誓ひ、祈ひ
誓約(うけひ)
★1a.ある条件を設定し、その成否によって、願いが叶うかどうか、吉か凶か、運命を占う。
『出雲国風土記』嶋根の郡加賀の神崎 「今誕生する佐太の大神が勇猛な神の子ならば、失せた弓箭出よ」と、枳佐加地売命が願う。水のまにまに角の弓箭が流れ来、ついで金の弓箭が流れ来る。
『大鏡』「道長伝」 不遇時の道長が伊周と競射をした折、「我が家より帝・后立ち給うべきならばこの矢当たれ」と言って的の真中に射当て、また「摂政・関白すべきならばこの矢当たれ」と言って再び的の真中に射当てた。
『古事記』上巻 高天原に上ったスサノヲは、邪心のないことをアマテラスに示すため、各々うけひをして子を産もうと提案する。スサノヲは女子・アマテラスは男子を得、「これで我が心の清明なることは証された」とスサノヲは言う。
『古事記』上巻 コノハナノサクヤビメは一夜で妊娠したが、ニニギノミコトは「我が子ではあるまい。国つ神の子であろう」と疑う。サクヤビメは「もし国つ神の子ならば無事には産まれまい。もし天つ神の御子ならば無事に産まれよう」と言い、産屋に火をつけて産んだ〔*『日本書紀』巻2神代下・第9段本文・一書第2・第5に類話〕。
『古事記』中巻 出雲の大神を拝することの可否を知るため、曙立王がうけひをして樹上の鷺を地に落とし、また蘇らせ、葉広熊樫を枯らし、また生かした。
『日本書紀』巻3神武天皇即位前紀戊午年9月 神武天皇が「八十平瓦(やそひらか)で水なしに飴を作ろう。もしできれば、武器を使わず、いながらに天下を平定できるだろう」とうけひをする。飴はすぐできた。また、「神酒の瓷を丹生之川に沈め、大小の魚が悉く酔って流れれば、私はこの国を平定するだろう」とうけひをする。魚は皆浮かび上がり、口を開いた。
『日本書紀』巻3神武天皇即位前紀戊午年9月 椎根津彦と弟猾が、老父・老嫗の姿をして香具山の土を取りに行く。椎根津彦が、「我が君(神武帝)が国を平定すべきものならば、行く道は自ら開け、もしできないのなら敵が道を塞ぐだろう」と、うけひをする。敵兵は2人を見て「醜い老人だ」と笑い、道をあけた。
『肥前国風土記』基肆(き)の郡姫社の郷 珂是古が、まことに私の祭祀を望む神があるならその神の所に落ちよ、と祈って幡を風に放つと、幡は飛んで御原の郡の姫社の社に落ちた。
『肥前国風土記』松浦の郡(神功皇后) 神功皇后が縫針を曲げて釣針とし、飯粒を餌とし、裳の糸を釣糸として「新羅征伐が成就するなら、鮎よ、我が釣針を呑め」と祈誓して釣針を投げると、まもなく鮎がかかった。
『常陸国風土記』行方の郡 建借間命が遠方に烟を見て「天つ人の烟ならば我が上にたなびけ。荒賊の烟ならば海にたなびけ」と言う。烟は海に流れ、凶賊のいることがわかった。
『平家物語』巻7「願書」 木曾義仲が平家との戦いを前に、「神の加護が得られるならば瑞相を見せ給え」と八幡社に願書を奉ると、山鳩3羽が舞い下りて源氏の白旗の上を飛び廻った。
『平家物語』巻11「遠矢」 壇の浦で戦う源平の軍船の間に多数のいるかが現れ、平家の方へ向かう。宗盛の命を受けた博士が、「いるかが後戻りすれば源氏亡び、我が船団の下を通らば平家危うし」と占う。いるかは平家の船の下を真直ぐに泳ぎぬけた。
*さいころの重六が出るかどうか→〔さいころ〕1aの『大鏡』「師輔伝」。
*予想が当たるかどうか→〔舞踏会〕2の『戦争と平和』(トルストイ)第2部第3篇
*矢が当たるかどうか→〔矢〕1bの『古事記』上巻(天若日子)。
*指輪が見つかるかどうか→〔指輪〕4の『ドイツ伝説集』(グリム)240「女の砂州」。
*戦をすべきかどうか→〔木登り〕6の『古事記』中巻(香坂王)。
*新羅を攻めるべきかどうか→〔釣り〕8の『日本書紀』巻9神功皇后摂政前紀(仲哀天皇9年4月3日)。
*雷雨が止むかどうか→〔雷〕6の『日本書紀』巻28天武天皇元年6月。
★1b.日本でも外国でも、しばしば石が誓約(うけひ)に用いられる。
『三国志演義』第54回 呉国の婿となるべく赴いた劉備は、寺の巨石を見て「無事に荊州へ戻れ、天下統一の願いが叶うならば、石よ2つになれ。もしここで死ぬ運命ならば、刃は砕けよ」と祈り剣を振り下ろすと、石は2つに切れた。孫権が「呉が隆盛になるならば、2つになれ」と念じて剣を振るうと、石はまた切れて、あわせて十文字の痕がついた。
