ロシア連邦大統領として
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「ボリス・エリツィン」の記事における「ロシア連邦大統領として」の解説
ロシア共和国大統領(任期5年)、ロシア共和国閣僚会議議長だったエリツィンはソ連崩壊後も引き続きロシア連邦の大統領兼閣僚会議議長となった。 1992年1月2日、首相を兼任したエリツィンは貿易・価格・通貨の自由化を命じた。同時にマクロ経済安定化の経済政策を採用し、厳格な緊縮財政を行った。財政均衡を実現するため、エリツィンは金融を引き締め、産業への補助金や福祉支出などを大幅に削減した。しかし、この急激な市場経済への移行は市民の貯蓄、資産に打撃を与え、ソ連時代の生活水準は破壊された。同年6月に首相代行に指名したエゴール・ガイダルやアナトリー・チュバイスに経済政策のイニシアティヴを取らせ、国際通貨基金 (IMF) 等の国際機関の助言に従って「ショック療法」と呼ばれる急進的な経済改革で完全な資本主義の導入を図った。市場経済化への一環として行われた価格自由化と国債濫発は1992年に前年比2510パーセントものハイパーインフレーションを引き起こし、1992年の国内総生産 (GDP) は前年比マイナス14.5パーセントとなってしまった。1990年代を通じてロシアのGDPは50パーセント減少し、不平等と失業は激増し、収入は劇的に減少した。一部のエコノミストは、1990年代にロシアが経験した経済危機は1930年代にアメリカやドイツで起きた大恐慌に匹敵するとも評した。 1992年2月にアレクサンドル・ルツコイ副大統領もエリツィンの経済改革を「経済的ジェノサイド」と批判し、1992年12月にエリツィンは経済改革で失敗したガイダルを解任し、代わりにガスプロム社長のヴィクトル・チェルノムイルジンを首相に指名した。12月、チェルノムイルジンは議会の信任を得て首相に就任した。一方、10月から国民一人ひとりに国有企業の株式を与えて自由に売買をさせるバウチャー方式による民営化も行われていたが、これを上手く利用して国有資産だった会社を手に入れ、莫大な富を築き上げる新興財閥(オリガルヒ)も出現した。 1993年1月にアメリカ合衆国と第二次戦略兵器削減条約 (START II) を正式に調印し、外交政策では西側諸国との関係改善を推し進める一方で同年9月にはエリツィンの経済政策に反発していたルスラン・ハズブラートフ最高会議議長から「大統領は当てにできない。どうしようもないどん百姓だ。(人差し指で喉をたたきながら=酔っ払いのジェスチャー)これさえあれば、あいつはどんな大統領令にも署名する」と非難されたことに激怒したエリツィンは、「大統領令1400号」を公布して超法規的に現行憲法を停止した上でロシア人民代議員大会及び最高会議を強制的に解体し、議会を中心とする反エリツィン陣営の除去に取りかかった。これに対してハズブラートフも、最高会議の緊急会議を召集し、ルツコイ副大統領に大統領全権を付与し、10月3日、最高会議ビルに立てこもって抵抗した。翌10月にはハズブラートフらがたてこもる最高会議ビルを戦車で砲撃し、議会側は降伏し(10月政変)、ルツコイを解任すると同時に副大統領の職も廃止した。 1993年12月には大統領に強大な権限を与え、連邦会議と国家会議から成る両院制議会、ロシア連邦議会にする事を定めた新しいロシア連邦憲法が制定された。西側諸国はエリツィンを支持した。しかし、ロシア国内ではその経済政策で生活を困窮に追いやられた多くの民衆の反感を買い、同年12月の1993年ロシア連邦議会選挙で超国家主義的なウラジーミル・ジリノフスキー率いる極右のロシア自由民主党が第一党となってロシアの議会政治が綻びを見せ始めた。 1994年にデノミを行うなど経済の混乱が続き、また第一次チェチェン紛争でのチェチェン侵攻が失敗した結果、エリツィンの支持率は低下した。 1995年の下院選挙では極右のロシア自由民主党に代わって極左のロシア連邦共産党が第一党となり、エリツィンの経済政策で貧困に喘ぐ民衆の支持でソ連崩壊で過去のものとなったはずの共産主義が復権しつつあった。さらに1996年ロシア連邦大統領選挙の第1回投票ではそのロシア連邦共産党のゲンナジー・ジュガーノフ候補に得票数で僅差に追い込まれ、大苦戦する。劣勢を逆転させたい一念でアメリカから選挙キャンペーンのプロを呼び、さらにジュガーノフ当選による共産主義への回帰を恐れたボリス・ベレゾフスキー、ウラジーミル・グシンスキーなど新興財閥から巨額の選挙資金を捻出させ、新興財閥支配下のメディアにエリツィン支持のキャンペーンを張らせるなどしてなり振りかまわぬ選挙戦を展開した。