キエフにおける最初の聖堂建築
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「東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「キエフにおける最初の聖堂建築」の解説
ルーシ、すなわち現在のウクライナ・ベラルーシ・ロシアと東ローマ帝国の関係は、860年に北方の民族ルーシ族がコンスタンティノポリスを襲撃したことによって始まる(ルーシ・ビザンツ戦争 (860年))。このときにはルーシ側の大敗に終わったが、その後ルーシ(一般にキエフ大公国と呼ばれる)として国力を蓄え、10世紀にコンスタンティノポリスを襲撃した際には、911年に東ローマ帝国と非常に有利な通商条約を結び、945年には「ロース(ルーシ)」という国として承認された。 キエフ大公国とキリスト教の関わりは、945年にイーゴリ公妃オリガがコンスタンティノポリスを訪問し、アギア・ソフィア大聖堂で洗礼を受けたとされることに始まる。この頃はまだ、キエフ大公国では北欧神話の神々が崇拝されており、彼女の洗礼も個人的なものにすぎなかったので、しばらくの間は特筆すべき進展はなかった。しかし、980年にウラジーミルが大公に就任すると、彼は国教として正教を選び、国民を強制的に正教会に改宗させた。当時のキエフ大公国は、西ヨーロッパを凌ぐほどの経済的繁栄を享受していたため、東方正教の活動にともなってかなり多くの壮麗な教会堂が建立された。 キエフを大都市に拡大した賢公ヤロスラフ1世は、「ヤロスラフの町」と呼ばれた市中心部に聖ソフィア大聖堂、聖イリナ修道院、聖ゲオルギイ修道院、府主教館、黄金門など、明らかにコンスタンティノポリスを意識した建築物を建設し、これによってキエフの建築職人の技量は著しく向上した。建設された教会堂の大部分は木造建築物であったため、今日それを目にすることはできないが、幸いにも最も大きな聖ソフィア大聖堂が現在に残る。聖ソフィア大聖堂は、1040年に完成した巨大建築物であるが、17世紀に大きな損害を被ったために外観はかなり変更されている。平面は、ビザンティン建築では標準的な内接十字型で、これを3重の側廊が取り囲む形式となっている。キエフだけでなく、ルーシでは以後も円蓋式バシリカやスクィンチ型などの形式は全く取り入れられず、内接十字型を採用し続けた。 ヤロスラフ1世の死によって、キエフ大公国の権威は次第に低下し、その建築活動も停滞したが、権力の分散は地方都市の発展を促し、ユーリイ・ドルゴルーキイによってスーズダリが、アンドレイ・ボゴリュプスキイによってウラジーミル、モスクワなどが、次第にキエフに代わる都市として成長していった。
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