キエフにおける最初の聖堂建築とは? わかりやすく解説

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キエフにおける最初の聖堂建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 15:28 UTC 版)

東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「キエフにおける最初の聖堂建築」の解説

ルーシ、すなわち現在のウクライナ・ベラルーシ・ロシアと東ローマ帝国の関係は、860年北方民族ルーシ族コンスタンティノポリス襲撃したことによって始まる(ルーシ・ビザンツ戦争 (860年))。このときにはルーシ側の大敗終わったが、その後ルーシ一般にキエフ大公国呼ばれる)として国力蓄え10世紀コンスタンティノポリス襲撃した際には、911年東ローマ帝国と非常に有利な通商条約を結び、945年には「ロースルーシ)」という国として承認された。 キエフ大公国キリスト教関わりは、945年イーゴリ公オリガコンスタンティノポリス訪問しアギア・ソフィア大聖堂洗礼受けたとされることに始まる。この頃はまだ、キエフ大公国では北欧神話の神々崇拝されており、彼女の洗礼個人的なものにすぎなかったので、しばらくの間特筆すべき進展はなかった。しかし、980年ウラジーミル大公就任すると、彼は国教として正教選び国民強制的に正教会改宗させた。当時キエフ大公国は、西ヨーロッパ凌ぐほどの経済的繁栄享受していたため、東方正教活動ともなってかなり多く壮麗な教会堂建立された。 キエフ大都市拡大した賢公ヤロスラフ1世は、「ヤロスラフの町」と呼ばれた市中心部聖ソフィア大聖堂、聖イリナ修道院、聖ゲオルギイ修道院府主教館、黄金門など、明らかにコンスタンティノポリス意識した建築物建設し、これによってキエフ建築職人技量著しく向上した建設され教会堂大部分木造建築物であったため、今日それを目にすることはできないが、幸いにも最も大きな聖ソフィア大聖堂が現在に残る。聖ソフィア大聖堂は、1040年完成した巨大建築物であるが、17世紀大きな損害被ったために外観はかなり変更されている。平面は、ビザンティン建築では標準的な内接十字型で、これを3重の側廊取り囲む形式となっている。キエフだけでなく、ルーシでは以後円蓋バシリカスクィンチ型などの形式は全く取り入れられず、内接十字型採用し続けたヤロスラフ1世死によって、キエフ大公国権威次第低下し、その建築活動停滞したが、権力分散地方都市発展促しユーリイ・ドルゴルーキイによってスーズダリが、アンドレイ・ボゴリュプスキイによってウラジーミルモスクワなどが、次第キエフ代わる都市として成長していった。

※この「キエフにおける最初の聖堂建築」の解説は、「東欧諸国のビザンティン建築」の解説の一部です。
「キエフにおける最初の聖堂建築」を含む「東欧諸国のビザンティン建築」の記事については、「東欧諸国のビザンティン建築」の概要を参照ください。

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