ジュガーノフとの決選投票の前には、第1回投票で3位につけたアレクサンドル・レベジ退役大将を安全保障会議書記に任命して取り込み、決選投票でエリツィンは53.8パーセントを獲得し結果的に再選を果たした。 大統領選挙において新興財閥の力に大きく頼ったために第2次エリツィン政権では新興財閥の影響力が増した。また、大統領選前の1995年にエネルギー産業などの国営企業が株式を担保に金融機関から融資を受けられるようにする有償民営化が行われていたことで、新興財閥は結果として石油産業他多くの国営企業を手に入れ、さらに国有資産を私物化し、二女のタチアナ・ディアチェンコらエリツィンの親族とともに「セミヤー」と呼ばれる側近集団を形成するようになる。このような「セミヤー」との癒着によりエリツィン政権は政治腐敗が蔓延していき、特にベレゾフスキーを筆頭とする7人の銀行家(ロシア語版)と呼ばれた新興財閥が1996年から2000年までにロシアの富の50パーセントから70パーセントを支配していたともされる。 1998年5月、経済復興を実現するには力不足だとして、チェルノムイルジン首相を解任した。同首相は5年間に渡る長期首相だったが、一説によると病身の大統領に代わり副大統領然として振舞っていたこと、あるいは経済界との腐れ縁を大統領が嫌っての解任とも言われる。後任には35歳のセルゲイ・キリエンコ第一副首相兼燃料エネルギー相が就任したが、8月17日にロシア財政危機が発生。短期国債の取引を停止し、事実上の債務超過に陥った。就任直後の出来事だったが、責任を取らされて解任された。 1998年9月11日に首相に任命されたのは諜報機関KGB出身のエフゲニー・プリマコフであった。プリマコフはエリツィン政権で対外情報庁長官や外相を歴任した実力者であった。プリマコフ首相は、大統領よりも議会重視のスタンスを打ち出し、キリエンコ内閣で産業貿易大臣だった共産党のユーリ・マスリュコフを第一副首相に大抜擢したことで第一党の共産党を名実ともに与党にさせ、議会の支持に依拠した珍しい内閣であり、プリマコフはソ連時代に計画経済の司令塔であるゴスプラン最後の議長だったマスリュコフとともにIMFと交渉して金融危機の対処に当たった。 1999年3月にエリツィンはコソボ紛争に介入した北大西洋条約機構 (NATO) を「侵略者」であると批判し、外交政策ではプリマコフとともにアンドレイ・コズイレフ外相時代のNATOに融和的な路線も修正した。NATOがコソボに地上部隊を配備した場合のロシアの介入の可能性を警告し、「私はNATO、アメリカ、ドイツに言った。軍事行動に向かわせないでくれと。さもなければヨーロッパで戦争は確実に起き、世界大戦の可能性もある」と述べた。 1999年5月には経済を安定化させて大統領よりも支持を集めていたプリマコフ首相を解任した。さらに後任のセルゲイ・ステパーシン首相も僅か3ヶ月で解職し、首相を短期間で次々に挿げ替えて自らの権力を維持するためになりふり構わぬようにも見える行動を繰り返して政権はレームダックの様相を呈し、議会では第一党の共産党によって「ソ連解体、10月政変、チェチェン侵攻、軍事力の弱体化、ロシアの人口減少に対する責任」を理由にした弾劾の手続きも始まっていた。 1999年8月16日にはエリツィン大統領の汚職を追及していたユーリ・スクラトフ(ロシア語版)検事総長を女性スキャンダルで解任に追い込んだロシア連邦保安庁(FSB)の長官でプリマコフと同じKGB出身のウラジーミル・プーチンを首相に任命し、31日のロシア高層アパート連続爆破事件をきっかけにして勃発した第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕を振るったプーチン首相は「強いリーダー」というイメージを高めて後の大統領当選を支える国民からの人気を得ることとなった。 1999年11月、欧州安全保障協力機構(OSCE)の会議でアメリカのクリントン大統領はエリツィンに指を差して多くの民間人犠牲者を出しているチェチェンへの空爆を止めるよう要求するとエリツィンは席から立ち去った。翌12月9日から10日にかけて、チェチェンでの軍事作戦への支持を求めて訪れて最後の外遊先となった中国で李鵬国務院総理や江沢民総書記(国家主席)と会談したエリツィンは「クリントンはロシアが核兵器の完全な備蓄を保有する偉大な大国であることを忘れているようだ」と述べてかつては蜜月を築いていたアメリカに対して核戦争を示唆して恫喝した。
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