朝ラッシュ時2分間隔で到着する列車からの降車客が溢れて開扉制限を行わなければならない状況があり、2分間隔の維持に支障をきたしていた。そこで、2番線と3番線の間に留置線が1線あったことを利用して、2番線を撤去し従来の留置線を新たな2番線とし、その分4 mホームを広げて幅13 mにする工事を行うことにした。あらかじめホーム擁壁を留置線脇に造っておき、ホーム用のプレストレスト・コンクリート板を準備しておいて、1957年(昭和32年)7月14日の夜に一晩で拡幅工事を施工した。さらに乗車口へ通じる通路(南通路)を拡幅し、これへ降りる階段も拡幅した。中央通路についても、5 m幅で残っていた部分を拡幅して8 m幅として、丸の内から八重洲まで統一した幅を確保し、かつ第1・2プラットホーム下にあった2か所の階段を撤去して階段を残り2か所とした。降車口へ通じる通路(北通路)についてもこの機会に階段の付け替えや拡幅を実施した。これらの工事の際に、将来第1プラットホームより丸の内側に追加のプラットホームを増設することを考慮した配置としている。これに加えて、1953年(昭和28年)7月1日に開通した第1自由通路だけでは処理しきれないくらい通り抜け利用者が増えてきたことから第2自由通路に着手することになり、もともと郵便地下道として利用されていた通路を転用する工事が1958年(昭和33年)1月14日に始まった。この通路はもともと八重洲側から第2プラットホームまでしか通じていなかったので、丸の内側まで貫通させる工事を実施し、総工費2400万円をかけて1959年(昭和34年)3月10日に開通した。 こうした東京の輸送需要の救済を図るためにも、第二次世界大戦後は地下鉄網の整備が進められた。東京駅にかかわるものとしては、帝都高速度交通営団(営団地下鉄、後の東京地下鉄(東京メトロ))丸ノ内線が1956年(昭和31年)7月20日に淡路町駅から当駅まで開通した。さらに1957年(昭和32年)12月15日には西銀座駅(後の銀座駅)まで延長されている。この丸ノ内線東京駅は丸の内側駅前広場の地下に建設されており、地下通路で丸の内南口、丸の内北口との連絡が図られた。また中央線の混雑緩和が課題となっていたが都心部の線増工事はほとんど不可能となっていたため、地下鉄への直通乗り入れが行われることになり、東西線の建設と中央・総武緩行線から乗り入れが決定された。東西線は、丸ノ内線の淡路町 - 東京間の開通と同時に開設されていた大手町駅に1966年(昭和41年)10月1日に乗り入れた。大手町駅と東京駅の間は地下通路が建設されて連絡を果たすようになり、中央線の快速電車の混雑率緩和や秋葉原駅の乗換混雑の緩和に大きな役割を果たした。こうした地下鉄建設もあり、東京駅の国鉄の乗降客数は1965年(昭和40年)の1日約82万6000人でほぼ頭打ちすることになった。 高度経済成長を背景に東海道本線の輸送需要も増加を続け、いよいよ限界に達しつつあった。このため戦前の弾丸列車計画を受け継いで新幹線計画が開始されることになり、1959年(昭和34年)4月20日に新丹那トンネル東口において起工式が行われた。一方東京におけるターミナル駅をどこにするかは決定が遅れた。東京駅における混雑がさらに激化することを懸念する意見もあったが、周辺交通への乗り継ぎの便を考慮し、また八重洲駅舎建設時に第7プラットホームとの間にさらに2面のプラットホーム建設余地を残してあり乗り入れる余地があったこともあり、東京駅をターミナルとすることが決定された。こうして1960年(昭和35年)11月12日に東京駅構内の工事に着手された。東京駅へ乗り入れる東海道本線の線路はこの当時横須賀線の電車が共用していたが、輸送力の逼迫を背景に戦災復興時に入手しておいた線増用地を利用し横須賀線用の線路増設を行う工事が検討され、実際に基礎工事も開始されていた。しかし新幹線建設が決定したことにより、この用地は新幹線用に流用することになった。新幹線が開通すれば東海道本線の輸送力に余裕が出るので、横須賀線との分離工事は先送りできると判断されたためである。有楽町付近においては土地を確保できていなかったが、道路をまたいで高架橋を建設することで解決された。建設には東京駅開業以来建設を請け負ってきた大林組に加えて鹿島建設が参加し、高架橋工事と幅10.2 m、長さ360 mのプラットホーム2面を増設する工事を行った。またその下部に広い旅客コンコースを設置し、それまでここにあった名店街を地下に移設した。こうして1964年(昭和39年)10月1日、東海道新幹線が開通し、第8・9プラットホームの17・18・19番線(2面3線)が供用開始となった。 この新幹線ホームは、当初16番線を含む2面4線として計画されていたが、16番線は在来線の機回り線として既に使用されており、開業当初の新幹線の列車本数では2面3線で十分であったことから、開業後の需要を見ながら必要に応じて増設するということになり、16番線はそのまま在来線用に存置されていた。しかし新幹線開業後の旅客需要の増大は急激であり、1967年(昭和42年)3月に列車増発を実現することを目指して、新幹線用に16番線を転用する工事が1965年(昭和40年)10月に開始された。また1969年(昭和44年)から新幹線の16両編成化が計画されていたため、当初全長360 mで建設されていたプラットホームを南側に70 m延長する工事を行った。在来線側の建築限界に支障されてホーム幅が狭くなっていた南側についての拡幅も実施されている。転用に関しては、新幹線のレール面は在来線に比べてさらに1.9 mほど高かったため、在来線用の高架橋の上に鉄桁を挿入してレール面をかさ上げする工事を行っている。この他、16番線に支障されて建設していなかった部分の高架橋の建設工事が行われている。新幹線用の16番線は、1967年(昭和42年)3月10日に供用開始された。 新幹線の始発駅として社会的・経済的な重要性が増していく中で、東京駅を標的としたテロも発生した。1967年3月31日、みどりの窓口(新幹線当日切符売り場)近くのゴミ箱に仕掛けられた爆弾が爆発、14人が重軽傷を負う事件が発生した。丸の内警察署に特別捜査本部が置かれて捜査が行われたが、手掛かりは乏しく進展はしなかった。 この頃、八重洲側の整備がさらに進展していた。狭い八重洲駅前広場の旅客を捌くために地下街と地下駐車場を設ける構想となり、1963年(昭和38年)6月に着工した八重洲地下街は1965年(昭和40年)6月に1期工事が竣工し、さらに1969年(昭和44年)2月に2期工事竣工となった。この地下街は地下1階に店舗が、地下2階に駐車場が設置され、一部設けられた地下3階に機械設備類が収められている。この地下街の駐車場は、首都高速八重洲線と地下での連絡が可能な構造となっている。また当初から八重洲の駅舎は12階建てを目指して計画されていたものであったが、建築基準法の高さ31 m制限により暫定的に6階建てで竣工していた。1964年(昭和39年)に建築基準法が改正されて高さ制限が緩和されたため、当初予定の12階建てに増築する工事に1967年(昭和42年)1月に着手し1968年(昭和43年)6月30日に竣工した。
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