5歳とは? わかりやすく解説

5歳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/11 06:36 UTC 版)

5歳(ごさい、1983年3月24日 - )は、日本の男性インフルエンサーライター実業家。本名、菅野 康太(かんの こうた)[1]。株式会社アマヤドリ代表取締役


  1. ^ 5歳さんの会社名(インタビュー)「人気ツイッタラー #5歳さんの会社名 を考えるために #コッピーTV賞」『言葉が強くなる✏️コッピーTV』、2019年12月29日https://www.youtube.com/watch?v=gUU4T_znMSg2020年7月4日閲覧 
  2. ^ いちばん好きなもの|5歳(嫁公認アカウント)
  3. ^ 僕は25歳の夏、マザーテレサの「死を待つ人の家」で、毎日誰かを看取っていた
  4. ^ Twitterフォロワー10万超のリサーチ整体師・5歳は、本物のインフルエンサーとして楽しく稼ぐ方法を模索する。
  5. ^ 嫁に読まれる覚悟を決めたらフォロワーが10万人増えた アルファツイッタラー”5歳”さんが語るこれからのTwitter
  6. ^ MEMBER|株式会社チョコレイト|CHOCOLATE Inc
  7. ^ 株式会社カラス
  8. ^ ライター5歳、株式会社設立までの全部お見せします!
  9. ^ 僕と嫁とジェラシー【連載】嫁公認コラム
  10. ^ 5歳【嫁公認アカウント】 | 嫁公認コラム | 街角のクリエイティブ
  11. ^ 5歳|「マイナビウーマン」
  12. ^ 「5歳(嫁公認アカウント) 」の記事一覧 | びゅうたび
  13. ^ ライター詳細 5歳 | アイスム
  14. ^ 困ったときの駆け込み垢!5歳のお悩み相談室 | 三井のリハウス
  15. ^ 5歳さんコラム | ママの知りたい情報が集まるアンテナママテナ
  16. ^ ぼくの嫁の乱暴な愛情 松本 あやか:一般書 | KADOKAWA 2017年08月25日


「5歳」の続きの解説一覧

5歳(2021・22年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:34 UTC 版)

ウェリントン (競走馬)」の記事における「5歳(2021・22年)」の解説

11月21日ジョッキークラブスプリント(G2)で始動するも7着に敗れ12月12日香港スプリント(G1)でも7着と連敗年明け1月23日センテナリースプリントカップ(G1)も4着と3連敗喫した2月20日クイーンズシルバージュビリーカップ(G1)ではスタート一息広報3番となったが、直線中央持ち出してから末脚しっかりと伸ばして先行集団飲み込み2度目のG1制覇となった4月3日スプリントカップ(G2)では縦長となった馬郡で後方3番手で待機し直線に入ると馬場中央伸びてゴール板前でクビ差だけ差し切った24日チェアマンズスプリントプライズ(G1)は中団からやや後方控え直線に入ると進出開始し残り200m切ったところで先頭交わして3連勝連覇果たした

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5歳(2011年)

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クラウデッドハウス」の記事における「5歳(2011年)」の解説

休養終えてドバイ遠征し2月3日のマクトゥームチャレンジラウンド2(G3)に出走したが7着、続くバージナハール(G3)でも9着。3月26日ゴドルフィンマイル(G2)では最下位14着に終わった。そのレース最後に引退した

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5歳(2010年)

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パコボーイ」の記事における「5歳(2010年)」の解説

休養終えて4月24日ベット365マイル (G2) に出走、1番人気に応え見事連覇飾った。続く5月15日ロッキンジステークスでは後方から馬場の外を追い込み、内から抜けてきたウクバを差し切って勝利G1競走3勝目挙げた6月15日クイーンアンステークス連覇かかっていたが、先に抜け出したゴルディコヴァクビ差で追い込み届かず2着と、連覇はならなかった。8月15日ジャック・ル・マロワ賞ではいつものように最後方でレース進め最後直線馬場内側か追い込んでくるも3着だった。9月5日ムーラン・ド・ロンシャン賞ではフュイッセの4着に敗れた10月3日フォレ賞では後方から追い込んでゴルディコヴァの2着に入った11月にはアメリカ合衆国遠征しブリーダーズカップ・マイル出走したが4着に終わった香港遠征し12月12日行われた香港マイルでは13着と惨敗した。このレース最後に現役引退種牡馬入りした。

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5歳(2005年)

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グラッブユアハート」の記事における「5歳(2005年)」の解説

年明け前年続きTCK女王盃出走、前走に続き番人気に推されるもスタートが決まらず5着、勝ったのはレマーズガールだった。次走のエンプレス杯レマーズガールハナ差交わすもプルザトリガーに半馬身差で逃げ切られ2着となる。1年3か月ぶりに混合戦に出走した仁川ステークスは8着に敗れる。続くマリーンカップ上がり最速の脚を使うもトーセンジョウオークビ屈し2着、連覇狙ったスパーキングレディーカップは3着に敗れ連覇逃す。3か月間を開け白山大賞典出走、2週目3コーナー先頭に立つと後続突き放し猛然と迫るハードクリスタル1馬身振り切り重賞2勝目挙げる。なお、牝馬による白山大賞典制覇25回目にして初めてだった。次走、前年2着だったクイーン賞は4コーナー抜群の手応え前に取り付くと、直線では差を広げていき、10馬身差の圧勝連勝重賞3勝目挙げた。なお、前年覇者レマーズガール最下位敗れている。

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5歳(2011年)

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ナイキハイグレード」の記事における「5歳(2011年)」の解説

2011年5月3日かきつばた記念1年2ヶ月ぶりに復帰最後方から追いあげたが6着。レース後は休養入った

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5歳(2005年)

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レマーズガール」の記事における「5歳(2005年)」の解説

前年同じく年明け初戦TCK女王盃選択、別定57背負ってレースだったが、後続1馬身半差をつけ連覇を飾る(グラッブユアハートは5着)。次走、エンプレス杯はプルサトリガーに逃げ切られ、さらにグラッブユアハートハナ交わされ3着、こちらは連覇とはならなかった。続く、名古屋大賞典クーリンガー相手に半馬身差の2着。マーチステークスは8着に敗れる。このレース以降中央での競馬場レースには参戦していない。初の1400m戦となったかきつばた記念は7着。続く牝馬限定マイル重賞2戦はマリーンカップはやや離された3着、スパーキングレディーカップは6着。半年休養明けとなったクイーン賞大差最下位敗れる。なお、勝ったのはグラッブユアハートだった。

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5歳(1989年)

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サクラチヨノオー」の記事における「5歳(1989年)」の解説

東京優駿の後に右前脚浅屈腱炎発症し長期離脱となったその間に、1歳下の半弟サクラホクトオー(父:トウショウボーイ)が朝日杯3歳ステークス優勝し兄弟制覇遂げた1989年5月安田記念350日ぶりの復帰長期療養明けにもかかわらずホクトヘリオスリンドホシに次ぐ3番人気支持されたが、ブービー賞16着に敗退した。続く宝塚記念でも4番人気支持されたが、競走中に故障発生して失速ブービーからさらに大差つけられ最下位16となった競走後屈腱炎再発確認されて、競走馬引退1989年6月25日札幌競馬場引退式が行われた。

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5歳(1987年)

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フレッシュボイス」の記事における「5歳(1987年)」の解説

1987年血統的に短距離向きだが、長距離戦線まずまずの成績残したことで春の目標天皇賞(春)定め緒戦日経新春杯を1番人気で快勝したちなみにこれが生涯唯一の1番人気での勝利であった。 次走阪神大賞典勝ったスダホークから離されての4着に終わる。この結果受けて陣営相手強化され、さらに距離が200m伸びる天皇賞では勝負ならない判断し目標安田記念切り替える安田記念では、主戦騎手田原成貴天皇賞ニシノライデン騎乗した際に進路妨害による失格でで騎乗停止となったので、鞍上柴田政人乗り替わった前哨戦京王杯スプリングカップダイナアクトレスらを一蹴したニッポーテイオーが単指定されて1番人気。中山記念勝ったスズパレード同じく単枠指定になって2番人気フレッシュボイス離れた3番人気だったが、重馬場の中、逃げ切りを狙うニッポーテイオー大外一気末脚でかわし、GI制覇飾った

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5歳(2005年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:52 UTC 版)

ゼンノロブロイ」の記事における「5歳(2005年)」の解説

5歳の前半シーズンゼンノロブロイ海外遠征見据えて前哨戦経ず宝塚記念出走し3着。渡英してイギリスG1競走インターナショナルステークス出走しレースは1番人気に支持されエイダン・オブライエン厩舎エース逃げる中後ろから2番手を追走し、最後直線では5頭が並ぶ大接戦演じたのち前をわずかに行くマラーヘルハナわずかに抑えたかと思った刹那、さらに外からやってきたエレクトロキューショニストクビ交わされ2着に敗れた敗因について調教師藤沢は「思ったより馬場ボコボコしていてノメっていた」とイギリス独特の重い響いた語ったまた、この日が初騎乗で唯一の騎乗ともなった武豊も「思ったより馬場悪くてビュッと切れる脚が使えなかった」と馬場敗因として挙げている。また、武はのちに、事前にライバル馬の映像研究を行っていたものの、エレクトロキューショニストだけは研究していなかったことを明かしている。 帰国後出走した天皇賞(秋)では1番人気に推されたものの、レースでは直線ヘヴンリーロマンス競り負けてアタマ差の2着に敗れた。続くジャパンカップでは接戦の末3着、引退レースとなった有馬記念ではスタート直後に脚を捻った影響で8着に敗れ競走生活初め掲示板(5着以内)を外す。

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5歳(2006年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:50 UTC 版)

ハーツクライ」の記事における「5歳(2006年)」の解説

2006年初戦として選んだのは、3月ドバイシーマクラシックであった事前の同じ橋口厩舎ユートピアとの追い切りでは、馬なり上がり3ハロン33秒台という破格時計出し本番では有馬記念同じく逃げ先行作戦で、直線ではムチ入れことなくOuija Boardウィジャボード)ら後続突き放し2着に4馬身差をつけ勝利した同年7月には欧州最高峰競走1つキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス出走Hurricane Runハリケーンラン)に次ぐ2番人気支持された。1970年以来の6頭立てという少頭数となり、終始3、4番手追走して、最後直線一度先頭に立つなど健闘したものの、3着に終わったレース後、橋口は「イギリスへ来て馬が寂しがっていたのは意外だった来年帯同馬連れて、再び同レースハーツクライ挑戦させたい」と語った同年日本初となったジャパンカップでは、凱旋門賞出走後のディープインパクトとの有馬記念以来再戦ということもあり、注目された。しかしレース前ハーツクライ喘鳴症発症していることが公表され不安が残る中での出走となった。そして2番人気迎えたレースではスタートから先行しライバルであるディープインパクト最後方につける中、ハーツクライ道中3番手を進み最後直線迎えたが、近走の様な手応えがなく、見せ場なく沈み11頭立て10着と大敗した橋口大敗喘鳴症影響によるという見方示しオーナー及び関係者協議結果11月28日現役引退発表され2007年より種牡馬入り決まった

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5歳(1999年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:38 UTC 版)

セイウンスカイ」の記事における「5歳(1999年)」の解説

1999年初戦には日経賞選択され、同じシェリフズスターを父に持つセイウンエリアに5馬身の差をつけて勝利する。しかし、2番人気迎えた天皇賞(春)では、スペシャルウィークメジロブライト差し切られ3着に敗れた休養後、札幌記念では鞍上横山が「馬の行くまま」にまかせた結果戦法一転させ10頭立て7番手に控えて後方待機すると、3コーナー手前からまくり気味に進出して後続突き放し同期の2冠牝馬ファレノプシスを半馬身抑えて勝利する。 しかし1番人気で臨んだ天皇賞(秋)では、本馬場入場時にダイワテキサス接触した上に、入りを約5分間渡って嫌がるアクシデントなどもあり5着に敗退。この入り不良事件は、入り指示について厩舎側と発走委員の間で責任なすり合いとなり、セイウンスカイ1ヶ月出走停止処分となった。さらに、レース後にセイウンスカイ屈腱炎発症し長期休養余儀なくされた。

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5歳(2007年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:14 UTC 版)

