グレプ (キエフ大公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 04:36 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| グレプ・ユーリエヴィチ Глеб Ю́рьевич | |
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| キエフ大公 | |
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      グレプとイジャスラフの娘との結婚
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| 在位 | 1169年 - 1171年 | 
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| 死去 | 1171年1月20日 | 
| 配偶者 | キエフ大公イジャスラフ3世の娘 | 
| 子女 | ウラジーミル イジャスラフ オリガ | 
| 王家 | リューリク家 | 
| 王朝 | リューリク朝 | 
| 父親 | ユーリー・ドルゴルーキー | 
| 母親 | アエパの娘 | 
グレプ・ユーリエヴィチ(Глеб Ю́рьевич, ? - 1171年1月20日)は、キエフ大公(在位:1169年 - 1171年)。父はユーリー・ドルゴルーキー。妻はキエフ大公イジャスラフ3世の娘。
生涯
ユーリー・ドルゴルーキーの第7子として生まれ、1147年の年代記記事に初めて登場する。
1149年に父ユーリーが大公位に就くと、彼はカネフを与えられる。
1151年にはペレヤスラヴリを獲得する。
1154年にはキエフを包囲するがこれに失敗する。
1160年にはペレヤスラヴリに援助を求めてきた岳父イジャスラフ3世を追い払う。
1168年には他の公と共にポーロヴェツ(クマン人)に遠征し、彼らを打ち破る。
兄アンドレイ・ボゴリュブスキーと共に、1169年にキエフを攻め、その陥落後に、兄により、キエフ大公位につけられる。
1170年には、ムスチスラフ(2世)によるキエフへの行軍を知り、キエフを捨ててペレヤスラヴリに退却、ムスチスラフの撤退後には再度キエフの大公位につき、そのまま1171年に死去。
彼の死後、キエフをドロゴブシ公ウラジーミルが短期間占領する。
妻子
1人目の妻とは1154年に死別した。2人目の妻はチェルニゴフ公イジャスラフの娘(1155年もしくは1156年結婚)。子には以下の人物がいる。
 
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