フセイン政権崩壊後のイラク・バアス党
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「バアス党」の記事における「フセイン政権崩壊後のイラク・バアス党」の解説
2003年4月にアメリカの侵攻によりフセイン政権が崩壊すると、大半の党幹部が隣国シリアに逃亡した。5月にはアメリカ軍によりバアス党の解党宣言、連合国暫定当局により「非バアス化指令」が出され、バアス党の元幹部党員に対する公職追放が行われた。これにより、旧政権下で働いてきた公務員や教師、大学教授、裁判官、警察官、医師らが一斉に失職した。 この「非バアス化」政策については、国務省やCPAの前身である復興人道支援室(ORHA)の関係者などから「戦後のイラク統治を困難にする」として反対する意見も出されていたが、国防総省やホワイトハウス内のいわゆる「ネオコン」に近いグループ、そのネオコンに接近していた反体制派組織「イラク国民会議」(INC)のアフマド・チャラビーが強硬にこの「非バアス化」政策を推進した。この措置は後に、イラク復興に必要な人材を一掃してしまったとして、イラク軍解体と共に、アメリカの占領政策の失敗として批判された。 このことから、元党員でもあったイヤード・アッラーウィー暫定政府首相によって一部に限って元党員の公職追放の緩和措置が行なわれた。しかし、バアス党に対して強硬なイブラーヒーム・アル=ジャアファリー移行政府首相の下では、より厳しい全ての元バアス党員に対する公職追放や罰則を設けた「非バアス化法」が議会によって可決され、これにより、議会内に元党員の公職復帰を阻止するための監視機関「非バアス化委員会」が設置された。 しかし、この措置には多くの元幹部党員を輩出したスンナ派アラブ人が猛反発し、その結果、ヌーリー・マーリキー政権下で、旧政権下で犯罪行為に手を染めなかった幹部党員・下級党員に限って公職追放全面解除、年金支給、社会復帰サポートが行なわれるという『責任と正義』法が議会で可決された。これにより、多くの元党員の公職復帰が認められることになった。また、イラク政府と国外で活動しているイラク・バアス党との間で、和解に向けた交渉も行われるようになった。 しかし、2009年下半期にイラク国内でテロが続発すると、シーア派主導のイラク政府からテロの背後にバアス党がいると非難し、元党員に対する対応が硬化した。2010年1月、「正義と責任追及委員会」(非バアス化委員会の後身組織)は3月に開かれる議会選挙に立候補している候補者に「サッダーム旧政権の支持者が紛れている」として、元バアス党員と旧政権情報機関出身の立候補者の選挙参加を禁止すると発表した。この措置については、スンナ派政党や世俗派政党が反発して裁判所に上訴し、イラク上級裁判所も「正義と責任追及委員会」の決定を無効と判断したが、この決定に今度はイラク政府とシーア派政党が反発を示し、判断を最高裁判所に委ねた。これにより最高裁は「正義と責任追及委員会」の決定を認め、元党員の立候補は禁止された。 現在のイラク共和国新憲法では、バアス党とそれに連なる組織は犯罪組織に指定されており、再結党や思想の普及、同党に対する支持や礼讃は禁じられている。また、イラク当局に起訴され、逮捕されている元バアス党幹部の資産没収などが決定されている。 現在のバアス党指導者(RC書記長)は、イッザト・イブラーヒーム元革命指導評議会副議長であり、イブラーヒームはサッダームの処刑を受け、この役職に就いた。しかし、サッダームの死によって党内の路線対立には歯止めが利かなくなり、一部の党幹部はイブラーヒームの下を離脱。シリア東部のハサカにて会議を行い、元党軍事局メンバーであった若手のバアス幹部党員ムハンマド・ユーニス・アル=アフマドを新たな指導者に任命した。この後、ユーニスはイブラーヒームを党より追放すると宣言、これに対抗してイブラーヒームがユーニスとそれに連なる党員の追放を行った。この結果、イラク・バアス党は主流のイブラーヒーム派と傍流のユーニス派に分裂した。 