ヤロポルク・ロマノヴィチとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヤロポルク・ロマノヴィチの意味・解説 

ヤロポルク・ロマノヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/08 16:28 UTC 版)

ヤロポルク・ロマノヴィチ(ロシア語: Ярополк Романович、? - 1177年以降)はスモレンスク公ロマンの子である。トリポリエ公:1177年、スモレンスク公:1172年 - 1174年、1175年 - 1177年。

生涯

ヤロポルクは、父のロマンがキエフ大公となった際に、自身最初のスモレンスク公位に就いた。その背景には、ウラジーミル大公アンドレイ(ru)が、自身の兄弟でありキエフ大公であったグレプの死後に、ウラジーミルがキエフ大公位に就いたことを不満とし、ウラジーミルのキエフ大公位を、ヤロポルクの父のロマンに与えたという経緯がある。ロマンはスモレンスク公国を所領としていたが、スモレンスク公国は、アンドレイの領有する強国・ウラジーミル大公国と接しており、ロマンはアンドレイにとって御しやすい存在であった。ヤロスラフがキエフ大公位に就くと、ロマンが再びスモレンスク公となった。

その後、政権闘争に敗れたヤロスラフがキエフを追われると、ロマンが再びキエフ大公位を占め、ヤロポルクにスモレンスク公国を任せようとした。しかしスモレンスクの人々が、公位にムスチスラフを招聘したため紛争となった。結果的にはヤロポルクが再びスモレンスク公位に就いた。

ポロヴェツ族とのロストヴェツの戦いの後の1177年、この戦いの敗因の責を問うという理由で、チェルニゴフ公スヴャトスラフ(ru)が、ヤロポルクのおじのダヴィドの所領の割譲を要求した。ロマンはこの要求を呑まなかったが、キエフ大公位のスヴャトスラフへの譲渡を余儀なくされ、再びスモレンスクに戻った。ヤロポルクもまた再びスモレンスク公位を父に返すことになった。

妻子

妻の名は不明。娘(名はおそらくヴィスラヴァ)はポメラニア公ボグスラフ1世(ru)[訳語疑問点]の妻となったとする説がある。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヤロポルク・ロマノヴィチ」の関連用語

ヤロポルク・ロマノヴィチのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヤロポルク・ロマノヴィチのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヤロポルク・ロマノヴィチ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS