八重洲駅舎新設と山手線京浜東北線分離運転に向けての工事とは? わかりやすく解説

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八重洲駅舎新設と山手線・京浜東北線分離運転に向けての工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)

東京駅の歴史」の記事における「八重洲駅舎新設と山手線・京浜東北線分離運転に向けての工事」の解説

1949年昭和24年6月1日国鉄運輸省一部門から独立し公共企業体日本国有鉄道発足した戦災復興作業一段落すると、国鉄電化区間の延伸特急運転再開増発などに取り組み始め、またそれまで主流であった機関車客車牽引する方式動力集中方式)から電車方式動力分散方式)に転換始めるなど、高度経済成長向けて高速大量輸送支え新し技術サービス導入進んでいった。この時代国鉄黄金時代称される1949年昭和24年9月15日から、戦後初の特急列車として「へいわ」が東京 - 大阪間に運転開始された。翌1950年昭和25年1月1日には「つばめ」改称され5月11日からは「はと」も運転開始されて2往復となった。また機関車牽引方式列車では機関車付け替え作業手間がかかることも一因となり、1950年昭和25年3月1日から東京 - 沼津間および東京 - 伊東間に80系電車使用した湘南電車の運転が開始された。当初度重なる故障から「湘南電車」ならぬ「遭難電車」の汚名を受けることになってしまったが、以降電車方式での発展大きな足跡を記すことになった一方1946年昭和21年4月22日から上野 - 札幌間で運転を開始した連合軍専用列車ヤンキー・リミテッド」は同年7月15日から東京駅始発となり、東京 - 上野間列車線使用する珍しい列となった講和条約発効後日本人乗車できるようになり第1201・1202列車となり、1954年昭和29年10月1日ダイヤ改正で「十和田」と愛称付けられたが、1956年昭和31年11月19日ダイヤ改正上野始終着に戻った東京駅設備に関しては、大戦前に着工され戦時中途中まで完成して中断していた拡張工事が、大戦後再開された。以前の計画では、東京 - 田町間増設する線路横須賀線東海道本線から分離し、また京浜東北線急行運転を行うために用い計画であった線路増設完成して、そちらに東海道本線横須賀線の運転を移転し、旧列車線改修する工事段階中止となっていた。大戦後は、山手線京浜東北線輸送量増加激しく通勤地獄出現してしまい、その対策焦眉の急であったことから、大戦前の計画放棄して新設線路山手線京浜東北線分離するために充てられることになった。またこの通勤問題への救済として1946年昭和21年8月1日から東北本線・常磐線高崎線一部列車列車線経由して新橋駅まで乗り入れるようになった。これは当初蒸気機関車牽引であり、電化が進むと電車化されたが、通勤輸送増強進んだ後も継続され最終的に新幹線用ホーム増設工事伴って1973年昭和48年4月1日中止となった。 まず最初に着手されたのは東京駅北側列車用の引き上げ線増設する工事であった。この時点では山手線京浜東北線分離決定されていなかったため当初は第6プラットホーム増設一緒に工事を行う計画であったが、通勤輸送事情逼迫してきて山手線京浜東北線ホームだけでもとりあえ分離を行う必要に迫られたことから、工事の手戻り避けるために第7プラットホーム同時に着工する方針となった1949年昭和24年)に引き上げ線工事着手され1951年昭和26年12月1日使用開始された。この引き上げ線その後東京 - 上野間線路増設する際に転用する計画であったため、その後秋葉原駅付近までさらに延長工事が行われている。 第6・7プラットホームは、幅12 m、長さ340 mで、第4プラットホーム比べて1.67 m、第5プラットホーム比べても0.4 m高く構築された。当時朝鮮戦争により深刻な鋼材不足が発生しており、ホーム支え高価な鋼製採用困難で、また単純な鉄筋コンクリート採用する安価になるものの戦前構築の第5高架橋への負担増加してしまうという問題があった。そこで当時はまだ新しかったプレストレスト・コンクリート (PC) を採用することになり、慎重な試験繰り返し東京駅手小荷物扱所通路における実験的な適用経て採用された。線路載せる高架橋については、第6プラットホーム面する12番線までは戦時中高架橋工事完成しており、13番線と14番線を載せる高架橋および15番線と16番線を載せる高架橋を2線2式で建設した。第7プラットホームの方が先に1953年昭和28年7月1日東海道線列車用に供用開始され、続いて同年9月1日に第6プラットホーム横須賀線湘南電車への供用開始された。 またこの高架橋の下を一部利用し八重洲口南側よりもさらに南に手小荷物扱所が建設された。約6900平方メートル建物が3億5000万円投じて建設され1952年昭和27年7月1日から使用開始された。その後取扱量はさらに増加続けていたが、輸送改善のために旅客輸送荷物輸送分離することが検討されるようになり、東海道新幹線開業合わせて汐留駅設置され設備一部移行し、さらに汐留駅設備改良と共に移転続けて東京駅での扱い縮小していった。後にトラック押され荷物輸送は完全に廃止となっている。 第4プラットホームは第5プラットホームより1.27 m低い位置にあったが、今後東海道線横須賀線用として使用していく上では第5プラットホームと同じ高さにあることが望ましかった。