スヴャトポルク2世とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > スヴャトポルク2世の意味・解説 

スヴャトポルク2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 10:57 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
スヴャトポルク2世
Святополк Ізяславич
キエフ大公
在位 1093年 - 1113年

出生 (1050-11-08) 1050年11月8日
死去 (1113-04-16) 1113年4月16日(62歳没)
埋葬 キエフ聖ミハイール大聖堂
配偶者 ボヘミア公スピチフニェフ2世の娘?
  エレナ(トゥゴルカンの娘)
子女 一覧参照
王家 リューリク家
王朝 リューリク朝
父親 キエフ大公イジャスラウ1世
母親 ゲルトルダ?
テンプレートを表示
テッサロニキのデメトルス。聖ミハイール大聖堂のモザイク。

スヴャトポルク2世ウクライナ語Святополк Ізяславич, ロシア語Святополк Изяславич, 1050年11月8日 - 1113年4月16日)は、リューリク朝ルーシ公爵。洗礼名はミハイール。イジャスラウ1世の子、ヤロスラウ賢公の孫。ポロツク公(在位:1069年 - 1071年)、ノヴゴロド公(在位:1078年 - 1088年)、トゥーロフ公(在位:1088年 - 1093年)、キエフ大公(在位:1093年 - 1113年)。母はミェシュコ2世の娘ゲルトルダか妾。

キプチャクとの戦いに明け暮れた。塩の商売を独占し、金貸しを保護したため、キエフの市民の間で嫌われた。キエフの象徴となった聖ミハイール黄金ドーム大聖堂を建立した。病死して聖ミハイール大聖堂で葬られた。

子女

最初の妻はプシェミスル朝出身の女性(ボヘミア公スピチフニェフ2世の娘?)とみられている。以下の子女をもうけた。

2番目の妻はポロヴェツ族トゥゴルカンの娘エレナで、以下の子女をもうけた。

以下の子女は側室の子と考えられている。

出典

  1. ^ Корниенко В.В. Молитовний надпис Брячислава Святополковича з Софії Київської Archived 2014年8月8日, at the Wayback Machine. // Праці центру пам'ятникознавства. — 2010. — № 18. — С. 211-218.
先代:
ムスチスラフ
ポロツク公
1069年 - 1071年
次代:
フセスラフ
先代:
グレプ
ノヴゴロド公
1078年 - 1088年
次代:
ムスチスラフ1世
先代:
ヤロポルク
トゥーロフ公
1088年 - 1093年
次代:
ブリャチスラフ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スヴャトポルク2世」の関連用語

スヴャトポルク2世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スヴャトポルク2世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのスヴャトポルク2世 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS