3種類のエディション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 15:18 UTC 版)
初版はキエフ洞窟修道院の修道士年代記者ネストルの手によって完成されたと思われ、故に本書は『ネストル年代記』、『ネストル原稿』とも呼ばれる。ネストルは、 もっと早期の年代記である年代記作者ヨハネス・マララス(en)とゲオルギオス・ハマルトロス(en)によるビザンツ年代記 土着の伝説(ブィリーナ) 北方サーガ ギリシア正教の記録 ルーシ・ビザンツ条約 ヤン・ヴィシャティチおよびその他の軍司令官による報告 などの資料を元にこれを書き上げた。ネストルはスヴャトポルク2世の宮殿で勤めたため、おそらく親スカンジナビアの王の視点を共有したと思われる。 年代記の前半部は、 ヴァリャーグ人3兄弟の到着 キエフの創立 アスコルドとジールの謀殺 愛馬の頭骨からでた蛇に噛まれて死んだオレグ オレグの後継者であるイーゴリの妻オリガによって行われた夫を暗殺したデレヴリャーネ族への復讐 スラヴ人の中で伝教を務めた聖人キュリロスとメトディオス(en)の仕事の説明 キエフをキリスト教化したウラジーミル聖公の雷神ペルーンおよびその他の偶像神信仰への抑圧 など逸話的な話に富んでいる。 1116年、ネストルの初版は典院(Hegumen)シリヴェストルによって広範囲にわたって編集された、彼は自分の名を年代記の最後に付け加えている。ウラジーミル・モノマフ公が彼の修道院が位置したヴィードゥブィチ(en)のパトロンであったため、この版では公は神聖化されており、書の後半部の中心人物にされている。この第2版は「ラヴレンチー写本」に保存されている(下記参照)。 第3版はその2年後に完成し、ウラジーミル公モノマフの息子であり後継者である偉大なるムスチスラフに視点を集めている。この版の著者はビザンツ関連の事柄を大幅に訂正・更新したため、ギリシア人ではないかと考えられている。この版は「イパーチー写本」に保存されている(下記参照)。
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