1149年 - 1151年
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「ルーシ内戦 (1146年 - 1154年)」の記事における「1149年 - 1151年」の解説
1149年、キエフ大公位に就いたユーリーは、オレグ家のスヴャトスラフにトゥーロフ公位を与え、息子ロスチスラフ(ru)をペレヤスラヴリ公、アンドレイをヴィシゴロド公、ボリスをベルゴロド公、グレプをカネフ公にそれぞれ配置し、自領の本拠地スーズダリはヴァシリコに任せた。 同年、キエフ大公位を追われたイジャスラフは、ポーランド王国、ハンガリー王国、ボヘミア公国(ru)からの支援を得て、叔父(ユーリにとっては兄)ヴャチェスラフをキエフ大公とする画策を始めた。これに対し、ユーリーはポロヴェツ族からの支援を得て、イジャスラフの領有するヴォルィーニ公国へと軍を発し、イジャスラフの弟ウラジーミルの守るルーツクを囲んだ(ru)。外国からの軍勢を含むこの軍事衝突は、ハンガリーからの侵入・介入を危ぶむガーリチ公ウラジーミルの奔走により、ユーリ・イジャスラフの間に和平条約が締結された。しかし、ユーリーは和平条約を守らず、両者の紛争は継続されることになる。 1150年、チョールヌィ・クロブキからの援軍と共に、イジャスラフは再び軍を起こした。キエフはさしたる抗戦も行わずにイジャスラフに門を開き、ユーリーらはドニエプル川対岸(キエフの対岸)へと逃走した。はじめイジャスラフは、先の画策でまつり上げようとしたヴャチェスラフにキエフ大公位を与えず(代わりにヴィシゴロド公位を与えた)、自身がキエフ大公位に就いた。しかし、ユーリー、オレグ家、ダヴィド家と、ガーリチ公ウラジーミルからの挟撃が危ぶまれると、イジャスラフは、自身とヴャチェスラフとの共同統治を提唱・履行した。
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