当初、両派はシリアを拠点に活動しており、実質シリア政府の庇護を受けていると見られていたが、その支援は一様でなく、イラク・バアス党側においてもシリア政府に対する姿勢は派閥によって異なる。二つの派閥のうちイブラーヒームおよびその派閥は、イランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。またイブラーヒームは、ユーニス派との内訌による党分裂に際して声明を発しており、イラク・バアス党に対するアメリカの陰謀を支援しているとして、シリア政府を非難した。イブラーヒームはシリア政府を敵視して、同政府への懐疑的姿勢を崩さず、シリア内戦勃発後には最終的にシリア政府と決別、シリア国内で活動するスンニ派の反体制勢力との連帯を表明するなど対立関係にある。対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。イラク政府は旧バアス党幹部の身柄引渡しを同国政府に求めている。 イラク・バアス党は、イラク国内やシリアだけでなく、ヨルダンやイエメンなどの近隣アラブ諸国、フランスなどの欧州にも在外指導部を置き、資金工作や地下刊行物の発行を通じてイラク国内の旧政権残党勢力を支援しているともされる。特にバアス党幹部が結成させた反帝国主義を掲げた統一戦線イラク愛国同盟(Iraqi Patriotic Alliance)は共産主義者からイスラーム主義者といった多くの反米テロ組織を集めており、サッダームの公認だったと言われる。 2008年12月18日、ニューヨーク・タイムズはイラク治安担当者の話として、内務省・対テロ部隊の隊員ら35人がバアス党政権復活のためにクーデターを企てたと報じた。一方、イラク内務省は逮捕されたのは同省の交通警察副部長などの幹部や下級職員で、バアス党系の武装組織「アル=アウダ」のメンバーであるという容疑で逮捕され、尋問を受けていると発表し、対テロ部隊とは関係が無いとした。彼らはクーデターでは無く、内務省ビルを放火しようとした容疑が掛けられているとした。 ただ、本当に彼らが容疑を企てたのかについては疑問も出ており、事件の発端が同省の腐敗告発にある、あるいは逮捕された職員は互いに面識も無いとの報道もある。その後、イラク政府自身がクーデター疑惑自体を否定する発表を行なった。 2009年8月26日、イラク軍は8月19日に財務省と外務省を狙った爆弾テロ事件の首謀者として、元バアス党員のウィサーム・アリー・カーズィム・イブラーヒーム(Wissam Ali Kadhem Ibrahim )という人物を逮捕したと発表し、供述の模様をビデオ映像で記者団に公開した。映像では、ウィサームと名乗る人物は、自分が1975年にバアス党に入党し、1995年までディヤーラー県の警察官をしており、2002年まで弁護士をしていたこと、旧政権崩壊まで同県のムクダーディーヤ市のバアス党指導者であり、2005年にイラクからシリアへと亡命し、そこでイラク・バアス党のユーニス派に加わり、2007年8月にイラクに戻ったことなどを語った。 ウィサームは、テロの一ヶ月前に彼の上司に当たり、シリア在住のイラク・バアス党ユーニス派幹部のサッターム・ファルハーンという人物が、「イラクを混乱させるよう」テロ計画の実行を命じられたことを明らかにした。 10月25日には、司法省とバグダード県庁を狙った同時テロが起き、イラク政府は前回と同様に、シリアに拠点を置くバアス党の残党勢力が、アル=カーイダと連携して今回のテロを実行したと発表。再度、テロに関与したとして逮捕された、元バアス党員と名乗る男の供述を公開している。 パリに拠点を置く「Intelligence Online」のウェブサイトは、中央情報局がダマスカスにおいてイラク・バアス党指導者と会合を開いたと報じた。会合でバアス党側は、武装闘争を停止する条件としてバアス党の政治参加を認めることや、バアス党系武装勢力のイラク軍への編入、非バアス化法の廃止を求めたという。会合はヨルダン総合情報部の斡旋により09年夏から始まった。アメリカの目的は、シーア派主導のイラク政府とバアス党との和解を仲介することであるとされ、Intelligence Onlineは「CIAの戦略が失敗すれば、米軍は内戦下の最中にある国から撤収することになるだろう」と警告している。 2010年4月28日、サッダームの誕生日に合わせてシリアの首都ダマスカスで、フセイン政権崩壊後初のイラク・バアス党の集会が開かれた。集会で演説したバアス党幹部のガズワーン・アル=クバイスィー(Ghazwan al-Qubaisi)は、アメリカの「占領」を非難し、イラク国民の団結を呼びかけた。また、イラク現政府に対しても「全てのバアス党員とナショナリストの政治参加を妨害し、国民再融和から離れた」と批判した。バアス党内の分裂についても否定し、サッダームを「英雄であり殉教者」と認定し、イラクの国民的抵抗を支持し続けるとした。集会には約500人が参加し、シリア文化省が所管するホールで行われた。 2011年10月、イラク政府は国内でのテロを企てていたとして旧イラク軍将校を含む620人もの元バアス党員を拘束し、加えて350人の元党員に対して逮捕状を公布したと明らかにした。 内務省幹部のアドナーン・アル=アサディーによれば実際の逮捕者リストには800人以上の元バアス党員が含まれているとして、バアス党員が2011年末の米軍撤退後に暴動や暗殺、シーア派を狙った爆弾テロを等を計画していたという。アサディーによれば、バアス党はイラク・イスラム国を通じてイラクの聖戦アル=カーイダ組織と協力しており、資金提供、情報提供、兵站支援などがバアス党の役目であるという。 イブラーヒームと彼が率いる聖戦と解放の最高司令部およびナクシュバンディー軍などの武装集団はISILと協調しており、2014年にはモースル攻略などにも参加して、ISILのイラク北西部における勢力拡大を助けた。しかし、イブラーヒーム派の支持基盤の一部はスーフィー信者であり、ISILの急速な勢力拡大に対して警戒感を強め、同盟関係は2014年末には決裂したとされる。しかし、スーフィーに属さない党関係者にはISILとの協働を継続している者やISILの構成員となっている者もおり、同盟関係決裂の際、これらの元党関係者はISILによるイブラーヒーム派攻撃に加担した。またイブラーヒームの率いる武装組織はイラク政府との戦闘も継続しており苦境に陥った。そして、2015年4月18日、イラク軍が17日に行った掃討作戦によりイブラーヒームが死亡したと発表された。イラク軍当局は「遺体がイブラーヒームであることは95%確実」とし、遺体は検視のためバグダードに移送するとしている。シーア派民兵組織によって行われたDNA鑑定の結果、遺体がイブラーヒーム本人であることが確認され、20日に遺体がイラク政府に引き渡された。また、同年6月5日にはフセイン政権時代に副首相や外相を歴任したターリク・アズィーズが獄中で心臓発作を起こし、病院に搬送されたが、間もなく死亡した。フセイン政権崩壊後のイブラーヒム及びアズィーズ両名のイラク情勢に対する実際の影響力は限定的であったと考えられているが、2003年のイラク戦争によるフセイン政権崩壊の直前まで最高幹部としてイラク国民に認知され、長年に渡り政権を支えていた二人の死は旧体制の完全な終焉を象徴し残党勢力の益々の弱体化に繋がると考えられる。 イブラーヒーム派がISILに対する協力を停止し、イブラーヒームが戦死するなか、イラク政府はイラク・バアス党との政治的和解を模索しているとされる。しかし、当事者であるイラク・バアス党は両派に分裂したまま派閥対立がまったく収束していない。イブラーヒーム派はムハンマド・ユーニス・アル=アフマドをイラク政府との交渉から排除することを望み、ユーニス派はイラク国内の破壊および占領に関するイブラーヒーム派の責任を非難し、イブラーヒーム派の政治的復権を拒否している。
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