フセスラフの統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:53 UTC 版)
ポロツク公国の最盛期は、ブリャチスラフの子・フセスラフの時代(1044年 - 1101年)に到来した。フセスラフは初めはキエフ大公国のヤロスラフ一門と連合してトルク族への遠征を行ったが(1060年)、後に先代の政策方針を継承し、覇権主義のもとキエフ大公国との積極的な闘争を繰り広げた。1065年には突如プスコフを急襲し、翌年(もしくは再翌年)にはノヴゴロドを攻撃した。しかしノヴゴロドから帰還した後、ミンスク近郊のニャミーハ川(en)での戦いでキエフ大公イジャスラフ1世らの連合軍に敗れた。イジャスラフ1世らはフセスラフに和平条約を提案し、十字架に和平を宣誓した。イジャスラフは2人の息子と共に和平交渉のためにヴォルシャへ向かったが、宣誓を破ったイジャスラフ1世らに捕縛され、キエフへ護送されて幽閉された。 1068年、シャルカンを長とするポロヴェツ族の襲撃に際し、イジャスラフ1世は敗れて逃走したため、キエフを庇護する者はいなくなった。キエフの人々はフセスラフを解放してキエフ大公とした。1069年4月にイジャスラフ1世がポーランド人の援助を受けて戻ってくると、フセスラフはポロツクへ逃走した。イジャスラフ1世はキエフを占領し、さらにフセスラフをポロツクから追放して、自分の子のムスチスラフをポロツク公とした(その後すぐ死亡したため、スヴャトスラフ2世が代わりに立てられることになる)。フセスラフは(おそらく)ヴォテス族(en)のもとに逃げ、兵を募って同年10月にノヴゴロドに現れたが敗北した。 1071年、フセスラフはポロツクを占領し、ゴロティチェスクの戦いに敗れた後もポロツクに踏みとどまった。1073年フセスラフとイジャスラフ1世は和解した。その後ポロツク公国は、1083年にはウラジーミル2世モノマフの遠征により大きな被害を受けた。
※この「フセスラフの統治」の解説は、「ポロツク公国」の解説の一部です。
「フセスラフの統治」を含む「ポロツク公国」の記事については、「ポロツク公国」の概要を参照ください。
- フセスラフの統治のページへのリンク