人物、音楽性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 12:17 UTC 版)
ビーチ・ボーイズマニアとまで言われる程ビーチボーイズに詳しく、山下達郎が影響を受けたのは、多くがブライアン・ウィルソンとビーチ・ボーイズのようなアメリカン・ポップス・ロックのミュージシャンからであった。自分のアルバムにもビーチ・ボーイズのカバーをしている。また、日本におけるドゥーワップの熱心なファンの一人であり、知識も豊富である。自分自身のヴォーカルを多重録音する「1人ア・カペラ」という手法を用いることでも知られている。彼は他にソフト・ロック、ブルーアイド・ソウル、コーラス・グループ、スウィート・ソウルなどのファンでもある。ジェームス・ブラウンやガレージ・ロックも好むなど、音楽の趣味は幅広い。なお、萩原健太とならび、日本におけるビーチ・ボーイズ・ファンの代表格である。 音楽作りに対する拘りと独自の制作姿勢から「音の職人」とも称される。レコーディングではボーカル・バックコーラスのほか、編曲からギター、コンピューターの打ち込み、シンセサイザー、パーカッションまで1人で手掛けている。全ての演奏を1人で行っている楽曲もある。特にギターのリズムカッティングを得意としている。アコースティック感の強い作風を持ち味とするが、最新技術を活用する方針のため、アナログからデジタルまでカバーする幅広いノウハウを持つ。 大貫妙子らと共にシュガー・ベイブを結成し、アルバム『SONGS』(1975年)でデビューした。プロデュースを手掛けた大瀧詠一のナイアガラ・レーベルでは、日本コロムビア時代の作品に、コーラスやストリングス・アレンジで参加。特に大瀧のソロ・アルバム『NIAGARA MOON』(1975年)や『NIAGARA CALENDAR』(1977年)に深く関わっている。また、自身の作品制作の傍ら、1975年頃から、他のシンガー、ミュージシャンへ楽曲提供を始めた。小杉理宇造を通じてジャニーズ事務所との繋がりもあり、近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」(1982年)、KinKi Kidsのデビュー・シングル「硝子の少年」(1997年)や「ジェットコースター・ロマンス」(1998年)などのヒット曲を出しているほか、ジャニーズ所属タレント出演作品の主題歌も多く手がけている。 大瀧同様、レコード・CDコレクター、オーディオマニアであり、特にロック・R&B・ポップスについて造詣が深く、アナログ盤はオリジナルを中心に収集しており、所蔵総数は6万枚を超える。 海外では作品リリースを行っていなかったが、2010年代のヴェイパーウェイヴのブームで作品が発掘され広まった。ちなみに、山下達郎がバックトラックを作成した竹内まりや作の「プラスティック・ラブ」は、非公式動画ながら海外のリスナーを中心にYouTubeで合計1億回以上再生されている(詳細は「プラスティック・ラブ#「ジャパニーズ・シティ・ポップ」」参照)。
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人物/音楽性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 03:35 UTC 版)
澄んだ力強い歌声、12弦ギターの技巧、そして彼の導入した豊富なフォークソングのスタンダードの曲集で知られる。 彼はほとんどの場合は12弦ギターを演奏したが、ピアノ、マンドリン、ハーモニカ、ヴァイオリン、コンサーティーナ、そしてアコーディオンも演奏することができた。録音の一部では、フォークバラッド「ジョン・ハーディ」の彼のバージョンの曲などで、ギターの代わりにアコーディオンを弾いた。他のレコーディングでは、ただ手を叩き足を踏みならして歌ったりもした。 レッドベリーの音楽で歌われる内容は、ゴスペルや、女性、酒、そして差別を歌ったブルースと、カウボーイ、刑務所、仕事、船乗り、牛追い、そして踊りを歌ったフォークソングなど、幅広い題材をカバーした。彼はまた、フランクリン・ルーズベルト大統領、アドルフ・ヒトラー、スコッツボロ・ボーイズ、億万長者のハワード・ヒューズなど、当時の時の人に関する曲も書いた。
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人物・音楽性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 06:30 UTC 版)
名前の由来は長野県更埴市(現・千曲市)の観光名所「あんずの里」より採られた。愛称は「あんりこ」。 井上陽水を尊敬する歌手として挙げている。彼のような独自の世界観を作りたく考えている。アコースティック・ギターを前面に押し出したフォークソング調の曲が多いのは父の影響も大きい。 『私は私をあとにして』までは全面的に吉俣良がプロデュース、編曲を行ってきたが、「春隣」からは岩瀬聡志と西垣哲二のタッグに変わった。このことにより吉俣が作曲を手掛けた未発表曲(「短話」など)の今後の扱いが注目される。 対人関係に悩んできたため、自他かかわらず“存在”を問い直した詞が多く、特に初期の頃はそのような内容の歌が彼女の代名詞となっていた。この強い疑問を投げかける着眼点は、次第に「戦争」という広い視野が要される分野や、「自立」という積極性を題材とした曲の制作に繋がり、4thアルバムからは「恋愛」について扱うようにもなる。そのため、インタビュアーはこの変化と照らし合わせて、今はどのような立ち位置にあるかということを彼女に問うことが多い。 読書やキャンペーンへの参加を元に詞を書くことも多い。「戦いの矛盾」収録曲「いつか七夕」は、横田早紀江が著した本を読み、実際に“座り込み”の現場へ行って、創られたものである。 主に詞先形式をとるが、他人と共同制作した曲では詞先、曲先の両方を経験している。 「私をたどる物語」は、作詞者が武田鉄矢だと知らされないまま詞が渡され、熊木が曲をつけた。吉俣の楽曲は、元来サウンドトラックとして存在したものに熊木が詞をつける形式をとっている。 かつて将来の夢の選択肢として国語の先生があった。デビュー前には作詞のほか個人的な小説の執筆も行っていた。そのうち、大学2年生時に著した「鏡のない町」という作品はラジオ小説として「熊木杏里 WiLSONと一緒」で朗読された。
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人物・音楽性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:14 UTC 版)
ソニック・ユース、ダイナソーJr.、ペイヴメントなどから大きく影響を受けたローファイで独創的なギター・プレイを特徴とする。ビースティ・ボーイズやベックなども含むアメリカのオルタナティヴ/インディー・ロックシーンを好み、1997年以降のブラーを「脱ブリットポップ」路線に舵を取った中心人物であると言われる。 英国ロック界のさまざまなギタリストからリスペクトを寄せられ、2007年にシングルを共同制作したポール・ウェラーは、「個人的にもグレアムの大ファンで、彼の曲は大好きなんだ。一緒に仕事ができることにエキサイティングしている」とコメント。レディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッドはグレアムの音楽的才能以外についても言及し、「グレアムのギタープレイはもとより彼の持つすべての才能が僕は好きだ」と発言している。また、ブラーと長い間ライバル関係にあったオアシスのノエル・ギャラガーをして「彼は同世代で最も優れたギタリストの一人」、ロキシー・ミュージックのフィル・マンザネラも「過去を振り返っても5本の指に入るギタリスト」と賞賛している。 ギターのみならず他の楽器の腕も立ち、1997年のブラーのシングル「ソング2」ではデイヴとツインドラムを担当した。また、1994年のシングル「パークライフ」ではサックスも演奏している。また、初期のソロアルバムのレコーディングではすべての楽器を自ら演奏していた。 大学での専攻がファイン・アートだったこともあり、絵画が音楽以外でのライフワークになっている。ブラーのアルバム『13』のジャケットをはじめ1997年以降、ほとんどのシングル曲のジャケットの絵を担当するようになる。ソロ活動でのジャケット等のアートワークもほとんど彼によるもので、時折個展も開催している。また、英国女性シンガー、ケイト・ラズビーが2005年にリリースしたアルバム、『ザ・ガール・フー・クドゥント・フライ』のジャケットのイラストを描いている。 トレードマークは横縞のシャツにメガネ。歌っている間、ほとんどうつむいたままで観客を見ない。元々シャイな性格で、メンバーにあまり意見を言えなかったといい、ブラーの5thアルバムに収録されている「ユー・アー・ソー・グレイト」のレコーディングの際、あまりに恥ずかしかった為、電気を消して暗い中机の下で歌ったという逸話も残っている。また、ブラー時代はあまり顕著に表れていなかったが、ソロになってから彼のエキセントリックさが映像でたびたび見受けられる。その由縁に、「ラヴ・ユー」のPVでは歌の合間に咳をしたり(にもかかわらず撮り直しせずその映像をそのまま採用)、テレビ番組のライブで間奏中にあくびをして観客を笑わせている。また、野外フェス、プッケルポップ・フェスティバルのステージ上で、サポートバンドのメンバーと演奏曲目の順番を確認するため(しかも二人は紙を持って井戸端会議をしている)ライブを中断したりするなど、ユニークかつかなりマイペースな性格を見せている。
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人物・音楽性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 16:00 UTC 版)
変則チューニングで作曲する事が多く、非常に独特な楽曲が多い。弾き語りの時とバンドスタイルの時とで作風が異なり、弾き語りの場合はアシッドフォーク寄り、バンドスタイルの場合はパワーポップ寄りのサウンドになる。2000年代には、アコースティック・ギターの弾き語り以外に、エレクトリック・ギターで弾き語りをする事が多かった。 キリンジ(堀込兄)とは上京時からの知り合い。徳永によるとデモテープの録音を手伝ってもらっていた。また小島麻由美ともその頃からの知り合いであり、コーラの秘密を知ってしまったために引っ越していった人を歌った迷曲「コーラの秘密」は元々小島への提供曲として書いたものだった。
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