そこで第6・第7プラットホーム供用開始して、山手線京浜東北線分離工事完了する前の時期に第4プラットホーム一時使用停止してかさ上げする工事が行われることになった。また電車用に転用される第3プラットホームについても多少かさ上げが行われることになったこのため1953年昭和28年7月1日の第7プラットホーム使用開始時に10・1112番線を使用停止してかさ上げ作業開始し、さらに9月1日10・1112番使用再開、第6プラットホーム使用開始時に7・8・9番線使用停止して配線変更と第4プラットホームかさ上げ作業行い11月1日に9番線使用再開5・6番線使用停止第3プラットホームかさ上げ作業を行うなどと順に作業進めて行った。翌1954年昭和29年2月16日には8番線使用再開し3月30日にはそれまで4番線使用していた山手線外回り京浜東北線南行6番線移したこの間、ますます混雑激しさ増してきたことから、上野駅におけるプラットホーム増設工事完成機に1954年昭和29年4月15日から常磐線電車列車線経由して有楽町まで乗り入れ開始した東京から有楽町までは、既に完成していた後に京浜東北線南行用いられる線路利用した単線運転で、朝夕ピーク時間帯に10分間隔で運転された。この列車東京駅では7番線使用した。 こうして順次工事進められてきて、また東京 - 田町間橋桁橋台などの改修架設工事プラットホーム整備東京 - 田端間の2線増設などの工事進み1956年昭和31年11月19日供用開始され、ここに山手線京浜東北線分離工事完成した。これにより、東京駅プラットホームは第1プラットホーム1・2番線)が中央線電車発着、第2プラットホーム3・4番線)が山手線内回り京浜東北線北行第3プラットホーム5・6番線)が山手線外回り京浜東北線南行、第4プラットホーム7番線列車到着東北常磐高崎線方面列車出発8番線列車到着、第5プラットホーム9番線列車到着10番列車発着、第6プラットホーム12番湘南電車発着13番横須賀線発着、第7プラットホーム1415番線)が列車出発11・16番線プラットホーム面しない回送線となったこの間日本交通公社営業委託することになっていた東京鉄道ホテル東京ステーションホテルに名称を戻して運営再開する方向になったが、GHQ指令交通公社による国鉄乗車券発行の手数料が削減されることになり経営問題発展したことから、日本ホテル設立して営業再開することになった1951年昭和26年1月17日起工式が行われ、同年11月15日営業再開したまた、中央通路従来丸の内側から1・2プラットホームまでだけつながっており、その幅も5 mしかなかった。しかし位置的に乗換にも八重洲側への行き来にも便利であったことからこれ八重洲側まで貫通させる方針となった。これは戦前からの計画であり、第5プラットホーム高架橋建設時にもそれが考慮されていた。1953年昭和28年1月6日着工され1954年昭和29年2月16日開通した新しく建設され部分は幅8 mとされたが従来部分そのままで、また丸の内側からだと第1プラットホームの前で階段上がり、第2プラットホーム八重洲側で下り、第4プラットホームのところでまた上って第6プラットホームのところでまた下るという4か所の階段抱えた構造となってしまった。これに加えて東京駅付近では約750 mにわたって東西方向通り抜けできる通路が無いという問題があったため、北側の旧手小荷物通路転用して第1自由通路として利用することになり、1953年昭和28年7月1日開通した一方八重洲口1949年昭和24年)の焼失以降仮駅舎を設置して営業してきたが、第6・7プラットホーム整備手小荷物扱所の建設などで駅の整備進んできたこともあり、本格的な駅舎建設乗り出すことになった当初外堀通り面するところまで駅舎前に出し、さらにその東側土地買収して広大な駅前広場建設する構想もあったが、地元反対運動により頓挫し、約38.0 m後退させて駅舎建設することになった国鉄だけの資本では実現困難であったことからいわゆる民衆駅として民間資本導入する目的鉄道会館設立された。1952年昭和27年10月14日鉄道開通80周年記念の日に鍬入れ式挙行された。建設当たっては第7プラットホームとの間にさらに2面プラットホーム増設可能なように配慮して位置決定され結果駅舎前面の線がかつての外堀の線に一致することになった正面幅132.0 m、奥行き南側で25.0 m、北側で45.0 mとされ、本来は地下2階地上12階として計画されたが、建築基準法改正であったためとりあえ第一期工事6階までとなり、1954年昭和29年10月14日竣工した東京百貨店各社は、あまり駅ビル興味を示さなかったことから、東京進出に熱心であった関西地盤とする大丸(現:大丸松坂屋百貨店J.フロント リテイリング傘下))が進出することになり、同年10月21日営業開始した。またこれに先立ち、第6・7プラットホーム高架下利用して1953年昭和28年7月1日東京駅名店街開設され1955年昭和30年7月20日には八重洲駅舎と第7プラットホームの間を結ぶ連絡上屋完成してここに待合室なども設置された。この間1953年昭和28年7月1日八重洲乗車口八重洲北口9月1日八重洲中央口八重洲南口開設されている。

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