『ドイツ伝説集』(グリム)135「巨人岩」 ザルツヴェーデルの町を敵軍が包囲するが、天使の群れが町を護っていたので、なかなか町を落とせない。いらだった敵の大将が、前にある大きな岩に軍刀を向け、「町を征服できぬ定めならば、神よ、この石をバターのごとくなし給え」と言って斬りつける。すると岩は、バターのように刃を受け入れた。
『日本書紀』巻7〔第12代〕景行天皇12年(A.D.82)10月 景行天皇が柏峡の大野の巨石にうけひをして、「土蜘蛛を滅ぼすことができるなら、この石を蹴ったら柏の葉のごとくに上がれ」と言い、蹴ると、柏の葉のように大空に舞い上がった。
『豊後国風土記』直入の郡蹴石野 景行天皇が「土蜘蛛討伐が成就するなら、この大石は柏葉のごとく上がれ」と祈誓して蹴ると、石は舞い上がった。
『友情』(武者小路実篤)上・22 夏の夕方、野島は浜辺の石を海へ投げ、「3つ以上波の上を切ってとんだら、杉子は自分と結婚するのだ」と占った。しかしなかなかうまくいかず、3度目に投げた石がようやく水上を3つとんだ。また、波打ち際に「杉子」と書き、「波が10度来るまでに消されなければ・・・・」と思ったが、8度目の波が杉子の名を消した〔*杉子は、野島の親友・大宮を愛していた〕。
*→〔誓約(うけひ)〕3の『春』(島崎藤村)。
『平家物語』巻11「鶏合 壇浦合戦」 源氏と平家が壇の浦で最後の決戦をした時、熊野の別当湛増は、源・平のどちらに味方すべきか迷い、田辺の新熊野の神前で、白い鶏7つと赤い鶏7つを闘わせた。赤い鶏は1つも勝たず、すべて負けて逃げたので、湛増は源氏方についた。
『法王庁の抜穴』(ジッド)第5章 「動機なき犯罪」を思うラフカディオは、列車に乗り合わせた男を外へ突き落とそうか、と考える。もし12数える間に野火が見えなかったら、何もせずにおくことにするが、10まで数えた時、野火が見えたので、ラフカディオは男を突き落として殺した。
*雷に撃たれるかどうか→〔落雷〕1の『悪徳の栄え』(サド)。
『詩と真実』(ゲーテ)第3部第13章 「私」がラーン河のほとりを歩いていた時、「ナイフを投げ、それが河に落ちる所が見えたら、画家になれるだろう。柳の茂みに隠れて見えなければ、その願いは叶わないだろう」との心奥の声が聞こえた。「私」がナイフを投げると、落ちる所は柳の陰で見えなかったが、水しぶきはよく見え、曖昧な結果に終わった。
『春』(島崎藤村)106 24歳の岸本捨吉は自分の一生の方向を占うため、路傍の石塊を、崖下の谷川に落としてみた。「石塊が河の中へ落ちたら文芸の道を進もう。途中で止まったら他の職業の中へうずもれてしまおう」と考えたのだが、石塊は、1つは河を越して向こうへ落ち、1つは河の中に落ち、1つは河の手前で止まった。結局、どうしたらよいかわからなかった。
うけい
(うけひ から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 04:54 UTC 版)
うけい(うけひ)は、古代日本で行われた占いである。宇気比、誓約、祈、誓などと書く。
概要
あらかじめ「神意がAにあればA’が起こる、神意がBにあれば、B’が起こる」と宣言を行い、現実にA’とB'のどちらが起こるかによって、神意がいずれにあるかを判断する[1]。記紀における神託が神がかりや夢のような一方通行的なものである場合に、人間の側が積極的に神意をはかるために、自ら現象に対する判断基準を設定した上で、望ましい兆表が出るよう祈りを行う「呪詛的行為」であると言われる[2]。
例
日本神話では、重要な場面で誓約が行われている。
アマテラスとスサノオ
素戔嗚尊(建速須佐之男命)は姉・天照大神(天照大御神)を尋ねて天に昇ったが、天照大神は素戔嗚尊に国を奪おうとする悪心があるのではないかと疑い、男装し武装して待ち構えた。素戔嗚尊は自身が清い心を持っていることを証明するため、互いに誓(うけ)いをして子を生もうと提案した。
天照大神は素戔嗚尊の十握剣(十拳劔)から女神3柱(宗像三神)を、素戔嗚尊は天照大神の八尺瓊之五百箇御統(やさかにのいほつのみすまる)から男神5柱を生んだ。(『日本書紀』巻1[3]・『古事記』上巻[4])
うけいは結果的に素戔嗚尊の勝利となるが、その理由付けや事前に判断基準の合意があったかは『古事記』・『日本書紀』本文および「一書」によって差異がある。
オホヤマツミ
天孫降臨の後、天津日高日子番能邇邇芸能命が木花之佐久夜毘売を見初めて妻にしようとしたところ、その父大山津見神は喜び、石長比売と木花之佐久夜毘売の姉妹を差し出した。邇邇芸能命は姉石長比売が甚だ醜かったため、これを送り返して木花之佐久夜毘売だけと結婚した。大山津見神は、「娘2人を差し出したのは、石長比売を側に置けば、天つ神の御子は石の如くにいつまでも変わらないでいらっしゃるであろう、木花之佐久夜毘売を側に置けば、木の花のように栄えられるであろうと誓(うけ)いて奉ったのだ。石長比売を返し、木花之佐久夜毘売を留め置かれたからには、天つ神の御子の命も、木の花のようにはかなくていらっしゃるであろう。」と言った。(『古事記』上巻[5]、『日本書紀』巻2一書に同様の逸話[6])
コノハナノサクヤビメ
瓊瓊杵尊と結婚した木花之開耶姫が一夜で身籠もったことに対し、瓊瓊杵尊は自身の子でないか疑った。木花之開耶姫は怒り、戸のない産屋に籠もり、「もし瓊瓊杵尊の子でなければ必ず焼け滅びる。もし瓊瓊杵尊の子ならば火で害されることはない」と誓(うけ)い、産屋に火を放った。木花之開耶姫は無事3人の男子を出産した。(『日本書紀』巻2[7]、『古事記』上巻に同様の逸話[5])
神武天皇
神武東征において、神武天皇が菟田の高倉山(宇陀市大宇陀守道?)から見渡すと、国見丘(経ヶ塚山?)の上には八十梟帥があり、女坂に女軍、男坂に男軍、墨坂に焃炭を置き、磐余邑(桜井市西部)には兄磯城の軍が溢れていた。皆要害の地であり、道が塞がり通るところがなかった。
天皇はこれに難儀し、自ら祈(うけ)いて就寝した。すると夢に天つ神が現れ、「天香山の社の中の土を取って天平瓮(あまのひらか)八十枚と厳瓮(いつへ)を作り、天神地祇を祀り、厳呪詛(いつのかしり)をせよ。そうすれば敵は自ずから降参するであろう」と告げた。神武天皇は椎根津彦と弟猾に老人の男女の扮装をさせ、天香山の土を取ってくるよう命じた。道には敵兵が満ちて、行き来は困難であった。椎根津彦は「我が主君がこの国を治めなさることができるならば、行く道は自然と通じよ。もしできぬのであれば、必ず賊に防がれよう」と祈(うけ)いて言い、直ちに出発した。2人は無事土を手に入れ帰還した。天皇はたいへん喜び、その土で八十平瓮と天手抉(あまのたくじり)八十枚、厳瓮を作り、丹生川(紀の川支流、小川?)の上流(丹生川上神社?)で天神地祇を祭祀した。
天皇は菟田川の朝原(丹生神社)で、また祈(うけ)いて「私は今から八十平瓮を以て水無しに飴(たがね)を作ろう。飴ができれば、私は必ず武力に頼ることなく、坐したままに天下を平らげるであろう」と言った。そうして天皇が飴をお作りになると、飴は自然とできあがった。また祈(うけ)いて「私は今から厳瓮を丹生之川に沈めよう。もし魚が大小問わずまるで柀(まき)の葉が浮き流れるように、酔い流れるならば、私は必ずこの国を治めることができるであろう。もしそうならなければ、何も成し遂げられないであろう」とおっしゃって、口を下に向けて瓮を川に沈めた。しばらくして魚は皆浮いて、水に流されて口をパクパクさせた。天皇は大いに喜んだ。(『日本書紀』巻3[8])
垂仁天皇
垂仁天皇の皇子、本牟智和気王命は鬚が伸びるまで言葉を発さなかった。空を飛ぶ鵠の鳴き声を聞いて初めて顎を動かしなさったので、山邊之大鶙という者に命じて捕獲させた。天皇はその鳥を皇子が見れば物を言うだろうとお思いになられていたが、予想されたように言葉を発することはなかった。
天皇はお悩みになり、夢で「我が宮を天皇の御舎のように造り直せば、皇子は必ず物を言うであろう」とお告げを受けた。天皇が太占の占いでどの神の心か探し求めたところ、その祟りは出雲大神の御心だった。皇子にその大神の宮を拝ませるのに誰を付き添わせるのか占い、曙立王と決まった。
