スヴャトスラフ・ウラジミロヴィチ (スモレンスク公)とは? わかりやすく解説

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スヴャトスラフ・ウラジミロヴィチ (スモレンスク公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/19 02:07 UTC 版)

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イジャスラフ・ウラジミロヴィチ
Изяслав Владимирович
スモレンスク公
ペレヤスラヴリ公
在位 スモレンスク公:1097年 - 1113年
ペレヤスラヴリ公:1113年 - 1114年

死去 1114年3月6日
家名 リューリク家
父親 キエフ大公ウラジーミル・モノマフ
母親 ギータ・オブ・ウェセックス
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スヴャトスラフ・ウラジミロヴィチロシア語: Святослав Владимирович、? - 1114年3月6日)は、キエフ大公ウラジーミル2世(ウラジーミル・モノマフ)の子のうちの1人である。スモレンスク公(在位:1097年 - 1113年)、ペレヤスラヴリ公(在位:1113年 - 1114年)。

生涯

父のウラジーミルがペレヤスラヴリ公国を統治していた時期に、スモレンスクの公(ナメストニク)となった。1113年にキエフ大公スヴャトポルク2世が死に、父・ウラジーミルがキエフ大公となると、スヴャトスラフはペレヤスラヴリ公となった。スモレンスク公には兄弟のヴャチェスラフ(後のキエフ大公ヴャチェスラフ1世)が就いた。

1114年に死去し、ペレヤスラヴリでは兄弟のヤロポルク(後のキエフ大公・ヤロポルク2世)が公となった。スヴャトスラフの家族・子孫については不明である。

出典

先代:
ダヴィド
スモレンスク公
1097年 - 1113年
ヤロポルク2世と共治)
次代:
ヴャチェスラフ1世
先代:
ウラジーミル2世モノマフ
ペレヤスラヴリ公
1113年 - 1114年
次代:
ヤロポルク2世



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