フセヴォロドとの闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:21 UTC 版)
「リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)」の記事における「フセヴォロドとの闘争」の解説
1206年、ハンガリー王が招聘したヤロスラフ(ウラジーミル大公フセヴォロドの子)がガーリチを手中に収めようとするが、チェルニゴフ・オレグ家のウラジーミルがそれに先んじた。また、この時期のオレグ家の代表格であったチェルニゴフ公フセヴォロドがキエフに侵攻した。キエフ大公位はフセヴォロドのものとなり、リューリクはオーヴルチに、息子のロスチスラフはヴィシゴロドに、甥のムスチスラフはベルゴロドに追われた。併せて、ウラジーミル大公フセヴォロドの子ヤロスラフもまた任地のペレヤスラヴリを召し上げられ、チェルニゴフ公フセヴォロドの息子のミハイルがペレヤスラヴリ公位についた。ただし同年、リューリクは息子・甥らと共にキエフ・ペレヤスラヴリをフセヴォロドらオレグ家から奪い返した。さらに同年冬、フセヴォロドは兄弟やポロヴェツ族と共に再度キエフ奪取を図るが、リューリクはこれを撃退した。 1207年、チェルニゴフ公フセヴォロドはトゥーロフ公スヴャトポルクの子(ウラジーミルら)や、ガーリチ公ウラジーミル(上記のウラジーミル)と連携し、キエフへ進軍してきたため、リューリクはオーヴルチに逃走した。フセヴォロドはキエフ大公位に就き、トレポリ、ベルゴロド、トルチェスクもまたフセヴォロドの手に渡った。ルーシの年代記(レートピシ)は、フセヴォロドに対し、同盟関係にあったポロヴェツ族を介して、ルーシの地に悪行をもたらしたと記している。また、同年リューリクは再びキエフを奪還している。 1210年、ノヴゴロドをめぐってウラジーミル大公フセヴォロドとの関係が悪化し、リューリクはキエフをチェルニゴフ公フセヴォロドに譲渡した。フセヴォロドにとっては3度目のキエフ大公位となった。『ラヴレンチー年代記』によれば、チェルニゴフ公フセヴォロドがキエフを、リューリクがチェルニゴフをおさめたと記されている。その後没したが、その没年は諸説ある。
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