キエフとキエフ大公位の位置づけ
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「キエフ大公国の分裂」の記事における「キエフとキエフ大公位の位置づけ」の解説
分領制時代のキエフは、キエフ周辺(プリピャチ川、ドニエプル川、ローシ川、ホルィニ川に囲まれた領域)を領土とするキエフ公国(あるいはキエフ国)の行政中心地であったが、ルーシ全域に対する政治的権限は縮小した。また、キエフを通り、西欧と中東を結ぶ交易路であったヴァリャーグからギリシアへの道が、十字軍の活動の余波を受けて衰退したことによって、経済活動の面においても重要性は低下していった。 1169年、北東ルーシのウラジーミル大公国のアンドレイ(アンドレイ・ボゴリュブスキー)はキエフを攻略し(ru)、略奪を行った。アンドレイは諸公の中の最長老として認識され、大公(ヴェリーキー・クニャージ)の称号を帯びていたが、キエフを直接統治せずに、弟グレプをキエフに置いて本拠地に戻った。これは、キエフ大公位を諸公の年長者が有するという伝統的な原則が形骸化したことを意味する。アンドレイはウラジーミル大公として、本拠地であるウラジーミル大公国の発展に力を入れた。 ただし、キエフは依然としてルーシ最大の都市であり、1169年のアンドレイの破壊以降も、南ルーシの諸公にとって、キエフとキエフ大公位は魅力的な存在であった。12世紀後半からモンゴルのルーシ侵攻までの間、チェルニゴフ公国のオレグ家、スモレンスク公国のロスチスラフ家、ガーリチ・ヴォルィーニ公国のロマン家の三系統がキエフ大公位の争奪戦を繰り広げた。
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