5歳
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5歳(ごさい、1983年3月24日 - )は、日本の男性インフルエンサー、ライター、実業家。本名、菅野 康太(かんの こうた)[1]。株式会社アマヤドリ代表取締役。
- ^ 5歳さんの会社名(インタビュー)「人気ツイッタラー #5歳さんの会社名 を考えるために #コッピーTV賞」『言葉が強くなる✏️コッピーTV』、2019年12月29日 。2020年7月4日閲覧。
- ^ いちばん好きなもの|5歳(嫁公認アカウント)
- ^ 僕は25歳の夏、マザーテレサの「死を待つ人の家」で、毎日誰かを看取っていた
- ^ Twitterフォロワー10万超のリサーチ整体師・5歳は、本物のインフルエンサーとして楽しく稼ぐ方法を模索する。
- ^ 嫁に読まれる覚悟を決めたらフォロワーが10万人増えた アルファツイッタラー”5歳”さんが語るこれからのTwitter
- ^ MEMBER|株式会社チョコレイト|CHOCOLATE Inc
- ^ 株式会社カラス
- ^ ライター5歳、株式会社設立までの全部お見せします!
- ^ 僕と嫁とジェラシー【連載】嫁公認コラム
- ^ 5歳【嫁公認アカウント】 | 嫁公認コラム | 街角のクリエイティブ
- ^ 5歳|「マイナビウーマン」
- ^ 「5歳(嫁公認アカウント) 」の記事一覧 | びゅうたび
- ^ ライター詳細 5歳 | アイスム
- ^ 困ったときの駆け込み垢!5歳のお悩み相談室 | 三井のリハウス
- ^ 5歳さんコラム | ママの知りたい情報が集まるアンテナママテナ
- ^ ぼくの嫁の乱暴な愛情 松本 あやか:一般書 | KADOKAWA 2017年08月25日
5歳(2021・22年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:34 UTC 版)
「ウェリントン (競走馬)」の記事における「5歳(2021・22年)」の解説
11月21日のジョッキークラブスプリント(G2)で始動するも7着に敗れ、12月12日の香港スプリント(G1)でも7着と連敗。年明けの1月23日のセンテナリースプリントカップ(G1)も4着と3連敗を喫した。 2月20日のクイーンズシルバージュビリーカップ(G1)ではスタートは一息で広報3番手となったが、直線で中央に持ち出してから末脚をしっかりと伸ばして先行集団を飲み込み2度目のG1制覇となった。 4月3日のスプリントカップ(G2)では縦長となった馬郡で後方3番手で待機し、直線に入ると馬場の中央を伸びてゴール板前でクビ差だけ差し切った。 24日のチェアマンズスプリントプライズ(G1)は中団からやや後方に控え、直線に入ると進出を開始し、残り200mを切ったところで先頭を交わして3連勝で連覇を果たした。
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5歳(2011年)
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「クラウデッドハウス」の記事における「5歳(2011年)」の解説
休養を終えてドバイに遠征し、2月3日のマクトゥームチャレンジラウンド2(G3)に出走したが7着、続くバージナハール(G3)でも9着。3月26日のゴドルフィンマイル(G2)では最下位の14着に終わった。そのレースを最後に引退した。
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5歳(2010年)
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休養を終えて4月24日のベット365マイル (G2) に出走、1番人気に応え見事連覇を飾った。続く5月15日のロッキンジステークスでは後方から馬場の外を追い込み、内から抜けてきたウクバを差し切って勝利、G1競走3勝目を挙げた。6月15日のクイーンアンステークスは連覇がかかっていたが、先に抜け出したゴルディコヴァにクビ差で追い込み届かず2着と、連覇はならなかった。8月15日のジャック・ル・マロワ賞ではいつものように最後方でレースを進め、最後の直線で馬場の内側から追い込んでくるも3着だった。9月5日のムーラン・ド・ロンシャン賞ではフュイッセの4着に敗れた。10月3日のフォレ賞では後方から追い込んでゴルディコヴァの2着に入った。11月にはアメリカ合衆国に遠征し、ブリーダーズカップ・マイルに出走したが4着に終わった。香港へ遠征し、12月12日に行われた香港マイルでは13着と惨敗した。このレースを最後に現役を引退、種牡馬入りした。
