1149年 - 1151年とは? わかりやすく解説

1149年 - 1151年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:50 UTC 版)

ルーシ内戦 (1146年 - 1154年)」の記事における「1149年 - 1151年」の解説

1149年キエフ大公位に就いたユーリーは、オレグ家のスヴャトスラフトゥーロフ公位を与え息子ロスチスラフ(ru)をペレヤスラヴリ公アンドレイヴィシゴロド公ボリスベルゴロド公グレプをカネフ公にそれぞれ配置し、自領の本拠地スーズダリはヴァシリコに任せた同年キエフ大公位を追われたイジャスラフは、ポーランド王国ハンガリー王国ボヘミア公国(ru)からの支援得て叔父ユーリにとっては兄)ヴャチェスラフキエフ大公とする画策始めた。これに対しユーリーポロヴェツ族からの支援得て、イジャスラフの領有するヴォルィーニ公国へと軍を発し、イジャスラフの弟ウラジーミルの守るルーツク囲んだ(ru)。外国からの軍勢を含むこの軍事衝突は、ハンガリーからの侵入介入危ぶむガーリチ公ウラジーミル奔走により、ユーリ・イジャスラフの間に和平条約締結された。しかし、ユーリー和平条約守らず両者紛争継続されることになる。 1150年チョールヌィ・クロブキからの援軍と共に、イジャスラフは再び軍を起こしたキエフさしたる抗戦行わずにイジャスラフに門を開きユーリーらはドニエプル川対岸キエフ対岸)へと逃走した。はじめイジャスラフは、先の画策でまつり上げようとしたヴャチェスラフキエフ大公位を与えず代わりにヴィシゴロド公位を与えた)、自身キエフ大公位に就いた。しかし、ユーリーオレグ家、ダヴィド家と、ガーリチ公ウラジーミルからの挟撃危ぶまれると、イジャスラフは、自身ヴャチェスラフとの共同統治提唱履行した

※この「1149年 - 1151年」の解説は、「ルーシ内戦 (1146年 - 1154年)」の解説の一部です。
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