八重洲駅舎新設と山手線・京浜東北線分離運転に向けての工事
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「東京駅の歴史」の記事における「八重洲駅舎新設と山手線・京浜東北線分離運転に向けての工事」の解説
1949年(昭和24年)6月1日、国鉄は運輸省の一部門から独立し、公共企業体の日本国有鉄道が発足した。戦災復興作業が一段落すると、国鉄は電化区間の延伸や特急の運転再開・増発などに取り組み始め、またそれまで主流であった機関車が客車を牽引する方式(動力集中方式)から電車方式(動力分散方式)に転換を始めるなど、高度経済成長へ向けて高速大量輸送を支える新しい技術とサービスの導入が進んでいった。この時代は国鉄黄金時代と称される。 1949年(昭和24年)9月15日から、戦後初の特急列車として「へいわ」が東京 - 大阪間に運転開始された。翌1950年(昭和25年)1月1日には「つばめ」に改称され、5月11日からは「はと」も運転開始されて2往復となった。また機関車牽引方式の列車では機関車の付け替え作業に手間がかかることも一因となり、1950年(昭和25年)3月1日から東京 - 沼津間および東京 - 伊東間に80系電車を使用した湘南電車の運転が開始された。当初は度重なる故障から「湘南電車」ならぬ「遭難電車」の汚名を受けることになってしまったが、以降の電車方式での発展に大きな足跡を記すことになった。一方、1946年(昭和21年)4月22日から上野 - 札幌間で運転を開始した連合軍専用列車「ヤンキー・リミテッド」は同年7月15日から東京駅始発となり、東京 - 上野間の列車線を使用する珍しい列車となった。講和条約発効後日本人も乗車できるようになり第1201・1202列車となり、1954年(昭和29年)10月1日ダイヤ改正で「十和田」と愛称が付けられたが、1956年(昭和31年)11月19日ダイヤ改正で上野始終着に戻った。 東京駅の設備に関しては、大戦前に着工されて戦時中に途中まで完成して中断していた拡張工事が、大戦後再開された。以前の計画では、東京 - 田町間に増設する線路は横須賀線を東海道本線から分離し、また京浜東北線の急行運転を行うために用いる計画であった。線路の増設は完成して、そちらに東海道本線と横須賀線の運転を移転し、旧列車線を改修する工事の段階で中止となっていた。大戦後は、山手線・京浜東北線の輸送量増加が激しく通勤地獄が出現してしまい、その対策が焦眉の急であったことから、大戦前の計画を放棄して新設線路は山手線と京浜東北線を分離するために充てられることになった。またこの通勤問題への救済として1946年(昭和21年)8月1日から東北本線・常磐線・高崎線の一部列車が列車線を経由して新橋駅まで乗り入れるようになった。これは当初蒸気機関車牽引であり、電化が進むと電車化されたが、通勤輸送の増強が進んだ後も継続され、最終的に新幹線用ホーム増設工事に伴って1973年(昭和48年)4月1日に中止となった。 まず最初に着手されたのは東京駅北側に列車用の引き上げ線を増設する工事であった。この時点では山手線と京浜東北線の分離は決定されていなかったため当初は第6プラットホームの増設と一緒に工事を行う計画であったが、通勤輸送事情が逼迫してきて山手線と京浜東北線をホームだけでもとりあえず分離を行う必要に迫られたことから、工事の手戻りを避けるために第7プラットホームも同時に着工する方針となった。1949年(昭和24年)に引き上げ線工事に着手され、1951年(昭和26年)12月1日に使用開始された。この引き上げ線はその後東京 - 上野間に線路を増設する際に転用する計画であったため、その後秋葉原駅付近までさらに延長工事が行われている。 第6・7プラットホームは、幅12 m、長さ340 mで、第4プラットホームに比べて1.67 m、第5プラットホームに比べても0.4 m高く構築された。当時朝鮮戦争により深刻な鋼材不足が発生しており、ホームを支える桁に高価な鋼製桁は採用困難で、また単純な鉄筋コンクリートを採用すると安価になるものの戦前構築の第5高架橋への負担が増加してしまうという問題があった。そこで当時はまだ新しかったプレストレスト・コンクリート (PC) を採用することになり、慎重な試験を繰り返し東京駅手小荷物扱所通路における実験的な適用を経て採用された。線路を載せる高架橋については、第6プラットホームに面する12番線までは戦時中の高架橋工事で完成しており、13番線と14番線を載せる高架橋および15番線と16番線を載せる高架橋を2線2柱式で建設した。第7プラットホームの方が先に1953年(昭和28年)7月1日に東海道線列車用に供用開始され、続いて同年9月1日に第6プラットホームの横須賀線・湘南電車への供用が開始された。 またこの高架橋の下を一部利用し、八重洲口南側よりもさらに南に手小荷物扱所が建設された。約6900平方メートルの建物が3億5000万円を投じて建設され1952年(昭和27年)7月1日から使用開始された。その後取扱量はさらに増加を続けていたが、輸送改善のために旅客輸送と荷物輸送を分離することが検討されるようになり、東海道新幹線開業に合わせて汐留駅に設置された設備に一部を移行し、さらに汐留駅の設備の改良と共に移転を続けて東京駅での扱いは縮小していった。後にトラックに押されて荷物輸送は完全に廃止となっている。 第4プラットホームは第5プラットホームより1.27 m低い位置にあったが、今後東海道線・横須賀線用として使用していく上では第5プラットホームと同じ高さにあることが望ましかった。