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5歳(2005年)
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「グラッブユアハート」の記事における「5歳(2005年)」の解説
年明けは前年に続きTCK女王盃に出走、前走に続き番人気に推されるもスタートが決まらず5着、勝ったのはレマーズガールだった。次走のエンプレス杯はレマーズガールをハナ差交わすもプルザトリガーに半馬身差で逃げ切られ2着となる。1年3か月ぶりに混合戦に出走した仁川ステークスは8着に敗れる。続くマリーンカップは上がり最速の脚を使うもトーセンジョウオーにクビ差屈し2着、連覇を狙ったスパーキングレディーカップは3着に敗れ連覇を逃す。3か月間を開け、白山大賞典に出走、2週目3コーナーで先頭に立つと後続を突き放し、猛然と迫るハードクリスタルを1馬身振り切り重賞2勝目を挙げる。なお、牝馬による白山大賞典制覇は25回目にして初めてだった。次走、前年2着だったクイーン賞は4コーナーで抜群の手応えで前に取り付くと、直線では差を広げていき、10馬身差の圧勝。連勝で重賞3勝目を挙げた。なお、前年覇者のレマーズガールは最下位に敗れている。
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5歳(2011年)
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「ナイキハイグレード」の記事における「5歳(2011年)」の解説
2011年5月3日、かきつばた記念で1年2ヶ月ぶりに復帰。最後方から追いあげたが6着。レース後は休養に入った。
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5歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 16:45 UTC 版)
「レマーズガール」の記事における「5歳(2005年)」の解説
前年と同じく年明け初戦はTCK女王盃を選択、別定57㎏を背負ってのレースだったが、後続に1馬身半差をつけ連覇を飾る(グラッブユアハートは5着)。次走、エンプレス杯はプルサトリガーに逃げ切られ、さらにグラッブユアハートにハナ差交わされ3着、こちらは連覇とはならなかった。続く、名古屋大賞典はクーリンガー相手に半馬身差の2着。マーチステークスは8着に敗れる。このレース以降、中央での競馬場のレースには参戦していない。初の1400m戦となったかきつばた記念は7着。続く牝馬限定のマイル重賞2戦はマリーンカップはやや離された3着、スパーキングレディーカップは6着。半年の休養明けとなったクイーン賞は大差の最下位に敗れる。なお、勝ったのはグラッブユアハートだった。
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5歳(1989年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 22:57 UTC 版)
「サクラチヨノオー」の記事における「5歳(1989年)」の解説
東京優駿の後に右前脚浅屈腱炎を発症し、長期離脱となった。その間に、1歳下の半弟サクラホクトオー(父:トウショウボーイ)が朝日杯3歳ステークスに優勝し、兄弟制覇を遂げた。 1989年5月、安田記念で350日ぶりの復帰。長期療養明けにもかかわらずホクトヘリオス、リンドホシに次ぐ3番人気に支持されたが、ブービー賞16着に敗退した。続く宝塚記念でも4番人気に支持されたが、競走中に故障を発生して失速。ブービーからさらに大差をつけられた最下位16着となった。競走後に屈腱炎の再発が確認されて、競走馬を引退。1989年6月25日に札幌競馬場で引退式が行われた。
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5歳(1987年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 10:24 UTC 版)
「フレッシュボイス」の記事における「5歳(1987年)」の解説
1987年、血統的には短距離向きだが、長距離戦線でまずまずの成績を残したことで春の目標を天皇賞(春)に定め、緒戦の日経新春杯を1番人気で快勝した。ちなみにこれが生涯唯一の1番人気での勝利であった。 次走阪神大賞典は勝ったスダホークから離されての4着に終わる。この結果を受けて陣営は相手が強化され、さらに距離が200m伸びる天皇賞では勝負にならないと判断し、目標を安田記念に切り替える。安田記念では、主戦騎手の田原成貴が天皇賞でニシノライデンに騎乗した際に進路妨害による失格でで騎乗停止となったので、鞍上は柴田政人に乗り替わった。前哨戦の京王杯スプリングカップでダイナアクトレスらを一蹴したニッポーテイオーが単枠に指定されて1番人気。中山記念を勝ったスズパレードが同じく単枠指定になって2番人気。フレッシュボイスは離れた3番人気だったが、重馬場の中、逃げ切りを狙うニッポーテイオーを大外一気の末脚でかわし、GI初制覇を飾った。
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5歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:52 UTC 版)
「ゼンノロブロイ」の記事における「5歳(2005年)」の解説
5歳の前半シーズン、ゼンノロブロイは海外遠征を見据えて前哨戦を経ずに宝塚記念に出走し3着。渡英してイギリスのG1競走インターナショナルステークスに出走し、レースは1番人気に支持されたエイダン・オブライエン厩舎のエースが逃げる中後ろから2番手を追走し、最後の直線では5頭が並ぶ大接戦を演じたのち前をわずかに行くマラーヘルをハナ差わずかに抑えたかと思った刹那、さらに外からやってきたエレクトロキューショニストにクビ差交わされ2着に敗れた。敗因について調教師の藤沢は「思ったよりも馬場がボコボコしていてノメっていた」とイギリス独特の重い芝が響いたと語った。また、この日が初騎乗で唯一の騎乗ともなった武豊も「思ったよりも馬場が悪くてビュッと切れる脚が使えなかった」と馬場を敗因として挙げている。また、武はのちに、事前にライバル馬の映像研究を行っていたものの、エレクトロキューショニストだけは研究していなかったことを明かしている。 帰国後出走した天皇賞(秋)では1番人気に推されたものの、レースでは直線でヘヴンリーロマンスに競り負けてアタマ差の2着に敗れた。続くジャパンカップでは接戦の末3着、引退レースとなった有馬記念ではスタート直後に脚を捻った影響で8着に敗れ、競走生活で初めて掲示板(5着以内)を外す。
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5歳(2006年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:50 UTC 版)
2006年の初戦として選んだのは、3月のドバイシーマクラシックであった。事前の同じ橋口厩舎のユートピアとの追い切りでは、馬なりで上がり3ハロン33秒台という破格の時計を出し、本番では有馬記念と同じく、逃げ先行の作戦で、直線ではムチを入れることなくOuija Board(ウィジャボード)ら後続を突き放し2着に4馬身差をつけ勝利した。 同年7月には欧州最高峰の競走の1つ、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスへ出走。Hurricane Run(ハリケーンラン)に次ぐ2番人気に支持された。1970年以来の6頭立てという少頭数となり、終始3、4番手を追走して、最後の直線で一度は先頭に立つなど健闘したものの、3着に終わった。レース後、橋口は「イギリスへ来て馬が寂しがっていたのは意外だった。来年は帯同馬を連れて、再び同レースにハーツクライを挑戦させたい」と語った。 同年の日本初戦となったジャパンカップでは、凱旋門賞出走後のディープインパクトとの有馬記念以来の再戦ということもあり、注目された。しかしレース前にハーツクライが喘鳴症を発症していることが公表され、不安が残る中での出走となった。そして2番人気で迎えたレースではスタートから先行し、ライバルであるディープインパクトが最後方につける中、ハーツクライは道中3番手を進み、最後の直線を迎えたが、近走の様な手応えがなく、見せ場なく沈み11頭立ての10着と大敗した。 橋口は大敗を喘鳴症の影響によるという見方を示し、オーナー及び関係者協議の結果11月28日に現役引退が発表され2007年より種牡馬入りが決まった。
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5歳(1999年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:38 UTC 版)
「セイウンスカイ」の記事における「5歳(1999年)」の解説
1999年の初戦には日経賞が選択され、同じシェリフズスターを父に持つセイウンエリアに5馬身の差をつけて勝利する。しかし、2番人気で迎えた天皇賞(春)では、スペシャルウィーク、メジロブライトに差し切られ3着に敗れた。 休養後、札幌記念では鞍上の横山が「馬の行くまま」にまかせた結果、戦法を一転させ10頭立ての7番手に控えて後方に待機すると、3コーナー手前からまくり気味に進出して後続を突き放し、同期の2冠牝馬ファレノプシスを半馬身抑えて勝利する。 しかし1番人気で臨んだ天皇賞(秋)では、本馬場入場時にダイワテキサスと接触した上に、枠入りを約5分間に渡って嫌がるアクシデントなどもあり5着に敗退。この枠入り不良事件は、枠入りの指示について厩舎側と発走委員の間で責任のなすり合いとなり、セイウンスカイは1ヶ月の出走停止処分となった。さらに、レース後にセイウンスカイは屈腱炎を発症し、長期休養を余儀なくされた。
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5歳(2007年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:14 UTC 版)
「メイショウトウコン」の記事における「5歳(2007年)」の解説
2007年、初の重賞挑戦となった第14回平安ステークスでは騎乗停止中の武幸四郎から石橋守に乗り替わり9番人気という評価だったが、サンライズバッカスにアタマ差で先着し重賞初挑戦で初制覇となった。初のGI挑戦となった第24回フェブラリーステークスでは再び武幸四郎が騎乗し4番人気という評価だったが11着と敗れてしまった。第12回アンタレスステークスでは1番人気に支持されるも3着となり、第24回東海ステークスでは2番人気で勝利し重賞2勝目を挙げた。 その後、ホッカイドウ競馬のダートグレード競走・ブリーダーズゴールドカップに出走予定であったが、馬インフルエンザの問題で、同馬を含む中央馬全馬が競走除外になった。その後は9月17日に札幌競馬場で行われたエルムステークスに出走。武幸四郎が怪我のため池添謙一に乗り替わるものの、直線では相手を寄せ付けず完勝、重賞3勝目を挙げ、10月3日に発表された重賞・オープン特別競走レーティングでは、110ポンドの評価を得た。続く第8回ジャパンカップダートは4番人気で、後方から鋭く追い込むものの、届かず4着だった。続く第53回東京大賞典では3番人気で3着となった。
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5歳(1987年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 16:44 UTC 版)
「ダイナガリバー」の記事における「5歳(1987年)」の解説
5歳となり天皇賞(春)を目指して、日経賞に出走したが3着に終わった。この頃、秋に凱旋門賞に挑戦するためフランスに遠征する計画が持ち上がっていたが、天皇賞前に骨折してしまい、この計画は頓挫してしまった。 秋には骨折が癒え、毎日王冠から復帰したが12着と大敗、続く有馬記念も14着と惨敗し、この有馬記念を最後に引退した。
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5歳(2003年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 22:22 UTC 版)
「ニホンピロサート」の記事における「5歳(2003年)」の解説
年明け初戦、ガーネットステークスはトップハンデタイの57 kgを背負うが、ダート短距離で4馬身差の圧勝、重賞初制覇となる。次走、根岸ステークスは1.5倍の人気を集めたが、中団から伸びるもサウスヴィグラスをクビ差交わせず2着。その後長期休養に入り、7か月ぶりのレースとなったエルムステークスで復帰。前走から500mの距離延長と調整不足が相まってブービー12着に敗れる。適正距離に戻ったシリウスステークスは6着。次走、武蔵野ステークスは11着、霜月ステークス5着とやや不本意な競馬が続いたが、ギャラクシーステークスをのちの重主戦のひとりとなる小牧太が騎乗し、3/4差で制す。
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5歳(2009年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:45 UTC 版)