天皇は曙立王に「この大神を拝むことで本当に霊験があるのならば、鷺巣池の樹に住む鷺、宇気比(うけひ)落ちよ」と宇気比(うけひ)白(まを)させた。すると宇気比したその鷺は落ちて死んだ。また「宇気比活きよ」と天皇が命じて言わせると、鷺は生き返った。また甜白檮(あまかし)の前の葉広熊白檮(はびろくまかし)を宇気比枯らしめ、また宇気比生かしめた。これによって曙立王は倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとしきとみとよあさくらのあけたつのおおきみ)という名前を賜った。
皇子は曙立王・菟上王を伴って出雲大神を参拝し、その帰途に言葉を発した。天皇は歓喜し、神の宮の造営を行わせた。(『古事記』中巻[9])
神功皇后
仲哀天皇は、神功皇后の口から発せられた「熊襲ではなく新羅国を征服すべきである」との神託を信じず、熊襲を攻めて失敗し、崩御した。
神功皇后は熊襲を平定した後、火前国松浦県玉嶋里の小河のほとりで食事をした。皇后は針を曲げて釣鉤を作り、飯粒を餌に、裳の糸を釣り糸として、川の中の石の上から釣鉤を投げ入れ、「私は西に財(たから)の国を求めたいと思う。もし成功するならば、河の魚は釣鉤に食いつけ」と祈(うけ)いて言った。釣り竿を挙げると、細鱗魚を獲た。皇后は「珍しい物である」とおっしゃった。(『日本書紀』巻9[10])
類例
呪(ほ)く
天照大神は天稚彦に葦原中国平定を命じ、天鹿児弓(あまのかごゆみ)と天真鹿児矢(あまのかごや)を与えて地上に遣わしたが、8年間音信がなかった。天照大神は思兼神に相談して雉を遣わしたが、天稚彦は天鹿児弓と天真鹿児矢で雉を射殺し、矢は天神の元まで届いた。天つ神は矢を取って「もし天稚彦が悪心をもって矢を射たなら、必ず害に遭うであろう。きよき心をもって射たならば、恙なくあろう。」と呪(ほ)きて言い、矢を還し投げた。矢は天稚彦の胸に当たり、死んでしまった。(『日本書紀』巻2一書[11]、『古事記』上巻に同様の逸話[12])
祈狩(ウケヒガリ)
新羅征伐の途上で仲哀天皇が崩御し、神功皇后が皇子(のちの応神天皇)を産み凱旋するとの報に接した忍熊王と麛坂王(香坂王)は、彼らを待ち構えて迎撃しようとした。忍熊王と麛坂王は「若し事を成すこと有らば、必ず良き獣を獲む」と言って菟餓野(斗賀野)(大阪市北区兎我野町?)で祈狩(宇気比獦)を行ったが、赤い猪が現れて麛坂王を食い殺してしまった。兵士は恐れおののき、忍熊王も凶兆として兵を引いて住吉に布陣した(古事記では忍熊王はこれを畏れず攻撃を始めたとする)。(『日本書紀』巻9[13]・『古事記』中巻[14])
誓湯(ウケヒユ)
脚注
- ^ 坂本 et al. 1994a, p. 347.
- ^ 石井 2012, p. 434.
- ^ 坂本 et al. 1994a, pp. 60–74.
- ^ 倉野 1963, pp. 35–39.
- ^ a b 倉野 1963, pp. 77–79.
- ^ 坂本 et al. 1994a, p. 144.
- ^ 坂本 et al. 1994a, pp. 122–124, 142–158.
- ^ 坂本 et al. 1994a, pp. 216–222.
- ^ 倉野 1963, pp. 124–128.
- ^ 坂本 et al. 1994b, pp. 140–142.
- ^ 坂本 et al. 1994a, pp. 124–126.
- ^ 倉野 1963, pp. 63–65.
- ^ 坂本 et al. 1994b, p. 158.
- ^ 倉野 1963, pp. 152ー153.
参考文献
- 石井, 紫郎『日本人の法生活』東京大学出版会〈日本国制史研究〉、2012年3月30日。ISBN 978-4-13-031181-6。
- 倉野, 憲司『古事記』岩波書店〈岩波文庫〉、1963年1月16日。 ISBN 4-00-300011-0。
- 坂本, 太郎、家永, 三郎、井上, 光貞、大野, 晋『日本書紀』 1巻、岩波書店〈岩波文庫〉、1994年9月16日。 ISBN 4-00-300041-2。
- 坂本, 太郎、家永, 三郎、井上, 光貞、大野, 晋『日本書紀』 2巻、岩波書店〈岩波文庫〉、1994年10月17日。 ISBN 4-00-300042-0。
関連項目
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