アンドレイとの共闘・闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:21 UTC 版)
「リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)」の記事における「アンドレイとの共闘・闘争」の解説
1167年にキエフ大公である父が死んだ後、キエフ大公位には従兄弟のムスチスラフが就き、リューリクはオーヴルチを領有した。1169年、ウラジーミル大公アンドレイ(スーズダリ・ユーリー家)はキエフを陥すと(ru)、ムスチスラフを廃してアンドレイの弟のグレプをキエフ大公位に就かせた。さらに翌1170年、アンドレイがノヴゴロドへ出兵すると、ノヴゴロドの人々はロマン(先に廃されたムスチスラフの子)を追放し、リューリクをノヴゴロド公位に招いた。また、1171年にはリューリクの兄弟のロマンがキエフ大公に立てられた際に、リューリクはアンドレイからベルゴロドを受領している。 しかしこの年以降、リューリクは兄弟と共に、反アンドレイの姿勢を明確にする。1173年にアンドレイがその弟のミハイルをキエフ大公に立てると、リューリクは弟ダヴィドと共にキエフ近辺を防衛し、アンドレイによって派遣されたフセヴォロド(アンドレイの弟)、ヤロポルク(アンドレイの甥)を捕虜とし、リューリクはキエフ大公位を奪った。これに対してアンドレイが兵を繰り出すと、リューリクはキエフを捨て(代わりにヤロスラフがキエフに入った。)、ベルゴロドに籠城した。その後、1174年にアンドレイが死亡すると、リューリクの兄弟のロマンが再びキエフ大公位に就いた。 また、1176年、ロストヴェツの戦いにおいてポロヴェツ族に敗れている。
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