そこで第6・第7プラットホームが供用開始して、山手線と京浜東北線の分離工事が完了する前の時期に第4プラットホームを一時使用停止してかさ上げする工事が行われることになった。また電車用に転用される第3プラットホームについても多少のかさ上げが行われることになった。このため1953年(昭和28年)7月1日の第7プラットホーム使用開始時に10・11・12番線を使用停止してかさ上げ作業を開始し、さらに9月1日の10・11・12番線使用再開、第6プラットホーム使用開始時に7・8・9番線を使用停止して配線変更と第4プラットホームかさ上げ作業を行い、11月1日に9番線使用再開と5・6番線使用停止し第3プラットホームかさ上げ作業を行うなどと順に作業を進めて行った。翌1954年(昭和29年)2月16日には8番線を使用再開し、3月30日にはそれまで4番線を使用していた山手線外回り・京浜東北線南行を6番線に移した。この間、ますます混雑が激しさを増してきたことから、上野駅におけるプラットホーム増設工事完成を機に1954年(昭和29年)4月15日から常磐線の電車が列車線を経由して有楽町まで乗り入れを開始した。東京から有楽町までは、既に完成していた後に京浜東北線南行に用いられる線路を利用した単線運転で、朝夕のピーク時間帯に10分間隔で運転された。この列車は東京駅では7番線を使用した。 こうして順次工事が進められてきて、また東京 - 田町間の橋桁や橋台などの改修・架設工事、プラットホームの整備、東京 - 田端間の2線増設などの工事も進み、1956年(昭和31年)11月19日に供用開始され、ここに山手線と京浜東北線の分離工事が完成した。これにより、東京駅のプラットホームは第1プラットホーム(1・2番線)が中央線電車発着、第2プラットホーム(3・4番線)が山手線内回り・京浜東北線北行、第3プラットホーム(5・6番線)が山手線外回り・京浜東北線南行、第4プラットホーム7番線が列車到着、東北・常磐・高崎線方面列車出発、8番線が列車到着、第5プラットホーム9番線列車到着、10番線列車発着、第6プラットホーム12番線湘南電車発着、13番線横須賀線発着、第7プラットホーム(14・15番線)が列車出発、11・16番線はプラットホームに面しない回送線となった。 この間、日本交通公社に営業委託することになっていた東京鉄道ホテルを東京ステーションホテルに名称を戻して運営を再開する方向になったが、GHQの指令で交通公社による国鉄乗車券発行への手数料が削減されることになり経営問題に発展したことから、日本ホテルを設立して営業再開することになった。1951年(昭和26年)1月17日に起工式が行われ、同年11月15日に営業を再開した。 また、中央通路は従来丸の内側から第1・2プラットホームまでだけつながっており、その幅も5 mしかなかった。しかし位置的に乗換にも八重洲側への行き来にも便利であったことからこれを八重洲側まで貫通させる方針となった。これは戦前からの計画であり、第5プラットホームの高架橋建設時にもそれが考慮されていた。1953年(昭和28年)1月6日に着工され、1954年(昭和29年)2月16日に開通した。新しく建設された部分は幅8 mとされたが従来部分はそのままで、また丸の内側からだと第1プラットホームの前で階段で上がり、第2プラットホームの八重洲側で下り、第4プラットホームのところでまた上って第6プラットホームのところでまた下るという4か所の階段を抱えた構造となってしまった。これに加えて東京駅付近では約750 mにわたって東西方向に通り抜けできる通路が無いという問題があったため、北側の旧手小荷物通路を転用して第1自由通路として利用することになり、1953年(昭和28年)7月1日に開通した。 一方八重洲口は1949年(昭和24年)の焼失以降、仮駅舎を設置して営業してきたが、第6・7プラットホームの整備や手小荷物扱所の建設などで駅の整備が進んできたこともあり、本格的な駅舎建設に乗り出すことになった。当初は外堀通りに面するところまで駅舎を前に出し、さらにその東側の土地を買収して広大な駅前広場を建設する構想もあったが、地元の反対運動により頓挫し、約38.0 m後退させて駅舎を建設することになった。国鉄だけの資本では実現困難であったことからいわゆる民衆駅として民間資本を導入する目的で鉄道会館が設立された。1952年(昭和27年)10月14日の鉄道開通80周年記念の日に鍬入れ式が挙行された。建設に当たっては第7プラットホームとの間にさらに2面のプラットホームを増設可能なように配慮して位置が決定された結果、駅舎の前面の線がかつての外堀の線に一致することになった。正面幅132.0 m、奥行きは南側で25.0 m、北側で45.0 mとされ、本来は地下2階、地上12階として計画されたが、建築基準法改正前であったためとりあえず第一期工事は6階までとなり、1954年(昭和29年)10月14日に竣工した。東京の百貨店各社は、あまり駅ビルに興味を示さなかったことから、東京進出に熱心であった、関西を地盤とする大丸(現:大丸松坂屋百貨店(J.フロント リテイリング傘下))が進出することになり、同年10月21日営業を開始した。またこれに先立ち、第6・7プラットホームの高架下を利用して1953年(昭和28年)7月1日に東京駅名店街が開設され、1955年(昭和30年)7月20日には八重洲駅舎と第7プラットホームの間を結ぶ連絡上屋が完成してここに待合室なども設置された。この間、1953年(昭和28年)7月1日に八重洲乗車口と八重洲北口、9月1日に八重洲中央口と八重洲南口が開設されている。
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