リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)とは? わかりやすく解説

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リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:21 UTC 版)

リューリク・ロスチスラヴィチロシア語: Рюрик Ростиславич、? - 1210年代)は、キエフ大公ロスチスラフの子である。オーヴルチ公:1167年 - 1194年、ノヴゴロド公:1170年 - 1171年、ベルゴロド公:1171年 - 1176年、キエフ大公:1173年、1181年、1194年 - 1201年、1203年 - 1204年、1205年 - 1206年、1207年、1210年、チェルニゴフ公:1210年 - 1212年[1]リューリク朝の一枝スモレンスク・ロスチスラフ家の出身であり、キエフ近郊のオーヴルチを拠点として、スーズダリ・ユーリー家、ガーリチ・ロマン家、チェルニゴフ・オレグ家らとの政権闘争を繰り広げた[注 1]


注釈

  1. ^ スモレンスク・ロスチスラフ家」はCategory:ロスチスラフ家スモレンスク系、「スーズダリ・ユーリー家」はCategory:ユーリー家、「ガーリチ・ロマン家」はCategory:ロマン家、「チェルニゴフ・オレグ家」はCategory:オレグ家を参照されたし。
  2. ^ N.カラムジン等による1214年説、V.タチシチェフによる1211年説など[2]
  3. ^ アンナは3人目の妻(出自不明のフセヴォロドの娘)とする説もある[2]

出典

  1. ^ Бережков Н. Г. Хронология русского летописания. М. 1963.
  2. ^ a b c d e f Рюрик-Василий Ростиславич // Русский биографический словарь. 1896 - 1918
  3. ^ a b Святослав Всеволодович // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона
  4. ^ a b Соловьёв С. М.От взятия Киева войсками Боголюбского до смерти Мстислава Торопецкого(1169-1228) // История России с древнейших времён
  5. ^ a b Всеволод Святославич по прозванию Чермный // Энциклопедический словарь Ф.А. Брокгауза и И.А. Ефрона
  6. ^ a b c ВСЕВОЛОД СВЯТОСЛАВИЧ // Советская историческая энциклопедия
  7. ^ Анна (имя жен и дочерей русских князей и государей) // Малый энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона: В 4 томах. — СПб., 1907—1909.


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