メイショウトウコン」の記事における「5歳(2007年)」の解説

2007年、初の重賞挑戦となった第14回平安ステークスでは騎乗停止中の武幸四郎から石橋守乗り替わり9番人気という評価だったが、サンライズバッカスアタマ差で先着重賞初挑戦で初制覇となった。初のGI挑戦となった第24回フェブラリーステークスでは再び武幸四郎騎乗し4番人気という評価だったが11着と敗れてしまった。第12回アンタレスステークスでは1番人気に支持されるも3着となり、第24回東海ステークスでは2番人気勝利し重賞2勝目挙げたその後ホッカイドウ競馬ダートグレード競走ブリーダーズゴールドカップ出走予定であったが、馬インフルエンザ問題で、同馬を含む中央馬全馬が競走除外になったその後9月17日札幌競馬場行われたエルムステークス出走武幸四郎怪我ため池添謙一に乗り替わるものの、直線では相手寄せ付けず完勝重賞3勝目挙げ10月3日発表され重賞オープン特別競走レーティングでは、110ポンド評価得た。続く第8回ジャパンカップダート4番人気で、後方から鋭く追い込むものの、届かず4着だった。続く第53回東京大賞典では3番人気で3着となった

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5歳(1987年)

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ダイナガリバー」の記事における「5歳(1987年)」の解説

5歳となり天皇賞(春)目指して、日経賞出走したが3着に終わったこの頃秋に凱旋門賞挑戦するためフランス遠征する計画持ち上がっていたが、天皇賞前に骨折してしまい、この計画頓挫してしまった。 秋に骨折癒え毎日王冠から復帰した12着と大敗、続く有馬記念14着と惨敗し、この有馬記念最後に引退した

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5歳(2003年)

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ニホンピロサート」の記事における「5歳(2003年)」の解説

年明け初戦ガーネットステークスはトップハンデタイの57 kg背負うが、ダート短距離で4馬身差の圧勝重賞初制覇となる。次走、根岸ステークス1.5倍の人気集めたが、中団から伸びるサウスヴィグラスクビ交わせず2着。その後長期休養入り、7か月ぶりのレースとなったエルムステークス復帰。前走から500mの距離延長調整不足が相まってブービー12着に敗れる。適正距離に戻ったシリウスステークスは6着。次走、武蔵野ステークス11着、霜月ステークス5着とやや不本意な競馬続いたが、ギャラクシーステークスをのちの重主戦のひとりとなる小牧太騎乗し3/4差で制す

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5歳(2009年)

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ドリームジャーニー」の記事における「5歳(2009年)」の解説

2009年は、1月25日アメリカジョッキークラブカップから始動、1番人気に支持される直線では伸びず8着に敗れた中山記念では直線鋭く伸びるも、前を行くカンパニーわずかに捉えられず2着に敗れた産経大阪杯では3番人気支持され最終直線の2ハロン先頭に立つと、1番人気のディープスカイとの追い比べ制し重賞5勝目挙げたその後は春の大目標として金鯱賞挟み宝塚記念目指す予定だったが、状態が良いことから急きょ天皇賞(春)への参戦決める。レース菊花賞以来久々長距離レースとなったが、先行勢が潰れるという展開から、最終直線大外から鋭く伸びて3着に入った6月28日、春の大目であった宝塚記念では、ディープスカイ単勝1.6倍の圧倒的1番人気に推され一強ムード中2番人気で出走レースコスモバルク大逃げを打つ中で中団待機策を取り最後直線抜け出すディープスカイサクラメガワンダーらの追走振り切り優勝2年半ぶりのGI競走制覇果たした休養挟み9月27日オールカマーでは1番人気に支持されレースでは中団追走から最後直線追い上げてくるも逃げマツリダゴッホ捉えることができず2着に敗れた11月1日天皇賞(秋)では、ウオッカシンゲンオウケンブルースリに次ぐ4番人気出走最後方あたりからレース進めたが、カンパニーの6着に敗れた12月27日第54回有馬記念グランプリ)に出走最初の900mが52.2秒のハイペース逃げる中、最後待機策から徐々に進出し直線ブエナビスタを外からかわして優勝。父ステイゴールド母父メジロマックイーンが共に敗れていた競走制した。 なお、春秋グランプリ制覇グレード制導入以降イナリワン1989年)、メジロパーマー1992年)、グラスワンダー1999年)、テイエムオペラオー2000年)、ディープインパクト2006年)に続いて6頭目となった出走馬体重426kgは2006年ディープインパクトの438kgを下回りグレード制導入以降では最も軽い優勝馬となったまた、管理調教師池江泰寿の父、池江泰郎ディープインパクト春秋グランプリ制覇しており、史上初の春秋グランプリ親子調教師制覇となった春秋グランプリ制覇評価されこの年JRA賞最優秀4歳以上牡馬選出された。

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5歳(2009年)

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ゼニヤッタ」の記事における「5歳(2009年)」の解説

2009年はルイビルディスタフステークス (G2) から始動予定も、馬場状態悪化理由出走取り消した。3週間後にミレイディハンデキャップ (G2) で改め復帰当日重賞3連勝中の僚馬・ライフイズスウィートと人気分け合ったレース十数馬身離れた最後方から最終コーナー掛けて一気位置上げ直線抜け出して勝利。同競走連覇と共に連勝記録10伸ばした。次走のヴァニティーインビテーショナルハンデキャップ (G1) ではキャリア最高となる129ポンド(約58.5kg)の斤量背負いながら、2着に2馬身半差で快勝。続くクレメント・L・ハーシュステークス (G1) では道中スミス終始手綱押し通しというレース運びであった直線最後大外追い込み先行馬を頭差捉えて勝利12連勝6つめのG1優勝果たした10月10日ブリーダーズカップへの前哨戦としてレディーズシークレットステークス出走。前走とは一転直線入り口先行勢に並び掛けるスミス一度も鞭を使うことなく快勝しパーソナルエンスンに並ぶデビュー13連勝達成した迎えブリーダーズカップではレディーズクラシック連覇目指す初めての牡馬相手となるクラシックへ向かうかが直前まで未定であったが、競走4日前にクラシックへの正式登録が発表される当日G1競走2連勝中のアイルランド調教馬・リップヴァンウィンクル当年G1競走3勝のサマーバード等を抑えて1番人気に支持された。レースでは集団から置かれる形で後方2番手を進んだが、第3コーナーから進出始めて最後直線入った直線では馬場中ほど馬群中にいたがスミス半ばゼニヤッタ大外持ち出すと、残り100m地点先頭を行くジオポンティ交わして1着でゴールブリーダーズカップ創設26年目で初めてとなる牝馬によるクラシック制覇達成した馬主モス管理調教師のシレフスにとっても初めてのクラシック優勝であり、シレフスは前日レディーズクラシックを制したライフイズスウィートから2日連続メイン競走制覇達成した

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5歳(2019・20年)

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ネイチャーストリップ」の記事における「5歳(2019・20年)」の解説

9月7日のコンコルドステークス(G3)で始動するも4着に敗戦するも、叩き2戦目の27日モイアステークス(G1)では大接戦制してG1・2勝目挙げた10月19日ジ・エベレスト出走するも4着に敗れるが、巻き返しを図る11月9日スプリントクラシック(G1)では一方的にリード広げて2着に3.25馬身差の圧勝でG1・3勝目飾った。 年が明けて2月15日ブラックキャビアライトニング(G1)で復帰して4着に敗れるが、3月7日チャレンジステークス(G2)ではレッドゼルに3馬身差をつけて完勝した4月4日TJスミスステークス(G1)は1番人気に推され先行争い制して最終コーナー後続突き放し、2馬身リード保って逃げ切りG1・4勝目挙げた今季のG1・3勝などの活躍評価され豪州年度代表馬および最優秀短距離馬選出された。

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5歳(2006年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 05:28 UTC 版)

ブラックタイド」の記事における「5歳(2006年)」の解説

2006年5月末に帰厩すると、8月新潟競馬場行われるダートオープン特別関越ステークス復帰することになった藤岡佑介鞍上迎え、初のダート戦に挑んだ道中最後方を追走し、直線では鋭い末脚繰り出すが7着に敗れたレース後、調教師池江泰郎は「とにかくレース使えたことが収穫。よくここまで来れた」と語った。このレースでは上がり最速記録したその後、得意のでのレース小倉日経オープン出走し道中は中団に待機して最後はしぶとく伸びたが3着。さらに幸英明鞍上朝日チャレンジカップ出走し6着。続いて藤岡佑介を再び鞍上迎えオープン特別のアンドロメダステークスに出走同日東京競馬場のメインレース、ジャパンカップで弟のディープインパクト勝利し兄弟でのメインレース勝利期待されたが2着に敗れた。更に12月のディセンバーステークスに鞍上クリストフ・ルメール出走したが3着に終わった

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5歳(2004年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:04 UTC 版)

ダンツジャッジ」の記事における「5歳(2004年)」の解説

中1週で挑んだ中山金杯は3着と好走。続くアメリカジョッキークラブカップで初2200m戦に出走道中は中団に構えると、直線内から鋭く抜け出しウインジェネラーレをハナ交わしてゴール重賞2勝目を飾る。次走、京都記念は7着、安田記念は8着と凡走続いたが、エプソムカップ上り最速の脚を使いマイネルアムンゼンクビ差の2着に入る。その後北九州記念8着、トップハンデタイの58kgで挑んだ福島記念10着、中1週で挑んだ京阪杯は6着、さらに中1週で挑んだ鳴尾記念ブービー14着に終わった

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5歳(2000年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 06:43 UTC 版)

アグネスワールド」の記事における「5歳(2000年)」の解説

高松宮記念出走するが、キングヘイローの3着に終わる。その後イギリス遠征しキングズスタンドステークス単勝8番人気ながら2着になると、続くジュライカップでは単勝1番人気に応えて優勝海外G1競走2勝目挙げた海外2つの国でG1競走勝った初の日本馬となった帰国後のスプリンターズステークスダイタクヤマト逃げ切られまたしても2着。同年ブリーダーズカップ・スプリント(米G1)8着を最後に引退した

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5歳(1993年)

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サクラバクシンオー」の記事における「5歳(1993年)」の解説

スプリンターズステークスのあと、サクラバクシンオー脚部不安生じて休養に入る。翌1993年春シーズン全休し、10月になりオープン特別競走・オータムスプリントステークスで復帰。得意の1200メートルにもかかわらず2番人気評価だったが、道中5~6番手追走から直線抜け出すという新境地見せ復帰戦を勝利飾った。続くアイルランドトロフィーでは1600メートル重馬場実績のない条件重なり結果も4着と敗れる。しかし前年勝利したキャピタルステークスでは、道中3番手を進んで落ち着いたレース運びから直線抜け出し、1分21秒2と前年同様のタイム勝利した12月19日前年6着のスプリンターズステークス出走前年の2着馬で、当年マイル戦の安田記念中距離戦の天皇賞(秋)制し、「三階制覇」がかかるヤマニンゼファーが1番人気、サクラバクシンオー前年度優勝馬ニシノフラワー抑えて2番人気推された。スタート切られるサクラバクシンオー先行する2頭を見ながらの3番手を進みヤマニンゼファーがその直後追走前半600メートル33秒2と例年比べれば緩いペースとなり、最後直線抜け出したサクラバクシンオーヤマニンゼファー突き放し、2馬身半差をつけてGI制覇果たした。これはサクラユタカオー産駒GI制覇ともなった競走8日前、バクシンオーの馬主であり、小島が父とも慕っていた全演植が死去しており、小島競走後インタビューにおいて「寝ても覚めてもオヤジのことばかり考えていた。絶対に勝たなくちゃいけない、絶対に負けられない思っていた。これまでの騎手人生で最高の仕事ができた。オヤジありがとと言いたい」と語った。またバクシンオーについては「一本調子逃げしかできなかった馬が、前走では好位で折り合う以前とは見違えるようなレースができた。脚元の弱かった馬がビシビシ調教をやれるようになったし、馬自身本当に成長している」と述べ、また境も「まさに本格化したといって過言ではない」と述べた当年はこれでシーズン終える。翌年1月発表された年度表彰JRA賞では、最優秀短距離馬部門総数171票のうち77票を集めたが、87票を集めたヤマニンゼファー及ばず次点となった

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5歳(1997年)

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エアグルーヴ」の記事における「5歳(1997年)」の解説

古馬となって初戦には6月マーメイドステークス選ばれ、1番人気に支持され勝利を収めた。続く札幌記念伊藤が同レース出走予定だったジェニュイン相手絞り、「勝って負けてジェニュインと何馬身差の競馬ができるかで、天皇賞でも通用するのか測れる」という思惑の元出走となった札幌記念この年からGII格上げとなったことと2頭の対決注目集めたことで当日札幌競馬場には5万人近く観衆集まりレースでは中団から抜け出すジェニュインエリモシック追撃振り切って勝利した目標定めていたジェニュインは4着であり、伊藤は「まだ目一杯仕上げていない状態でこれなら、本番天皇賞)も勝てる」と確信持ったという。 迎えた天皇賞(秋)では、エアグルーヴ伊藤が「この時、初めピーク持っていきました」と振り返るほど良好な状態で出走した当日前年優勝馬バブルガムフェローに次ぐ2番人気支持されるレースでは最後直線3番手から抜け出そうとしたバブルガムフェローエアグルーヴが外から襲い掛かり残り200m過ぎからは2頭のマッチレース態となったが、エアグルーヴクビ差前出て1着でゴールし1980年プリテイキャスト以来17年ぶり、また秋の天皇賞2000メートルレースになってからは史上初となる牝馬優勝となった。なお、3着のジェニュインバブルガムフェローから5馬身後方だった 続くジャパンカップでは2番人気支持されたが、最後直線抜け出そうとしたところを内から追い込んだピルサドスキークビかわされ2着に敗れた年内最終戦有馬記念では武豊マーベラスサンデー騎乗したため、オリビエ・ペリエ乗り替わり最後直線抜群の手応え早めに先頭立ったが、最後にマーベラスサンデー勝ち馬シルクジャスティスわずかに交わされて3着に敗れた1997年度年度代表馬選定において、秋の中長距離GIシリーズ牡馬に交じって走り全て馬券圏内入着た走り評価され同年度の年度代表馬選定された。牝馬年度代表馬受賞1971年トウメイ以来26年ぶりとなった

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5歳(2020・21年)

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ベリーエレガント」の記事における「5歳(2020・21年)」の解説

8月22日ウィンクスステークス勝利しG1・4勝目挙げる9月19日ジョージメインステークス4着を挟み10月3日ターンブルステークス17日コーフィールドカップとG1を連勝したその後11月3日メルボルンカップ出走するものの7着に敗れた。 年が明けて2月13日アポロステークスG2)で復帰して3着、チッピングノートンステークスゴドルフィン所有コレット英語版)とアヴィリオスを破って勝利を収め3月27日ランヴェットステークスアデイブ破ってG1・8勝目挙げたその後クイーンエリザベスステークス出走するアデイブ捉え切れず2着と連覇を許す結果となった

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5歳(2004年)

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ナリタセンチュリー」の記事における「5歳(2004年)」の解説

前走から中2週で再び1000万下の競走出走しハナ差で勝利したが、既に同じクラスを2勝していたこともあり、騎乗した田島自身ウェブサイト(現在は閉鎖)で、「どう乗って勝て自信はあった」とコメントしている。続く特別戦(1600下)もトップハンデながら勝利し、3連勝オープン入りを果たす。2度目重賞挑戦となった中京記念では、後方からレース進め直線では内ラチ沿いを最速の上がりタイム(3ハロン34秒4)で追い込んでくるが、単勝低人気のメイショウキオウに逃げ切られ2着に敗れる。続く産経大阪杯では最後直線で外に出すが、伸び切れず8着に敗れたGI初出となった天皇賞(春)では鞍上主戦騎手田島から吉田稔代わるが、逃げ切り勝ちしたイングランディーレ始め先行した馬が上位占める中、後方から差して5着に入る。この乗り替わりは、実戦での騎乗少ない中、普段から調教付け、「この馬を生きがいにしてきた」というほどであった田島にとってはショックだったようで、自身サイト前述)が約2ヶ月更新されなかった。ちなみに田島は、2004年は3勝しか挙げていないが、その3勝はすべてナリタセンチュリーよるものであった。 しかし、5ヶ月ぶりの京都大賞典田島とのコンビ復活するいつものように後方からじっくりとレース進め直線アドマイヤグルーヴを外から交わすと、内を突いてきた、断然単勝1番人気(1.4倍)のゼンノロブロイをも捕らえ勢いで伸びてきた。ゼンノロブロイ馬体併せると、ゼンノロブロイ差し返そうとするが、クビ退けて重賞初制覇を飾る。前走の天皇賞(春)騎乗出来なかった田島は、「競馬騎乗出来るか分からず不安に思いながら調教付けていた」「出馬投票自分の名前を確認するまでは不安で一杯だった」ことを経て勝利に、「今回重賞勝利今まで違い悩んでいる時の勝利だったので本当に嬉しかった」とサイト記している。 続く天皇賞(秋)では内が伸びる馬場状態の中、外を突いて伸びてくるがゼンノロブロイの6着に敗れたジャパンカップでは再び乗り替わりとなり、柴田善臣を背に単勝4番人気支持され最後直線では外目突いて伸びるも5着に終わる。

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5歳(2006年)

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ダイワメジャー」の記事における「5歳(2006年)」の解説

2006年春マイラーズカップGII)で約1年ぶりの勝利。この競走以降騎乗停止などの事情除いて安藤勝己主戦騎手として定着する同年春のGI競走安田記念宝塚記念安藤騎乗停止四位洋文騎乗はいずれも4着となる。安田記念では2番人気支持受けていたが、最内からの発走馬群包まれたことに加え全体の流れ遅くなったことで、持続的なスピード持ち味とするが一気抜け出す瞬発力欠けダイワメジャーには不利な展開となっていた。その後社台ファーム休養入り、秋は毎日王冠GII)から始動安藤安田記念での経験踏まえ平均的に流れていた全体ペース吊り上げようと、あえて最終コーナーからスパートをかける作戦をとった。最後直線では並びかけてきたダンスインザムード2度わたって接触し一旦前に出られたものの、残り100メートルから再加速し、クビ逆転して勝利を挙げた当初の予定では、このあと前年2着のマイルチャンピオンシップ直行することになっていたが、毎日王冠が好内容であったこと、また、競走後ダイワメジャー体調良かったことから、2年前に最下位となっていた天皇賞(秋)への出走が決まる。天皇賞にはフランス凱旋門賞への遠征終えた五冠馬(当時)・ディープインパクト出走予定していたが、のちに回避表明されたことにより一転して混戦模様呈した当日は1番人気がGI3勝を挙げている牝馬スイープトウショウで3.9倍、上位5頭までが10倍以下と人気割れるなか、ダイワメジャーは7倍の4番人気となった。なお、前日調教に跨がった調教助手飯田によれば、このときのダイワメジャーからはかつてなく凄味のある感触伝わってきたといい、「あまりに凄い感触誰にも言うことができなかった。口に出す自分プレッシャー掛かってしまうと思ったから」と振り返っている。 スタート切られると、ダイワメジャー逃げインティライミから4~5馬身後方2番手を追走前半1000メートル通過58秒8と淀みのないペース流れたダイワメジャー残り400メートル地点先頭に立ち、追い込んできたスウィフトカレントに半馬身の差を保ち続けたままゴール皐月賞以来924日ぶりのGI制覇果たした安藤は「これまでダイワメジャーの力を出し切れレースになることは少なかったけど、今回はこの馬に合った淡々とした平均ペースになったのが良かった我慢強い馬だから、スウィフトカレントが来たときにもう一回伸びてくれた」と感想述べたまた上原は後年行われたインタビューで「嬉しかった当時手術をしてGI勝った馬はいなかったし、喘鳴症になったらもう駄目というイメージだった。それが同じ症状苦しむ馬に希望与えることができた。何とかなるGIだって勝てると……。社台クリニックスタッフ心から喜んでくれたのが印象残っている」と述べている。当の獣医師は「あれだけ走ってくれるのは10手術したうちの1頭ぐらいだと思う」との見解示しており、吉田照哉はこの勝利を奇跡と言っていい」と評した11月19日マイルチャンピオンシップ出走当日は6頭のGI優勝馬が顔を揃えたなか、ダイワメジャー単勝2.3倍の1番人気に推された。レース前半600メートル46秒0という速い流れ2番手で追走しながら最終コーナーでは猛然とした勢いで先頭に立ち、ゴール前ではダンスインザムード3番人気)に並ばれながらも前に出ることを許さず、同馬をクビ退けて優勝。GI2連勝遂げた天皇賞(秋)マイルチャンピオンシップ連勝は、1987年にこれを達成したニッポーテイオー以来19年ぶり2頭目の例となった安藤は「本当に強い競馬だった。今日は特に行きっぷりが良かったし、ペース速いのは分かっていたけど、無理に引っ張ることはしなかった。最後後ろからダンスインザムードが来たとき、もう一度伸びてくれた。負ける気はしなかった。着差以上に強かったと思う」と称えた11月30日には年末グランプリ競走有馬記念への出走発表それまで16002000メートル中心に出走してきたダイワメジャーに、同競走2500メートルは長すぎるとの見方もあったが、上原それまで番組選択喘鳴症影響最大限考慮したものであり、血統背景日本ダービー宝塚記念での走りからみて距離に問題はないとした毎年12月香港行われる香港国際競走隆盛をみてから、日本国内でも16002000メートル路線実績馬は有馬記念避けそちらへ回る事例増えているなかで、マイルチャンピオンシップ優勝馬同年有馬記念出走するのは10年ぶりのことであった有馬記念へは、ジャパンカップ制しGI6勝目挙げていたディープインパクトに次ぐ、ファン投票2位出走当日人気ではディープインパクト加え当年皐月賞日本ダービー菊花賞ジャパンカップそれぞれ2、3、2、2着としていたドリームパスポートに次ぐ3番人気となったレースではアドマイヤメイン大逃げ2番手で追走最終コーナーでこれをとらえ、先頭最後直線入ったが、ディープインパクトかわされ、さらにポップロックにも差されての3着となった翌年1月発表され中央競馬の年度表彰JRA賞において、ダイワメジャー最優秀短距離馬選出された。また、仮定斤量数値で各馬の序列化を図るJPNサラブレッドランキングでは、Mコラム1400~1899メートル)およびIコラム1900 - 2199メートル)でそれぞれ1位(全距離区分総合では3位タイ)となる121ポンド評価得た

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5歳(1991年)

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カミノクレッセ」の記事における「5歳(1991年)」の解説

2月橿原ステークス1500下)に勝ってオープン馬になったクレッセは内山正博とのコンビ中日新聞杯重賞初挑戦したが、4着に終わったその後、クレッセは一度1500下に降級するものの、6月エルムステークス南井克巳とのコンビ勝利を収めオープン馬復帰した。このエルムステークスを境に南井がクレッセの主戦騎手務めることになる。 2度目重賞挑戦となった札幌記念では、11番人気ながら1着のメジロパーマー0.2秒差の3着となり、でも好勝負できることを示したその後タイムス杯、シーサイドステークスダートオープン戦を2連勝したクレッセは中央競馬と地方競馬の交流競走第3回ブリーダーズゴールドカップ出走。1番人気に推されたクレッセは、地方勢の筆頭目されていたスイフトセイダイ岩手)に大差10馬身以上)を付けて圧勝重賞初勝利挙げた念願重賞制覇遂げたクレッセは天皇賞(秋)ぶっつけ出走。これがクレッセにとって、初めGI競走出走であり、この天皇賞(秋)を境にレース使っていくことになる。 レースでは4位で入線したが、1位入線メジロマックイーンが第2コーナーで他馬の進路妨害したため18着に降着となり、繰り上がりの3着となった。しかし、クレッセ自身もこの進路妨害影響受けて脚部外傷負ったことから、笹針治療もかねて休養入りジャパンカップ有馬記念回避余儀なくされた。この天皇賞後、クレッセは脚部慢性的な不安を抱えるようになり、脚に何本も注射打ってからレースに臨むことが常となっていく。クレッセの調教助手務めた河野正義は後に「まあ、勝負事に『もしも』というのは言ってはいけないことなんだが、もしもメジロマックイーン斜行による不利さなければカミノクレッセメジロマックイーン互角に戦えただろうし、GI1つ2つ取れたと思うよ」と述べている。

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5歳(2008年)

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ステキシンスケクン」の記事における「5歳(2008年)」の解説

この年初戦の淀短距離ステークスで3着、続くシルクロードステークスも3着となった。そして次の東風ステークス逃げ切って1年半ぶりの勝利を挙げた。しかし続く谷川岳ステークスでは8着、テレビ愛知オープンでは6着に敗れたポートアイランドステークスは1番人気に支持される10着と大敗した。続くスワンステークスでも11着に敗れた。続く阪神カップでは14着と大敗した

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5歳(1957年)

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ハクチカラ」の記事における「5歳(1957年)」の解説

1957年、春まで休養入ったキタノオー対しハクチカラ年頭から出走続けた緒戦から3、2、2着と勝ち切れなかったが、3月24日目黒記念(春)で、休養から復帰してきたキタノオーを5着に退けて重賞3勝目挙げるこの後天皇賞(春)備えて西下したキタノオー対しハクチカラ関東留まり6月末までに東京盃日経賞を含む4勝を加えた休養経ての秋は毎日王冠制した後、65kgの負担重量臨んだオールカマー目黒記念(春)以来対戦となったキタノオー敗れ2着となった。この競走では「アラブ怪物」と呼ばれたアングロアラブセイユウ先頭レース引っ張っていたが、同馬の実力を知る蛯名武五郎ヘキラク騎乗)が、動こうとしない保田対し後方から「ダービー馬がアラブ負けてもいいのか!」と発破掛け、これに応じて早めにセイユウ捉え動いた結果最後にキタノオー差されたというエピソード残っている。 2週間後に目黒記念(秋)で再びキタノオー対戦し、半馬身差で前走の雪辱果たしたこの後キタノオーは脚を痛めて休養入り、これが両馬最後対戦となった先着回数ハクチカラ4回に対しキタノオー6回であった。なお、キタノオー先祖血統不詳サラブレッド系種あったことから種牡馬入りが遅れ、翌年10月急性肺炎にかかり現役のまま死亡している。 その後ハクチカラ天皇賞(秋)優勝(このときの単勝支持率85.9%は現在でもJRA史上最高)、年末には中山グランプリから改称され有馬記念ファン投票1位の身で出走2、3番手から抜け出して、2着オンワードゼアに3馬身差をつけて制した。このとき単勝式馬券100円の元返しであった単勝支持率76.1%)。当年年度代表馬選出された。

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5歳(1997年)

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ロイヤルタッチ」の記事における「5歳(1997年)」の解説

5歳初戦京都記念では約1年ぶりの勝利を期待されて、久々に1番人気に推されたが、ユウトウセイ敗れた。続く産経大阪杯でもマーベラスサンデーユウトウセイの3着に敗れ天皇賞(春)ではレース中に跛行発症して競走中止となり、勝利から見放されてしまった。 故障明けで6か月ぶりの実戦となった天皇賞(秋)では、岡部バブルガムフェロー騎乗するため、蛯名正義鞍上迎えたが、同厩のエアグルーヴ同期バブルガムフェロー壮絶な叩き合い加われず、4着に敗れた。そして、次走のジャパンカップでは11着と初め二桁着順喫したその後脚部不安1年間休養ののち引退した

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5歳(1973年)

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ランドプリンス」の記事における「5歳(1973年)」の解説

ロングエース引退しイシノヒカル戦線離脱したため、本馬ライバル残ったのはタイテエムだけとなったタイテエム古馬になってからさらに力をつけたが、ランドプリンス4歳時のような走り見せることができず、マイラーズカップ天皇賞いずれもタイテエム敗れ、5着、13着に終わった天皇賞後で故障発症判明しそのまま引退することとなった

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5歳(1979年)

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シービークロス」の記事における「5歳(1979年)」の解説

1979年年頭金杯(東)から始動後方から最後直線メジロファントム差し切り、15戦目での重賞初勝利挙げたダービー当時に446kgだった馬体重は470kgまで増えており、吉永は「使いながら馬体重増えているし、今日は馬の状態がともかく素晴らしかった今年はなにか一暴れできそうな感じです」と感想語ったその後目黒記念(春)3着、中山記念7着と続いたのち、天皇賞(春)出走道中は常の通り最後方を進んだが、周回2周目の第3コーナーから位置上げ最終コーナーでは中位最後直線入った吉永馬群ばらける見越して追い込みをかけたが、当て外れてシービークロス前には壁ができる形となったやむなく吉永が外に持ち出すシービークロス鋭く伸びたが、勝ったカシュウチカラから1馬身半差の3着と敗れた吉永は本競走について後年勝てレースだった」と振り返り、「ぼくがもう少し早く外に出せていたら……と、悔やまれますね」と述べている。 春のグランプリ宝塚記念第20回宝塚記念)では9着となり、夏は休養充てた。秋は天皇賞(秋)目標毎日王冠から始動道中最後方から最終コーナー馬場内側から位置上げると、最後直線では半ばから外に持ち出して先行勢を交わしカネミノブに2馬身差をつけて勝利した走破タイム1分59秒9は同厩・同馬主先輩シービークイン記録を0秒3更新し東京競馬場2000メートル初めて2分を切るコースレコードとなった吉永は「いつもは展開に左右される馬だが、今日は4コーナー時点勝てると思ったそれほど馬の気迫違っていた」と感想述べた続いて出走した目黒記念(秋)では1番人気に支持されるレースでは最後追走のはるか前方で、逃げ馬のヒダカホーリュウが大逃げ打ち一時先頭から100メートル以上離された。しかし最後直線最内をついて追い込みブルーマックス1馬身半差をつけ重賞2連勝遂げた。2分32秒2は2500メートル日本レコードタイムであり、2戦連続レコード勝利ともなったこの頃からシービークロスには「白い稲妻」の異名冠されるようになった吉永は「このまま無事な天皇賞も楽しみ」と期待を口にしたが、同競走への直前調教右前脚に繋靱帯炎発症し回避余儀なくされた。厩務員青木によればシービークロス入厩当初から右前脚に負担掛かりやすく、瞬発力極限発揮したことが相当の負担掛けたのだろうと述べている。なお、天皇賞は前2走で破ったスリージャイアンツ優勝した

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5歳(2011年)

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フェイムアンドグローリー」の記事における「5歳(2011年)」の解説

4月17日のヴィンテージクロップステークスと5月29日のサヴァルベグステークスを共に勝利6月16日ゴールドカップ快勝G1競走5勝目挙げたその後8月20日のセントレジャートライアルステークスは2着、9月10日アイリッシュセントレジャーは4着に終わる。10月15日ブリティッシュ・チャンピオンズ・ロングディスタンスカップレース中盤先頭に立つと後続追撃しのいで勝利したこの年カルティエ賞最優秀ステイヤー選出される

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5歳(1983年)

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ハギノカムイオー」の記事における「5歳(1983年)」の解説

菊花賞の後、カムイオーは福島県いわき市競走馬総合研究所温泉療養入った。翌1983年5月スワンステークス復帰、初の単枠指定受けて1番人気に支持されると、スタートからの逃げ切り勝利、母イットーとの親子制覇となった続いて出走した春のグランプリ宝塚記念では、単騎逃げから直線でカズシゲを5馬身突き離し2200mを2分12秒1という日本レコードタイム優勝したまた、競走賞金加算分で収得賞金1億9104万円となり、賞金額が自身購買額を上回った。続く高松宮杯逃げ切りスワンステークスに続く親子制覇、さらに前々年度に優勝したハギノトップレディとの姉弟制覇果たした休養経て、秋はジャパンカップ有馬記念目標に、11月東京競馬場オープン戦復帰した。しかしこの緒戦で8頭立て7着に終わると、続くジャパンカップでは道中後続30馬身以上離す暴走見せ第3コーナー失速勝ったスタネーラから7秒以上離され最下位惨敗した。それでも年末グランプリ有馬記念にはファン投票第3位選出出走したが、やはり逃げ潰れて最下位終わった競走後伊藤はカムイオーの引退発表引退の言は「これ以上ファンの夢を壊したくない」というものであった翌年1月8日京都競馬場引退式が行われ、翌9日種牡馬入りのため北海道戻った

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5歳(1977年)

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グリーングラス」の記事における「5歳(1977年)」の解説

1977年1月23日アメリカジョッキークラブカップから始動し前年秋の天皇賞馬・アイフルニッポーキングに次ぐ3番人気推された。レースではそれらを向こうに回し、3コーナー捲り直線粘り込むという強い競馬で2着のヤマブキオーに2馬身1/2の差を付け、2分26秒3のレコードタイム完勝菊花賞フロックでないことを証明し、後に中野は「グリーングラス勝ったレースでは一番強かった」と評している。4着のハーバーヤングに騎乗していた岡部も「向こう正面の坂のあたりから行ってもっちゃうんだから。(…)馬力が違うっていう感じだった。」と語っている。5着は菊花賞以来2度目対戦で、グリーングラス同じく始動戦のクライムカイザーであった鞍上デビュー以来手綱取っていた加賀武見から、初騎乗の柴田政人乗り替わっていた。このレース以降グリーングラス両前球節など、大形馬の宿命である慢性的な脚部不安苦しめられるそれほど体質強くなかったため、6歳以降出走回数4歳時10戦を下回る9戦だけに止まった。 次走の目黒記念(春)では最重量の60kgを背負って1番人気に推されたが、当時オープンクラスに昇格したばかりで7kg軽い53kgのカシュウチカラに2馬身差の2着となった前年菊花賞から同じローテーションクライムカイザーは4着で、柴田はこの2戦で降板この辺りから右橈骨慢性的な痛み抱えるようになり、第75回天皇賞は2ヶ月前より栗東坂口正大厩舎滞在して調整したが、中間に歯替わり虫歯で順調さを欠きレースでも菊花賞同様インコースを突くもテンポイント雪辱を許す4着に敗れる。トウショウボーイ関西移動はしたものの、直後右肩に不安が出たため不出走となり、続く第18回宝塚記念TTG二度目顔合わせとなった。6頭立てながらアイフル・クライムカイザー・ホクトボーイと実力馬が揃いTTG上位人気分け合ったレーストウショウボーイ勝利し、2着にテンポイントグリーングラスは3着に終わる。5歳を迎え充実期迎えつつあった両馬にはかなわず橈骨の状態が最悪な中で挑んだグリーングラストウショウボーイ追走するだけで精一杯であった。 この連敗安田グリーングラスから降ろされカシュウチカラ騎乗し嶋田功乗り替わり挑んだ7月3日日本経済賞を2分33秒8のレコードタイム勝利ムキになった安田グリーングラス弱点知っているため、カシュウチカラ何がなんでもグリーングラスの内から潜ろうとしたが、1コーナーを回るところですぐに落馬安田は「やっぱり馬のことも考えて乗らなきゃ、憎しみ競馬乗るとこんな破目になるな」と気がついて反省したその後夏負けしたため、秋は前哨戦を叩かずにぶっつけ11月27日第76回天皇賞出走テンポイント当時天皇賞勝ち抜けルール出走できなかったため、トウショウボーイとの二強対決となった脚部不安熱発もあり、休養明けと順調さに欠いたものの、トウショウボーイに次ぐ2番人気となる。レースでは向こう正面よりトウショウボーイ競り合う形で暴走して末脚無くし両者共倒れ後方待機していたホクトボーイの5着に敗れるが、競り合ったトウショウボーイ(7着)には先着した。グリーングラスは悍性が強くステイヤーとしては落ち着き欠きレース中に騎手との折り合いを欠く場面もしばしば見られたため、中野安田天皇賞敗因一つ挙げている 。 続く12月18日第22回有馬記念TTG三度目、そして最後の顔合わせとなる。レースマルゼンスキー出走表明し、ホクトボーイ・カシュウチカラを始めとする有力馬が回避翌年正月東西金杯などに回る陣営が相次ぎ結局マルゼンスキー脚部不安により直前引退するが、8頭立てと少頭数によるレースとなった最終的にテンポイントトウショウボーイ歴史的なマッチレースとなり、結果は1着テンポイント、2着トウショウボーイであったグリーングラス天皇賞後回復早くカイ喰い文句なしであったスタートで隣ののスピリットスワプスに寄られる不利があったが、前2頭を見る位置巧く折り合い絶好の展開となる。直線では幾分内にササリ気味で追い辛くなり、トウショウボーイに半馬身まで迫る3着がやっとであったが、4着の菊花賞馬・プレストウコウは6馬身もの差をつけられており、TT肉薄できたのは唯一この馬だけで、負けはしたもの三強呼ばれる相応し実力見せた。このレース有馬記念ベストレースはもとより日本競馬史上最高のレース推すファンは今も少なくない特番収録用に実況した杉本実況席ではなくスタンドロープ区切り作った中から「中山直線を!中山直線流星走りました!テンポイントです!」という競馬史上に残る名文句残しているが、後に著書の中で、最後直線競り合うテンポイントトウショウボーイ後方グリーングラス迫ってきたのを見て実況しながら内心『またこいつ来たんか』と思った」と当時心境述懐している。先述たように杉本による実況はあくまで特番収録としての録音であるので、一般に盛山毅当時フジテレビアナウンサー)による「テンポイント力で、トウショウボーイを、そしてグリーングラスをねじ伏せました!」という実況広く知られているトウショウボーイ騎乗した武はレース後まで3着にグリーングラス入ったことに気付かず記者からこのことを聞かされると「3着?グリーングラス?来てたの。知らなかったよ」と答えた。このレースについて後に安田は、内に入れていればグリーングラス勝っていた旨を述べており、騎乗していた嶋田最後直線、内に切れ込んでしまい追い切れなかったと発言している。ただし当時、この時期中山は内が極端に荒れており、内ラチ沿いを走らせる騎手皆無であったその後トウショウボーイ引退したため、TTG2度と揃うことはなかった。中野は後にインタビューで、トウショウボーイテンポイントをどう思っていたか尋ねられると、「全く意識していなかった」と言い、「というより、トウショウボーイテンポイントも、これっぽっちライバルとは思っていなかった。こっちはいつも右前脚のことで精一杯だったから」と語っている。 この年古馬フリーハンデではテンポイント・トウショウボーイに及ばなかったが、ホクトボーイと共に62kgで3位評価得た。これは年度によっては首位になるような値であり、過去5年間で古馬フリーハンデ1位が62kgの年は3回あり、1975年フジノパーシア1973年タイテエム1972年ヤマニンウエーブ古馬部門首位になっていた。

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5歳(2005年)

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ハードクリスタル」の記事における「5歳(2005年)」の解説

5歳初戦、前走から700mの距離短縮となった根岸ステークスメイショウボーラーに7馬身離されたものの2着と好走する。その後フェブラリーステークス9着、マーチステークス10着と2戦続けて凡退オープンのブリリアントステークス、大沼ステークスでともに4着に入るとマリーンステークスを2馬身差をつける快勝で7勝目を飾る。続くエルムステークスは5着、白山大賞典先に抜け出したグラッブユアハート1馬身差の2着に敗れた。続く彩の国浦和記念スタートからハナに立つ積極策に出たヴァーミリアン交わされ2戦連続2着となる。次走は名古屋グランプリ予定していたが大雪のため開催中止となった

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5歳(2011年)

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レインボーヴュー」の記事における「5歳(2011年)」の解説

8月16日オプショナルクレーミング出走したが6着に敗れた。 そのレース最後に引退し繁殖牝馬入りする。

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5歳(1993年)

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シンコウラブリイ」の記事における「5歳(1993年)」の解説

長期休養となり、4月24日京王杯スプリングカップGII)で始動前年安田記念優勝馬ヤマニンゼファー抑えて1番人気に推された。最後直線ではヤマニンゼファーとの競り合い屈し1馬身半遅れた2着に敗れた。続く安田記念GI)は3番人気支持集め2番人気ヤマニンゼファー14番人気イクノディクタスにも先着されて3着に敗れた。それから休養前の北海道輸送兼ね札幌日経オープンOP)に出走単勝支持率73パーセント支持集め単勝オッズ1.0倍という「元返し」状態の1番人気に推された。好位から抜け出し、迫るゴールデンアイクビ差ばかり退けて勝利、7カ月ぶりの勝利を果たした。 秋となり、毎日王冠GII) に1番人気で出走マイスタージンガー逃げる中、3番手に位置残り300メートル先頭となると追い込んだ8番人セキテイリュウオー1馬身4分の3馬身離しレコードタイム勝利続いて外国産馬のために出走することのできない天皇賞(秋)尻目にスワンステークス出走、初の重馬場となったが1番人気に推された。5番手から直線先頭となり、迫るステイジヒーローをクビ退けて勝利。この直後マイルチャンピオンシップ引退レースとなることが決定した。 それから11月21日前年2着に敗れたマイルチャンピオンシップ参戦当日の朝から小雨降ったが、第7競走京都3歳ステークスOP)は良馬場行われナリタブライアンレコードタイム樹立していた。ところが、発走1時間前に激しい雨変わり視界が煙で遮られるほどになった馬場状態は、稍重経ず悪化不良での発走となった単勝オッズ2.3倍の1番人気に推され、続く3.6倍の2番人気ニシノフラワーとなり牝馬2頭が上位人気占めた。イイデザオウが逃げる中、シンコウラブリイ馬群外側4番手の好位。ニシノフラワー後方不良馬場苦戦する中、直線コース抜け出すと、逃げ粘るイイデザオウを1馬4分の1差をつけて先頭入線した。GI制覇となり、藤沢にとっても初のGIタイトル獲得となったシンコウラブリイにとって手に届きそうで届かなかったGI勲章。これで引退花道が飾れました — 岡部幸雄 岡部は、レース後の観客席ファンシンコウラブリイ引退改め発表年末には、JRA賞最優秀5歳以上牝馬選出された。

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5歳(1986年)

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プレシジョニスト」の記事における「5歳(1986年)」の解説

5歳時1月のサンパスカルハンデキャップ(英語版)(G2・D8.5F)から始動相手には3歳時に2回負けているタイツがいたが、すでにプレシジョニストとは大きな差が開いており、1.3倍の圧倒的な支持受けて、2着ベアミニマムに4 1/2馬身差を付けて楽勝。 次走は初参戦となるサンタアニタハンデキャップ(G1・D10F)。プレシジョニスト126ポンドのトップハンデで2.2倍の1番人気。実に7回目対戦となるグレイントンが122ポンドで同馬主ダハールとのカップリングで4倍の2番人気レースは最低人気のヘラトが逃げプレシジョニスト2番追走。しかし直線でグレイントンに抜かれ6着に完敗次のサンバーナーディノハンデでグレイントンと8度目の対戦となったが、ここでは首差でグレイントンに勝利。グレイントンはこのレース最後に引退プレシジョニストとの対戦成績は4勝4敗の5分で終わった。 次走は前年敗れていたカリフォルニアンステークス1.5倍の1番人気に応えて5番人気のスーパーダイアモンドに半馬身差で勝利。しかし次のハリウッド金杯ではスーパーダイアモンドに逆襲されて3着に敗退。 ここで東海岸モンマスパーク競馬場遠征してフィリップH・アイズリンハンデキャップ(G1・D9F)に出走ここまでG1競走7勝のレディーズシークレットが1番人気、プレシジョニスト125ポンドのトップハンデで2.7倍の2番人気3番人気この年チャールズHストラブS2着馬のルーアートがいた。レース逃げレディーズシークレットに対して2番手で追走するが、直線でルーアートに差し切られて2 1/4身差の2着に敗北続けて2週間後のサラトガ競馬場ウッドワードステークス(G1・D9F)に出走プレシジョニスト126ポンドのトップハンデで2.2倍の1番人気。レディーズシークレットとルーアートのカップリング2番人気レース逃げレディーズシークレット2番手で追いかけ直線一気突き放してレディーズシークレットに4 3/4身を付けて圧勝G1競走6勝目挙げたウッドワードステークスの後に主戦クリス・マッキャロン落馬により負傷。次走のマールボロカップハンデキャップ(G1・D10F)はジョン・ヴェラスケス騎乗し2.2倍の1番人気で挑むものの最後方から追い込んできた2番人気ターコマンに1 1/2身差を付けられての2着に敗北その後目標BCクラシック定めこの年ブリーダーズカップが行われるサンタアニタ競馬場のヤンキーヴァローハンデ(LS・D9F)を前哨戦選び、前走でターコマンに騎乗していたゲイリー・スティーブンス鞍上に4 1/2身差つけての楽勝。そして本番BCクラシック迎える。 1番人気はパット・デイ乗せたターコマン、プレシジョニストは再びスティーブンス乗せて2.7倍で僅差2番人気大きく離れた3番人気鉄の女トリプティク前年サンタアニタダービー勝ち馬プレシジョニスト勝ったこの年カリフォルニアンステークス3着馬スカイウォーカー (競走馬)(英語版)が4番人気だった。レースは9番人気ヘラトが逃げプレシジョニストスカイウォーカー2番手で追走速い仕掛けからスカイウォーカー先頭に立ち、プレシジョニスト追いかけるが差を詰められず。ターコマンが直線追い込んでくるが時すでに遅しプレシジョニストは2 1/2身差を付けられての3着に敗退した

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5歳(1981年)

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ジュウジアロー」の記事における「5歳(1981年)」の解説

牝馬東タイ杯後はそこそこ成績収めていた。5月新潟遠征して新潟大賞典勝利し安田記念挑戦するここまで哩戦は5戦したが1分37秒7という時計不足が心配された。レースはミヤコガニエ、サクラシンゲキ前半競り合いハイペースとなり後方組が有利な展開となり、直線で中で割り逃げ粘るサクラシンゲキ捉えるも外からのタケデンに半馬身及ばず2着。安田騎手レース後、「4角で馬場ボコボコしたところを通りモタついたのが痛かった直線ではよく伸び2着なら上々でしょう」と語った。 次走七夕賞後、夏場美浦待機。秋は京王杯AHから、年度代表馬ホウヨウボーイ出走泥んこ馬場の中、ホウヨウボーイとの直線叩き合い制したがハセシノブを捉えきれず2着。 そしてジュウジアローは、キャリア最大勝利となる毎日王冠に向かう。10月4日東京競馬場晴れ良馬場。このレース第1回ジャパンカップ向けて競馬界が盛り上がり見せ東西の有力馬がこぞって出走豪華な出走馬となった中でもハギノトップレディが特に注目されていた。 競馬ブック松本憲二観戦記に「パンとした良馬場、別定の56kg、2000mの距離とあれば、正直、ハギノトップレディ一人旅は明白で、死角探すことすら難しいと思ってた」と語っている。 レースのほうは、ハギノトップレディ華麗な逃げ始まったスタートからの1000mを57秒4(57秒2)、1200mを1分9秒0(1分8秒4)、1600mを1分33秒8(1分33秒5)で通過。(()内は当時日本レコード)。 「この馬場ではあのくらいのペースにはなる。速すぎたとは思わない。」とは伊藤修司調教師娘婿である伊藤清章騎手かばおうとも、人の目には暴走としか映るまい。直線の坂でハギノトップレディは力尽き馬群飲み込まれた。 この乱ペースには勝者には幸いした。「向こう正面ペース速かった。あれに惑わされたら、この馬の身上であるしまいの切れが使えない。」「あのペース逃げ切られたら、強いんだと諦めるよりしょうがない」安田騎手はそう思いながら中団でじっくり機をうかがう。半マイル過ぎから仕掛けられジュウジアローハミがっちり受けて一気末脚伸ばした。「思っていた通り動いてくれた」坂を駆け上がりながら、安田騎手勝利を確信したという。またタイムシービークロスの持つレコード1分59秒9を、0秒5破る1分59秒4のコースレコード記録したレース後、加藤師は「まさかこのメンバー勝てるとはね。それにしても逃げた馬(ハギノトップレディ)は、速かったが、バテるのも早かったね。少しでも距離が長い方がいいと思って牝馬東タイ杯回避して相手かまわず毎日王冠使ったが、これで今後ローテーション大幅に変更だ」と語り当初予定目黒記念から勇躍天皇賞・秋挑戦することになった。そして天皇賞・秋(3200m)→JC有馬記念過酷なローテーションを踏むことになる。11月10日ジャパンカップ選考会に於いて日本代表馬8頭に選出された。

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5歳(1974年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 16:58 UTC 版)

タケホープ」の記事における「5歳(1974年)」の解説

1974年、5歳始動戦は1月20日アメリカジョッキークラブカップであった小島太乗り替わり菊花賞時より20キログラム増加という自身最高体重臨んだ直線に入るまで最後方で待機しハイセイコーなど諸々かわして優勝。続く中山記念では、鞍上嶋田戻って参戦した小回りコース中山競馬場不良馬場苦戦ハイセイコー大差勝ちを果たす一方で2.2離された3着に敗退した4月29日天皇賞(春)参戦予定であったが、厩務員ストライキ発生したため1週間延期し5月5日開催となった2番人気での出走した。サチモシローが逃げハイセイコーストロングエイトがそれを追いかける位置におり、タケホープは中団に位置した最終コーナーにてハイセイコーストロングエイト先頭となり、タケホープ5番手から追い上げ態勢となった直線ではまずハイセイコー失速しストロングエイト単独先頭となった。それからタケホープが外から追い上げ残り50メートルストロングエイト並びクビ差し切り先頭入線した。天皇賞(春)優勝果たし5歳春にして天皇賞勝ち抜きとなった馬場から退場しようとするタケホープ脇腹には拍車の跡ができており、血が浮き出るほどであった稲葉1954年オパールオーキット1964年ヤマトキョウダイに続く天皇賞3勝目となり、10年ごとに3勝を達成した嶋田は「直線半ばで3着かな、と思ったが、負けられない思い必死で馬を促した伸びてくれた。この馬の精神力強さには頭が下がります。」と振り返っている。 疲れ取れないために、宝塚記念参戦断念し栗東トレーニングセンター笹針治療施されたのち、福島県いわき市の馬用の温泉施設がある競走馬総合研究所常磐支所で夏を過ごした。秋は、オープン競走復帰し5着敗退。続く有馬記念では、ハイセイコーとともに引退レースとなり、タケホープが1番人気に推された。ハイセイコー9回目対戦となったタニノチカラ逃げ切り遭い、5馬身遅れた2着にハイセイコー、それにクビ遅れた3着がタケホープであった

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5歳(2009年)

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スクリーンヒーロー」の記事における「5歳(2009年)」の解説

1月14日JRAより2008年度の「ワールド・サラブレッド・ランキング」においてスクリーンヒーロー122ポンド23位に、同時に「ジャパン・サラブレッド・ランキング」では全部門において1位であることが発表された。 2009年初戦阪神大賞典3番人気で4着。5月天皇賞(春)アサクサキングスに次ぐ2番人気出走するも、勝ち馬マイネルキッツから2秒7離され14着と大敗した鞍上横山典弘敗因について「前回今回関西への輸送続いたし、前走は馬場悪かったから。疲れがあったのかもしれない」と話したその後短期休養はさんだ6月宝塚記念は5着に終わる。 4か月休養をはさみ、秋は休み明け天皇賞(秋)出走した鞍上にはクリストフ・ルメール予定していたが、ルメール落馬骨折による来日延期のため、2007年以来となる北村宏司騎乗した7番人気出走したレース内枠2番から先行、外からカンパニー交わされたものの、内から迫るウオッカ抑えて2着に入った史上初の連覇狙ったジャパンカップ前年同じくデムーロコンビを組む4番人気支持されスクリーンヒーローだったが、他馬に2回接触して置かれてしまい、勝ったウオッカから2.1秒差の13着に敗れたジャパンカップ敗戦後暮れ有馬記念では最終的に6位のファン投票集めることになるが、これを回避して山元トレーニングセンター放牧出されることが発表された。しかし発表直後12月3日左前脚に腫れ見られ検査行ったところ左前屈腱炎判明9か月上の休養要する見込みとなり、オーナー吉田照哉関係者による協議結果現役引退種牡馬入りすることが決まった12月9日付け競走馬登録を抹消。翌10日北海道新ひだか町レックススタッド種牡馬入りした。

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5歳(1977年)

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トウショウボーイ」の記事における「5歳(1977年)」の解説

1977年は、前年秋の連戦疲労著しく、さらに両前脚の深管骨瘤も発症して休養に入る。快復後、天皇賞(春)出走のため関西移動したが、直後右肩に不安が出て回避余儀なくされた。一時7月24日札幌競馬場行われる短距離ステークス出走予定し、このレースには前年朝日杯3歳ステークス優勝した無敗馬・マルゼンスキー出走予定していたがトウショウボーイが右膝の深痛めたことで回避し6月入り春のグランプリ宝塚記念復帰することとなった前年有馬記念以来5か月ブランクがあったため調教動き思わしくなく、厩務員長沼が「気合いが全然足りない」とコメントしていたことから人気落とし当日天皇賞(春)制したテンポイントに次ぐ2番人気評価であった。しかしスローペース流れレース先頭引っ張ると、そのままゴールまで逃げ切って勝利を収めたトウショウボーイラスト1000メートル記録した走破タイム57秒6は、当時1000メートル日本レコードよりも早かったレース後、武は「出走頭数少なくハイレベルの馬が2、3頭に絞られレースでは先に行った方が有利」という鉄則従った騎乗をしたとコメントし一方でテンポイント鞍上の鹿戸は「相手トウショウボーイだけに絞りきれなかった。ずっと後ろの馬がいつ来るか警戒していて、トウショウボーイ逃げきられてしまった」、「ぼくのミスです」とコメントした競走詳細について第18回宝塚記念参照)。 3週間後に出走した高松宮杯では、62kgの斤量加え不得手不良馬場という悪条件重なりながら、逃げ切り勝利単勝複勝オッズは共に1.0であった。 夏を越したトウショウボーイは、見習い騎手黛幸弘騎乗オープン戦1600m)に出走。2着に7馬身差、日本レコードとなる走破タイム1分33秒6を記録して圧勝した。 次走・天皇賞(秋)では騎手が武に戻りグリーングラス抑え1番人気に支持される。しかし先頭行った道中で、終始グリーングラス絡まれてオーバーペースとなり、直線では両馬とも失速。7着と初めての大敗喫した競走前の状態は良く保田は「ダービー菊花賞といい、大レースはどうも運がない」と語った。武は敗因について、距離ではなく馬場状態稍重)であると強調したが、広見直樹によると武は晩年に「距離ではなく不利な展開と渋った馬場。それが敗因だと思う」と話をしてくれたという。 競走後年末有馬記念を以て引退種牡馬入り発表される戦前は、秋に入り著し充実見せていたテンポイント加え当年のクラシックに出走できなかった8戦8勝の4歳馬マルゼンスキー出走予定しており、「三強対決」と注目集めた。しかしマルゼンスキー直前脚部不安生じて出走回避し最終的に出走馬は8頭となった当日テンポイントが1番人気の支持集め天皇賞大敗評価落としたトウショウボーイ2番人気となったスタート切られると、荒れた馬場見越したトウショウボーイ先頭立ったが、直後鹿戸明テンポイントマーク付き両馬そのまま後続引き離した。この状態のまま最終コーナー周り最後直線では両馬競り合いとなった直線半ばまではトウショウボーイ先頭保ったが、残り200m地点テンポイント交わされる残り100m地点トウショウボーイ再度差し返しに行く勢い見せたが、3/4馬身及ばず2着に終わった。しかしその競走内容マッチレースとも喩えられ、日本競馬史上屈指の名勝負として高く評価された。なお、武邦彦レース後まで3着にグリーングラス入ったことに気付かず記者からこのことを聞かされると「3着?グリーングラス?来てたの。知らなかったよ」と答えた。(競走詳細について第22回有馬記念参照予定通りトウショウボーイはこの競走最後に引退。翌1978年1月8日には東京競馬場引退式執り行われた。当日は武が同日他場の開催来られず、4歳時主戦騎手であった池上騎乗した皐月賞勝利時のゼッケン「5」を付けてラストラン披露したトウショウボーイは、ゴール前の200mでは実戦並の10秒5というタイム記録スタンドファンからは引退惜しむ声が絶えなかった。

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5歳(2004年)

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オースミコスモ」の記事における「5歳(2004年)」の解説

中1週での出走となった京都金杯は6着、京都牝馬ステークス9着と敗れ、次走・小倉大賞典本田優乗り替わる7番人気でのレースとなり、勝ったメイショウバトラーには5馬身離されるが2着に入ると、蛯名正義騎乗となった中山牝馬ステークスを9番人気で出走レース馬群割って伸びてきたハッピーパスを外から差し切り1着、重賞2勝目挙げる。次走の第1回福島牝馬ステークスでも蛯名手綱を取る。別定戦で他より2kg以上重い57kgでの出走となったが、4コーナー前に並びかけ、直線半ば先頭に立つとマイネヌーヴェル強襲1馬身1/4振り切り連勝重賞3勝目を飾る。3か月ぶりのレースとなった北九州記念は4着、続くクイーンステークスは1番人気で7着に敗れる。その後は、府中牝馬ステークス6着、エリザベス女王杯6着、阪神牝馬ステークス10着と掲示板逃す

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5歳(2006年)

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レクレドール」の記事における「5歳(2006年)」の解説

5歳初戦京都牝馬ステークスは6着、中山牝馬ステークス11着と精彩欠き、続く福島牝馬ステークスが5着と掲示板には載るもののヴィクトリアマイル最下位18着と大敗終わったマーメイドステークスでも12着と大敗した前年優勝したクイーンステークスで3着に入ると、19戦ぶりの混合出走にして連闘臨んだ札幌記念では9番人気の低評価覆し勝ったアドマイヤムーン1馬身差の2着と好走する。秋は府中牝馬ステークス9着、エリザベス女王杯8着と今一つ競馬続き開催時期12月変更となった愛知杯は4着に敗れる。

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5歳(2007年)

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ワンダースピード」の記事における「5歳(2007年)」の解説

この年2戦目の4歳以上1000万競走制して4勝目挙げ昇級初戦御堂筋ステークス1600下)で9着となった後、3月1日付で湯浅三郎厩舎定年解散に伴い羽月友彦厩舎転厩した。転厩初戦鳴門ステークス1600下)は9着だったが、3月梅田ステークス1600下)を制してオープン馬となった。続く重賞初挑戦となった東海ステークスでは11番人気ながら2着、休養挟んで出走した9月シリウスステークスでは5番人気で3着に入るなどの好走続け10月にはアルデバランステークスを制してオープン競走勝利を挙げた。次走は第8回ジャパンカップダート出走登録行い登録時点では除外対象だったものの回避馬がいたおかげで繰り上がり出走至りレースでは11番人気で9着という結果終わった。しかし続く12月のベテルギウスステークスは2番人気支持され当時日本レコード競走制しレース後は休養入った

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5歳(1998年)

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スキップアウェイ」の記事における「5歳(1998年)」の解説

5歳を迎えた1998年前年同様ドンハンデキャップから始動し先行策から押し切って1着。前年逸したガルフストリームパークハンデキャップ(英語版)とピムリコスペシャルをも制してG1競走5連勝記録する。マサチューセッツハンデキャップを連覇ののち西海岸地区向かいハリウッドゴールドカップハンデキャップステークス逃げ切り勝利フィリップ・H・アイズリンハンデキャップとウッドワードステークス制して前年ジョッキークラブゴールドカップステークスからの連勝を9まで伸ばしたが、2年連続制していたジョッキークラブゴールドカップステークスで3着に終わって2年越し10連勝はならずブリーダーズカップ・クラシックではシルバーチャームスウェインオーサムアゲインらと相まみえた末に6着に終わり残り30ドルにまで迫っていた、シガーの持つ当時アメリカにおける生涯獲得賞金記録9,999,815ドル上回ることはできずに引退。それでも5歳時は9戦してG1競走5勝を含む7勝、それも6つ異な競馬場挙げエクリプス賞年度代表馬2年連続の最優秀古牡馬選出された。

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5歳 (2004年)

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イングランディーレ」の記事における「5歳 (2004年)」の解説

2004年船橋競馬場行われたダイオライト記念出走し不良馬場の中、2着に入る。次走の天皇賞(春)GI)では他にも有力馬が多く10番人気に過ぎなかった。ゲートが開くと、鞍上横山典弘押して先頭に立ち、逃げを打つ一時20馬身超えるリード作った逃げであったが、ネオユニヴァースゼンノロブロイリンカーンといった差し馬揃っており、どの馬も牽制しあってイングランディーレ誰も鈴を付け行かないままレース進んでいった。さすがに直線では脚色鈍ったものの、そのまま2着ゼンノロブロイに7馬身差をつけて逃げ切った鞍上横山は、同じ京都競馬場GI菊花賞セイウンスカイ逃げ切った実績があり、好騎乗が光る競走となったレース後の勝利ジョッキーインタビューでは「セイウンスカイ乗っているようでした」と語っていた。当時地上波テレビ実況担当していた馬場鉄志アナウンサーが「イングランディーレ一人旅」と形容し快心レースだった。

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5歳(1991年)

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ダイタクヘリオス」の記事における「5歳(1991年)」の解説

2月3日の淀短距離ステークスOP)で始動し4着。その後については、2月24日マイラーズカップGII)と3月3日中日新聞杯GIII)の二択だったが、マイラーズカップで「本命視」(浅利大策)されていたホリノウイナーが出走止めたことから、マイラーズカップ選択4番人気推される。3頭が先行争いをしてハイペースダイタクヘリオスは、それに加わらず控えて4番手を進んだ直線で前を行く3頭の脚が鈍る中、馬場の最も内から抜け出した以降、差を広げる一方となって独走後方に5馬身差をつけて入線重賞2勝目走破タイム1分41秒2は、1990年にリキサンナナが樹立したコースレコード1分41秒5を0.3秒上回った騎乗した武は「今までこの馬のレース見ていた印象一瞬いい脚を使うがゴール前で止まってしまう馬(中略)それがなんと5馬身差の圧勝自分思っていた印象とはぜんぜん違っていましたね。そうとう〔ママ〕力をつけていると思いますよ。」と述懐している。 続いて3月17日ダービー卿チャレンジトロフィーGIII)では、単枠指定および1番人気となり、逃げて失速し4着。4月21日京王杯スプリングカップGII)では、控えた4番手から抜け出せず6着。それから5月12日安田記念GI)は、単勝オッズ28.7倍の10番人気出走。613番からスタートし中団外を追走ハイペース直線では、外から先行馬をかわして抜け出したが、さらに外から追い込むダイイチルビーゴール手前かわされ1馬4分の1差の2着。6月23日CBC賞GII)は、単枠指定2番人気出走スタートから先行するも、不良馬場で本来の走りができずに失速し、5着となった7月7日2000メートル高松宮杯GII)に、加用正騎乗し参戦出走8頭のうち、安田記念制したダイイチルビー注目集めて1.4倍、同条件愛知杯勝利したホワイトアローが6.3倍、中京1800メートル金鯱賞2着から臨むトーワルビーが7.5倍という上位人気対してダイタクヘリオスは11.7倍の5番人気であった梅田加用に、最終コーナー先頭に立ち、差しダイイチルビー待たず追い出す騎乗指示した1枠1番からスタートして先行ハナをトーワルビーに譲り2番手を追走する一方ダイイチルビーは、その後ろの3番手、3頭はそれぞれ間を空けて追走だった。トーワルビーはかかってハイペース作り、やがて第3コーナー失速。代わってダイタクヘリオス先頭ダイイチルビー2番手で最終コーナー通過した直線では作戦通り、すぐに仕掛けられリード作った対すダイイチルビーは、外からの末脚以て、そのビハインド埋めかかった。2頭の差がなくなり、全く並んだところが決勝線写真判定により、ダイタクヘリオスハナ先着認められた。重賞3勝目安田記念正反対ワンツーフィニッシュとなり「安田記念雪辱果たした」(『優駿』)とも称された。加用にとっては、1989年マルブツスピーリアで制したウインターステークス以来1年半ぶりの重賞勝利だった。 秋は、10月6日毎日王冠GII)で始動5番人気となる。スタートから単騎逃げたが、2番手のプレクラスニーゴール手前かわされ、半馬身差の2着。10月26日スワンステークスGII)9着を挟み11月17日マイルチャンピオンシップGI)に出走するダイイチルビー1.8倍、スワンステークス勝利したケイエスミラクル4.3倍、バンブーメモリー10.6倍、ダイタクヘリオスは11.8倍の4番人気であった梅田は岸に対しハナ競馬をしないよう指示していた。 712番からスタートして先行積極的にハナ奪った2頭の後方控えようとしたが、ダイタクヘリオス推進力感じ取った岸は、指示破って第3コーナー先頭並びかけた。コーナー下り坂スピード乗りかわして単独先頭となったスローペース刻んだダイタクヘリオスは、最終コーナーリード広げながら通過直線では独走状態。残り200メートル地点では5馬身リード作ったその後次第に足が鈍りリード縮められたが、2馬身半差をつけて入線逃げ切ってGI勝利となった。それから有馬記念GI)に出走逃げツインターボプレクラスニーに次ぐ3番追走から、5着となった

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5歳(1996年)

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マヤノトップガン」の記事における「5歳(1996年)」の解説

マヤノトップガン阪神大賞典から始動。このレースには前年秋の不振からの復活期すナリタブライアン出走し、2頭の年度代表馬対決として競馬ファン注目集めたレース期待違わずマヤノトップガンナリタブライアンマッチレースとなる。残り600メートル標識付近から他馬を引き離して互いに譲らずにゴールまで並走最後アタマ差の2着という決着になった。2着のマヤノトップガンと3着ルイボスゴールドとの差は9馬身離れていた。なお、後年田原は「あのレース勝て騎乗だった」と語っている。(レースに関する詳細は、第44回阪神大賞典参照。) 次の天皇賞(春)では、単勝オッズナリタブライアンが1.7倍、マヤノトップガンが2.8倍と2頭が抜けた人気になったが、3番人気(14.5倍)のサクラローレル優勝し折り合い欠いたマヤノトップガンは5着に敗れた敗因について、マヤノトップガン管理していた調教師坂口正大は、調教ミスがあったと語っている。(レースに関する詳細は、第113回天皇賞参照。) 天皇賞後陣営が次走に選んだのは宝塚記念であったこの年宝塚記念前年発生した阪神・淡路大震災復興支援競走として行われた。有力馬の回避相次いだため、マヤノトップガン圧倒的な1番人気となるが、鞍上田原ムチ入れることもなく1着に入ったまた、馬主田所祐大震災大きな被害受けており、地元摩耶山から冠名をとったマヤノトップガン勝利被災者勇気与えた。 秋はオールカマーから始動サクラローレル人気二分両馬とも単勝オッズ1倍台)するも4着と完敗天皇賞(秋)では先行し接戦のなか2着と踏ん張ったが、有馬記念ではサクラローレル快勝前に7着と惨敗したマヤノトップガン中山コースで2戦とも惨敗したことについて、坂口当時中山は力のいる馬場になっていて、トップガンには合わなかったと語っている。

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5歳(1964年)

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ネイティヴダイヴァー」の記事における「5歳(1964年)」の解説

休む間もなく去年と同じサンカルロスハンデにドナルド・ピアース(英語版)を鞍上出走。アドミラルズヴォヤージ(ダンジグ母父)の3着。2週間後のサンパスカルハンデにケネス・チャーチ(英語版)を乗せてオールデンタイムスの6着、更に二週間後のサンアントニオハンデにジョニー・ロングデン騎乗ガンボウの6着と鞍上定まらず成績も上がらなかった。 ここで1ヶ月休み取って3月のアルベイニーハンデに出走。ここで再びジェリー・ランバートを鞍上迎え以降のほとんどのレースジェリー騎乗した。新コンビ初戦ダブルリー(ペニンシュラハンデ連覇など)の4着、2週間後の分割競走・サンフランシスコマイルハンデはマスタードプラスター(ベイメドウズハンデ(英語版)など)の3着、更に2週間後のサクラメントハンデでもマスタードプラスター・ダブルリーに先着されての3着と中々勝てなかった。しかし2週間後のWGギルモアハンデでサンフランシスコマイルで2着だったアッパーハーフに首差で勝利。マスタードプラスターにも雪辱果たしこの年の初勝利を挙げた。この勝利調子上げて3週間後にイスマエル・ヴァレンズエラ乗せてオークランドハンデでも首差勝利6月カリフォルニアンステークスには東海岸無敵誇っていたケルソカリフォルニア遠征してきており大い注目集めたが、111ポンドのマスタードプラスターが勝利127ポンド背負ったケルソは6着・115ポンドネイティヴダイヴァーは8着に終わった2週間後のイングルウッドハンデに騎手ジェリー戻して出走。マスタードプラスターに3/4馬身差をつけて同レース連覇達成7月入りアメリカンハンデでコロラドキング(英語版)の5着の後、ハリウッド金杯挑戦するがコロラドキング・マスタードプラスターの後の3着に終わった8月のサンディエゴハンデを連覇した後に3ヶ月休養を取る。11月のレッドウッドシティハンデでテスタム(ヒルズデールハンデなど)に5馬身勝利12月のパロスヴェルデスハンデでヴァイキングスピリット(デルマーハンデなど)に2 1/2馬身差で勝利。3連勝飾ったちなみにパロスヴェルデスハンデが行われた12月26日にはネイティヴダイヴァーを見るために多くの人が集まりサンタアニタパーク競馬場70,023人の観客数新記録達成した5歳時15戦6勝の成績だった。

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5歳(1992年)

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トウカイテイオー」の記事における「5歳(1992年)」の解説

1992年4月5日前年東京優駿から314日ぶりの実戦となる産経大阪杯から復帰する当時調教師試験注力していた安田事情、また将来海外日本国外遠征予定踏まえ、本競走より騎手国際経験が豊富で、父シンボリルドルフ主戦騎手岡部幸雄替わった当日東京優駿から20キログラム増の480キログラム出走レースではイブキマイカグラ前年有馬記念優勝馬ダイユウサクなどの強豪出走したが、これらの凡走尻目に、テイオーは岡部が鞭を抜かないどころか殆ど追う事も無く圧勝した無敗のまま迎えた天皇賞(春)は、本競走前年度優勝馬メジロマックイーンとの「世紀の対決」が注目集めた。3200メートル行われる競走対しトウカイテイオー2400メートル超のレース未経験であったため、松元は「テイオーは本質的に中距離タイプであるのに対しマックイーン最強ステイヤー天皇賞という舞台に関していうなら、我々はあくまでもチャレンジャーですよ」と語っていたが、大阪杯競走前に普段大げさ表現を嫌う岡部発した、「一杯になるという感じがなく、地の果てまでも走れそう」というコメントなどから問題はないと見られた。一方相手メジロマックイーン4歳時1990年)の3000メートル行われる菊花賞、本競走前哨戦阪神大賞典連覇するなど、充分な長距離実績持っていた。また、鞍上武豊岡部の「地の果てまでも走れそう」というコメントに対して「あっちが地の果てなら、こっちは天まで昇りますよ」と応酬し対決ムード盛り上げた当日単勝オッズトウカイテイオー1.5倍の1番人気、メジロマックイーン2.2倍の2番人気となり、3番人気イブキマイカグラが18.2倍と2頭から大きく離れ両馬馬連オッズ1.5倍と非常に低くなった。スタート切られると、トウカイテイオー前方4・5番手につけたメジロマックイーンの右後ろ追走第3コーナー入ってメジロマックイーンスパートをかけるとトウカイテイオーはこれに反応して前方進出しメジロマックイーンとの差を詰めかかった。しかし最後直線失速後ろから来たカミノクレッセイブキマイカグラホワイトアローかわされそのまま独走態勢入って逃げ切り勝ちを収めたメジロマックイーンから10馬身近く遅れた、1.7秒差の5着に敗れたデビュー以来初となる黒星喫しレース後に松元敗因について「距離の壁としか言いようがない」とコメントし岡部は「考えていた通り競馬ができたけど、直線半ばで、もういっぱいになってしまった。今日のところは相手強かったということでしょう」と述べた調教助手北口浩幸は、「テイオーは良馬場でこそ力を発揮できるタイプだけに、荒れた馬場災いしたのかも」と振り返った競走10日後には右前脚の剥離骨折判明し以降春シーズン休養となった。この時診断した獣医は、骨折東京優駿時と同じくレース開始直後発生していたものではないかとしている。一方で、この時の骨折についてシンボリルドルフ生産者馬主和田共弘は、「何日も分からなかったぐらいなのだから、たいした骨折じゃない」、安田隆行骨折影響について問われた際に「あれは勝敗とは関係ない」と述べいずれも競走能力影響する程度ではなかったという見解示している。 二風谷育成センター療養したのち、9月に帰厩。本格的な調教開始したが、半ば頃に38度を超す熱発見舞われ3日調教を休むといったアクシデント起き調整狂い生じた復帰戦はぶっつけ本番で臨む天皇賞(秋)11月1日となったが、松元は「時間的にギリギリになってしまった。正直言って、背水の陣です」と不安を口にしていた。復帰初戦にも関わらず当日単勝オッズ2.4倍で1番人気に支持されたが、レースメジロパーマーダイタクヘリオス競り合い前半1000メートル通過57秒5という「殺人的なハイペース」となり、岡部との折り合い付かず3番手を進んだテイオーは最後直線失速先行勢は総崩れの展開となり、後方から追い込んだレッツゴーターキンの7着に終わった初め掲示板を外す結果となり、レース後に岡部は「休み明けの馬特有の精神面不安定さモロに出た」、「2度骨折したから、4歳時の脚を臨むのは酷かもしれない」とコメントしたが、レース後に談話取り来ていたアナウンサー対し、「荒れ果てた顔つき」で「負け負けだよ!」と叫んだ松元は「次のジャパンカップピーク、というつもりでやってきたが、この負け方ではそんなことも言えない」とコメントした。この敗戦受けてトウカイテイオーは「もう終わった」「二冠相手弱かったから」と言われるようにもなっていた。 続くジャパンカップ11月29日)は、当年から国際GI競走として認定されイギリス二冠牝馬ユーザーフレンドリーGI競走4勝、当年全欧年度代表馬)を筆頭に、史上初め現役イギリスダービー馬が一挙に2頭来日オーストラリアから全豪年度代表馬のレッツイロープ、フランスからはアーリントンミリオン優勝馬ディアドクターなど世界中強豪馬が集まり、そのメンバー構成は「レース史上最強」とも評された。この中でテイオーは、日本馬では最上位ながら生涯最低となるオッズ10.0倍の5番人気とどまった。しかし、レースでは道中4・5番手追走すると、残り200メートル地点で外から抜け出し残り150m地点からナチュラリズムとの激し叩き合いとなると残り50m地点クビ抜け出して優勝ゴール後、普段冷静な岡部珍しく右手ガッツポーズ上げた日本馬勝利1984年カツラギエース1985年の父シンボリルドルフ以来7年ぶり3頭目であり、同時にトウカイテイオー日本競馬史上最初国際GI優勝馬となった岡部にとってもルドルフ以来優勝であり、ジャパンカップ史上初の2勝騎手となった年末グランプリ有馬記念では、出走馬選定ファン投票17票以上を集め第1位選出。しかし、12月19日開催岡部騎乗停止処分受けた陣営JRAから同日19時までに有馬記念でのテイオーの鞍上発表するように要請され松元がこの日阪神競馬場にいた田原成貴電話当日騎乗依頼し、これを了承された。ジャパンカップとは一転して絶好調」と報じられ当日単勝オッズ2.4倍の1番人気に支持される。しかしレースでは終始後方のまま、生涯最低の11着に終わった松元敗因ゲートトモ滑らせて腰の筋肉痛めたことを挙げた田原は腰の筋肉傷めたことについてスタート直後レガシーワールド接触して腰を捻った述べ加えて追い切り最終調教)の感触悪くなかったが、追い切った後の2、3日で変わってしまった」、「返し馬出たテイオーは、空気抜けた風船のような状態になっていた」と回顧している。

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5歳(2009年)

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メリッサ (競走馬)」の記事における「5歳(2009年)」の解説

半年間の休養経て1600下条件の4連敗挟み、1番人気で臨んだ7月北九州短距離ステークス1200m)では人気応える勝利を掴み、ようやくオープンクラスへ昇格ここまで26戦を要したその後4戦するも、北九州記念5着以外は全て着外終わりこの年レース終えた

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5歳(2003年)

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ディバインシルバー」の記事における「5歳(2003年)」の解説

5歳初戦、中1週で挑んだガーネットステークスは4着。続く根岸ステークスすばるステークス連続5着に敗れた。3か月後、穂苅が降板し、四位洋文乗り替わった栗東ステークスをマコトセイウンと後続話して競り合いクビ差前出て1着、1年ぶりの勝利を飾る。次走、北海道スプリントカップはやや離された3着に終わった。続くクラスターカップ安藤勝己乗り替わるレース先手を取る直線後続突き放しスターキングマンに7馬身差をつけて圧勝重賞初制覇飾ったその後さきたま杯ノボトゥルークビ交わされ2着、別定58kgを背負ったギャラクシーステークスは7着に沈んだ

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5歳(1996年)

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タニノクリエイト」の記事における「5歳(1996年)」の解説

この年7月21日BSNオープンより始動する4番人気応えられ10着、その後小倉記念朝日チャレンジカップ重賞を2戦するも9着、10着と大敗し引退となった

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5歳(2010年)

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アーネストリー」の記事における「5歳(2010年)」の解説

当初の予定であった大阪杯からの始動早め中京記念への出走目標調整進めていたが、調教後に右前脚の蹄壁欠損発症したため回避5月29日金鯱賞での復帰となった故障明けで、5ヶ月半のブランクとなったが、1番人気に支持された。レースでは1000m通過が1分1秒0のスローペース流れ2番手から追走し、直線抜け出す逃げたドリームサンデーに1馬身1/4の差を付け勝利連勝重賞2勝目挙げ、次走には目標としていた宝塚記念掲げた。またレース後、佐々木秋にアメリカGI挑戦する考えがあることを明らかにした。 迎えた6月27日宝塚記念は、ブエナビスタジャガーメイルドリームジャーニーなど、実績馬の揃ったレースとなったアーネストリーGI初挑戦ながら3番人気支持されるレースナムラクレセントハナを切る展開で進みアーネストリー2番手、ブエナビスタ4番に付けた。直線を向くとアーネストリー先頭に立ち、内からブエナビスタがこれに並びかけ競り合いとなったが、外から脚を伸ばしたナカヤマフェスタ一気差し切られ最後にブエナビスタにも競り負け3着に敗れたレース後、佐々木は「まだ本物ではありません。もうあとひとつガツンと来るものがあればいいですね。でも、これで秋が楽しみになりました今日1馬身差をどう詰めるか、これから考えていきたい思います」と述べた。 秋のGI戦線への緒戦として8月22日札幌記念に1番人気で出走した3番手を追走し、直線半ば先頭に立つとそのまま押し切る形で、ダービーロジユニヴァース1馬3/4の差を付け勝利した鞍上佐藤勝利後のインタビューで「内側につけようとも考えたが、力が違うと思い、外を回して安全策でいって勝ってくれた」と答えている。 10月31日天皇賞(秋)では2番人気支持されるレース5・6番手からジリジリと脚を伸ばす直線抜け出したブエナビスタに3馬身半差をつけられ後方から追い込んだペルーサにも差し切られる形で3着に敗れたレース後、佐々木インタビューで「ブエナビスタ負かせるのはここしかない思ってこっちも目いっぱい仕上げたけど、勝ち馬には馬なりかわされた。参ったよ」と敗戦コメント出している。次走はジャパンカップレイティングによる優先出走権賞金順での出走とも見込みが薄いため見送り有馬記念目指していたが、調整過程腰痛発症したため回避した

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5歳(2009年)

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イーグルマウンテン」の記事における「5歳(2009年)」の解説

2009年緒戦香港渡り11月国際マイルトライアルから復帰したが9着。連覇かかった香港カップでは5着に終わった

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5歳(2011年)

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ジョーカプチーノ」の記事における「5歳(2011年)」の解説

年明け初戦となった1月29日シルクロードステークスでは、スタートでやや出遅れ道中中団後ろ11番手で待機するも、直線で外から一気伸びて勝利NHKマイルカップ以来となる重賞3勝目挙げた3月27日高松宮記念では1番人気に推された。好スタートから先行したが、3コーナー付近ダッシャーゴーゴー前に入られ進路妨害される不利を受けたため位置取り下げ、中団前目からのレースとなった。4コーナーそのまま位置取り回り直線では外に持ち出した伸び欠き10着に終わった5月14日京王杯スプリングカップでは2番追走から逃げシルポート食い下がったが外から猛追したストロングリターンかわされ3着。6月5日安田記念では2番手で競馬進めた直線伸び切れず5着。8月28日キーンランドカップでは中団追走直線伸び脚を欠き9着に敗れたさらにはレース当日暑さ体調崩したため、秋の最大目標だったスプリンターズステークス回避したその後10月29日スワンステークスでは先行し直線後続突き放しにかかるがゴール前でリディルかわされ2着。11月26日京阪杯では道中2番手を追走したが直線失速し6着に敗れた

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5歳(1991年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:50 UTC 版)

ミホノビヤクエイ」の記事における「5歳(1991年)」の解説

5歳になったミホノビヤクエイ初戦は、1月4日のA3B1級アラ系5才上。1着でゴール板駆け抜け4月10日までにA2級まで上り詰める。そして迎えた5月8日兵庫大賞典自身よりも年上の有力馬が軒を連ねる中、出走メンバーとしては最年少馬としてシバノアマゾネス他1頭とともに出走。しかしミホノビヤクエイは5着、シバノアマゾネスは6着と格の違い思い知らせることになる。次走のA1級オープン戦日刊スポ賞で4番人気ありながら1着でゴールインそれ以降勝ち星からは遠ざかりA1級オープン戦サマーカップでは5着、デイリースポ社賞では2着と一歩及ばず8月21日摂津盃では去年摂津盃以来となる着外記録するその後特別競走では掲示板入り果たし、次走では1着に輝いている。以降調子を取り戻したミホノビヤクエイ白鷺賞にて3着、園田金盃にて2着を記録し1991年終えた

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5歳(2005年)

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ギャラントアロー」の記事における「5歳(2005年)」の解説

5歳初戦シルクロードステークスプレシャスカフェに半馬身差し切られたが2着に入る。前年引き続き1番人気に推され阪急杯は7着に敗れ高松宮記念11着に終わる。5か月休み明け小倉日経オープン59背負い3着と善戦セントウルステークスは4着に敗れたその後スプリンターズステークススワンステークス二桁着順沈み、アンドロメダステークスは最下位大敗CBC賞はやや復調し6着となった

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5歳(2005年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:53 UTC 版)

マイネサマンサ」の記事における「5歳(2005年)」の解説

5歳初戦周防灘特別を人気応え、好位追走から1馬3/4差をつけて勝利する昇級初戦斑鳩ステークスは中団から伸びるも2着、但馬ステークス先手取ったが9着に敗れた。続く道頓堀ステークスは中団やや後方から追い上げて2着に入ると、次走、洛陽ステークスで好位につける強襲するシンボリエスケープを半馬身抑えて1着、5勝目挙げた久々重賞出走となった愛知杯15着と惨敗。続くマーメイドステークス2番につける逃げ切ったダイワエルシエーロ1馬3/4差の2着に入った。次走、関屋記念は9着と崩れたが、府中牝馬ステークス4番追走からヤマニンアラバスタに続く2着と好走した。その後エリザベス女王杯出走向こう正面捲っていったが14着に終わる。続く阪神牝馬ステークス直線アドマイヤグルーヴレクレドールとの叩き合いとなりアドマイヤグルーヴに半馬身差の2着となった

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5歳(1999年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 09:50 UTC 版)

エアジハード」の記事における「5歳(1999年)」の解説

安田記念参戦確実なものにするために4月25日新潟競馬場谷川岳ステークスOP)に出走する相手は、一段劣るメンバーであり、先々のことを考えて、完全には仕上げない状態で臨み2.2倍の1番人気に支持された。スタートから先行ハイペースの中、直線早めに抜け出したが、後方から追い込んだ2番人気ナリタプロテクターに差し切られた。コースレコード決着しクビ後れを取る2着。この敗戦により、エアジハード矯正し発走調教再審査合格させ、重賞勝利まで導いた橋本降板決定する伊藤ラッキーフィールド協議の末「技術があって、老獪ではない騎手」(伊藤)として、前年エルコンドルパサー騎乗しジャパンカップ制した30歳蛯名正義を、新たな主戦騎手として迎えることとなった5月15日安田記念前哨戦として知られる京王杯スプリングカップGII)に出走前年有馬記念勝利しこの年始動戦だったグラスワンダー2.1倍、続く4.8倍の2番人気エアジハードであった蛯名安田記念出走のために、勝利よりも「スムーズな競馬をして、2着までにもってくる」ことを最優先考えていたという。大外からスタートして先行したスローペースの中、逃げ馬に次ぐ2番手で直線向き内側か競りかけてきた先行勢4頭の追い上げ制して抜け出したが、中団待機から大外持ち出して追い込んだグラスワンダー差し切られた。4分の3馬身差をつけられた2着。賞金加算には成功した

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