キエフへの野心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 19:34 UTC 版)
「ユーリー・ドルゴルーキー」の記事における「キエフへの野心」の解説
ユーリーは北東ルーシの有力諸侯であることに甘んじず、キエフ大公の座を狙っていた。しばしば南西ルーシのキエフに攻め入り、その政争に関与したことから、「手長公」ドルゴルーキーの名が付いた。1132年、ユーリーの最年長の兄でキエフ大公のムスチスラフ1世が亡くなると、「ルーシの国は分裂した」と年代記は伝える。ユーリーはただちにチェルニゴフの諸公に宣戦し、ノヴゴロドで自分の息子に戴冠し、南のペレヤスラフを占領した。のちにノヴゴロドの住民がユーリーより離間すると、彼はノヴゴロドの主要な要塞都市トルジョークを占領してこれに報いた。 1147年、ユーリーはキエフとの戦いを始め、2年後にキエフを占領したが、1151年には甥のイジャスラフ2世(1097年頃-1154年)によりキエフを放逐された。1155年にユーリーは再びキエフを手中に収めるが、1157年に急逝すると、キエフには反スズダリを叫ぶ蜂起が起こった。キエフ市民はイジャスラフ3世を大公として招いた。ユーリーの墓はキエフにあるベレストヴォの救主聖堂に設けられたが、彼の遺体はそこには現存しない。
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