義理の息子ロマン
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「リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)」の記事における「義理の息子ロマン」の解説
「ルーシ内戦 (1195年 - 1196年)」も参照 リューリクは、娘のプレドスラヴァとヴォルィーニ公ロマン(ガーリチ・ロマン家の祖)との婚儀を成立させた。それはおそらく1181年のことであった。ロマンは1188年にガーリチ公位を得るが、ハンガリー王国軍の進入の報を聞くとガーリチから逃亡し、リューリクに援助を求めた。リューリクはロマンにいくらかの軍隊を与えたが、それはガーリチ奪回には不十分であった。また共同統治者のスヴャトスラフが、リューリクに対し、オーヴルチなどキエフ近郊の諸都市と、ガーリチとの交換を提案したが、リューリクはこれを拒否した。この後、リューリクはロマンが元のヴォルィーニ公に復位できるよう外交的援助を図り、ロマンはヴォルィーニ公に戻ることができたが、これはこの時のヴォルィーニ公フセヴォロドの望むところではなかった。 1194年、スヴャトスラフが死に、リューリクはキエフ大公位を得た。同時に、チェルニゴフ公、ノヴゴロド・セヴェルスキー公を席巻するチェルニゴフ・オレグ家(ru)との紛争が始まることとなった。1195年、リューリクは義理の息子であるロマンに、キエフ地区の大半にあたるポロシエ(トルチェスク、トレポリ、コルスン、ボグスラフ、カネフの5都市を含む)を与えた。しかしウラジーミル大公フセヴォロドがこれに介入し、5都市を自身の所領とさせた後、トルチェスクをリューリクの子(且つ、フセヴォロドの娘の夫にあたる)のロスチスラフに与えた。ロマンはこれに反発し、妻プレドスラヴァ(リューリクの娘)と離縁すると、オレグ家のチェルニゴフ公ヤロスラフと同盟を結んだ。1196年秋、ロマンは自身の配下に、リューリクの所領を荒らすよう指令を出し、さらにガーリチ公ウラジーミルの軍をリューリク領に繰り出した。一方、リューリクはチェルニゴフを攻撃したが、チェルニゴフ公国北東の逆茂木による防衛線を撃破できなかった。なお、1199年にガーリチ公ウラジーミルが死亡したのち、ロマンは自領のヴォルィーニ公国にガーリチ公国を併合している(ガーリチ・ヴォルィーニ公国)。 1201年、オレグ家と同盟を結んだリューリクは。ガーリチへの遠征を行おうとした。しかしロマンはリューリクに先んじ、チョールヌィ・クロブキを自陣営に引き込み、ガーリチ・ヴォルィーニ軍をキエフへ繰り出した。キエフの市民は自ら門を開け、リューリクはキエフの放棄を余儀なくされた。ロマンは従兄弟のルーツク公イングヴァリをキエフ大公位に就けた。しかし、1203年1月2日、リューリクはオレグ家・ポロヴェツ族と連合を組み、キエフを占領(ru)した。連合軍はキエフの街で略奪を行い、リューリクはキエフ大公位をも奪った。 同年、リューリクはロマンの組織した、南ルーシ諸公連合軍によるポロヴェツ族への遠征に参加した。その帰路、リューリクとロマンはトレポリで進軍を停止すると、所領に関する交渉を始めた。交渉はまとまらず、交渉の席の最後において、ロマンはリューリクとその息子たちを捕縛した。リューリクはキエフに送られ修道士にさせられた。その妻のアンナ、娘のプレドスラヴァ(かつてのロマンの妻)も同様であり、リューリクの息子・ロスチスラフとウラジーミルは捕虜としてガーリチに送られた。しかし、ウラジーミル大公フセヴォロドの仲裁によって、リューリクの息子のロスチスラフ(ウラジーミル大公フセヴォロドの娘を妻とする)がキエフ大公位に就けられた。 1205年6月19日、ロマンはポーランドへの遠征の際に死亡した(ru)。それを知ったリューリクは修道院を出て、キエフ大公位に復位した。なお、妻のアンナはスヒマ(ru)として修道院に残った。また、スモレンスク公ムスチスラフ(リューリクの甥)、ポロヴェツ族を含むオレグ家の諸公はチェルニゴフで諸公会議を開催し、ロマンの子の持つキエフ領域の地の継承権をリューリクの元におさめさせるために、ガーリチへの遠征を行った。諸公連合軍はセレト川河岸でガーリチ・ヴォルィーニ軍と遭遇し、これをガーリチへ撤退させたが、都市を陥すことはできなかった。
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