キエフの共同統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:21 UTC 版)
「リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)」の記事における「キエフの共同統治」の解説
ウラジーミル大公国では、アンドレイの死後の継承権をめぐる闘争(ru)が生じた。チェルニゴフ・オレグ家出身のスヴャトスラフは、はじめはアンドレイの弟のフセヴォロドと同盟関係にあったが、フセヴォロドがリャザン公ロマン(ru)の所領に関し干渉した1180年以来、スヴャトスラフとフセヴォロドの関係は急速に悪化していった。スヴャトスラフはフセヴォロドと対立すると同時に、フセヴォロドの同盟者であったリューリクの弟のロマンの統治するスモレンスクへ派兵した。リューリクはガーリチ公ヤロスラフと同盟を組み、キエフを制圧すると、弟のダヴィドを援軍にスモレンスクへ送った。この年ロマンは死亡するが、ダヴィドはスモレンスク防衛軍を指揮し、スヴャトスラフのチェルニゴフ公国軍、援軍のポロヴェツ軍からの攻撃を防ぎ、そのままスモレンスク公位を継いだ。また、スヴャトスラフはノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリ、コンチャークらの率いるポロヴェツ族と共にキエフ地域を攻めたが、リューリクはこれを打ち破った。最終的には、キエフとキエフ大公位はスヴャトスラフのものとなったが、キエフ領域のその他の地はリューリクのものとなった。すなわち、1180年から1194年にかけて、リューリクとスヴャトスラフとの二頭支配体制が確立することとなった。リューリクとスヴャトスラフは、ポロヴェツ族に対する1184年のオレリ川の戦い、ホロル川の戦い(ru)に相次いで勝利した。
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