スヴャトポルク・ユーリエヴィチとは? わかりやすく解説

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スヴャトポルク・ユーリエヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 01:55 UTC 版)

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スヴャトポルク・ユーリエヴィチ
Святополк Юрьевич
トゥーロフ・ピンスク公
在位 1170年以降 - 1190年

出生 12世紀
死去 1190年
子女 ウラジーミル
ロスチスラフ
家名 リューリク朝
父親 トゥーロフ・ピンスク公ユーリー
母親 アンナ・フセヴォロドヴナ
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スヴャトポルク・ユーリエヴィチロシア語: Святополк Юрьевич、? - 1190年)は、ユーリー・ヤロスラヴィチの子である。トゥーロフ・ピンスク公(在位:1170年以降 - 1190年)。

生涯

1157年ガーリチ公ヤロスラフの依頼により、イヴァン・ロスチスラヴィチの引渡しを求めてスーズダリ公(兼キエフ大公ユーリーのもとへ向かったが(この時イヴァンはヤロスラフと敵対関係にあり、ユーリーに捕らえられていた)、イヴァンを庇護しようとする聖職者たちの介入によって、イヴァンはスーズダリへと送られた。

1161年ウラジーミル・ムスチスラヴィチに対する遠征軍に参加した。1168年には他の諸公と共にポロヴェツ族への遠征に参加、またキエフ大公ムスチスラフを支援してウラジーミル大公アンドレイと戦った。一方、1173年にはアンドレイ陣営に加わり、ロスチスラフ家と戦っている。

1173年、ガーリチ公ヤロスラフは妻のオリガとの間に軋轢が生じ、オリガを遠ざけた。オリガは息子のウラジーミルと共にポーランドへ逃れたが、スヴャトポルクはオリガの帰還を求めた。一方、1183年、ガーリチ公ヤロスラフと不和になったオリガの息子のウラジーミルに対しては、身元の受け入れを拒否している。

1190年に死亡した。

子女

参考文献

先代:
イヴァン
トゥーロフ公
1170年以降 - 1190年
次代:
グレプ



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