「ドリームジャーニー」の記事における「5歳(2009年)」の解説
2009年は、1月25日のアメリカジョッキークラブカップから始動、1番人気に支持されるも直線では伸びず8着に敗れた。中山記念では直線鋭く伸びるも、前を行くカンパニーをわずかに捉えられず2着に敗れた。産経大阪杯では3番人気に支持され、最終直線の2ハロンで先頭に立つと、1番人気のディープスカイとの追い比べを制し、重賞5勝目を挙げた。 その後は春の大目標として金鯱賞を挟み、宝塚記念を目指す予定だったが、状態が良いことから急きょ天皇賞(春)への参戦を決める。レースは菊花賞以来久々の長距離レースとなったが、先行勢が潰れるという展開から、最終直線で大外から鋭く伸びて3着に入った。 6月28日、春の大目標であった宝塚記念では、ディープスカイが単勝1.6倍の圧倒的1番人気に推される一強ムードの中2番人気で出走。レースはコスモバルクが大逃げを打つ中で中団待機策を取り、最後の直線で抜け出すとディープスカイ、サクラメガワンダーらの追走を振り切り優勝。2年半ぶりのGI競走制覇を果たした。 休養を挟み、9月27日のオールカマーでは1番人気に支持され、レースでは中団追走から最後の直線で追い上げてくるも逃げるマツリダゴッホを捉えることができず2着に敗れた。 11月1日の天皇賞(秋)では、ウオッカ、シンゲン、オウケンブルースリに次ぐ4番人気で出走。最後方あたりからレースを進めたが、カンパニーの6着に敗れた。 12月27日、第54回有馬記念(グランプリ)に出走。最初の900mが52.2秒のハイペースで逃げる中、最後方待機策から徐々に進出し、直線でブエナビスタを外からかわして優勝。父ステイゴールド、母父メジロマックイーンが共に敗れていた競走を制した。 なお、春秋のグランプリ制覇はグレード制度導入以降、イナリワン(1989年)、メジロパーマー(1992年)、グラスワンダー(1999年)、テイエムオペラオー(2000年)、ディープインパクト(2006年)に続いて6頭目となった。出走時馬体重426kgは2006年ディープインパクトの438kgを下回り、グレード制導入以降では最も軽い優勝馬となった。また、管理調教師の池江泰寿の父、池江泰郎もディープインパクトで春秋グランプリを制覇しており、史上初の春秋グランプリ親子調教師制覇となった。 春秋グランプリ制覇が評価され、この年のJRA賞最優秀4歳以上牡馬に選出された。
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5歳(2009年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 18:42 UTC 版)
2009年はルイビルディスタフステークス (G2) から始動の予定も、馬場状態の悪化を理由に出走を取り消した。3週間後にミレイディハンデキャップ (G2) で改めて復帰。当日は重賞3連勝中の僚馬・ライフイズスウィートと人気を分け合った。レースは十数馬身離れた最後方から最終コーナーに掛けて一気に位置を上げ、直線で抜け出して勝利。同競走連覇と共に、連勝記録を10に伸ばした。次走のヴァニティーインビテーショナルハンデキャップ (G1) ではキャリア最高となる129ポンド(約58.5kg)の斤量を背負いながら、2着に2馬身半差で快勝。続くクレメント・L・ハーシュステークス (G1) では道中でスミスが終始手綱を押し通しというレース運びであったが直線で最後方大外を追い込み、先行馬を頭差捉えて勝利。12連勝・6つめのG1優勝を果たした。 10月10日、ブリーダーズカップへの前哨戦としてレディーズシークレットステークスに出走。前走とは一転、直線入り口で先行勢に並び掛けるとスミスが一度も鞭を使うことなく快勝し、パーソナルエンスンに並ぶデビュー13連勝を達成した。 迎えるブリーダーズカップではレディーズクラシック連覇を目指すか初めての牡馬相手となるクラシックへ向かうかが直前まで未定であったが、競走4日前にクラシックへの正式登録が発表される。当日はG1競走2連勝中のアイルランド調教馬・リップヴァンウィンクル、当年G1競走3勝のサマーバード等を抑えて1番人気に支持された。レースでは集団から置かれる形で後方2番手を進んだが、第3コーナーから進出を始めて最後の直線に入った。直線では馬場中ほどの馬群の中にいたがスミスは半ばでゼニヤッタを大外へ持ち出すと、残り100mの地点で先頭を行くジオポンティを交わして1着でゴール。ブリーダーズカップ創設26年目で初めてとなる牝馬によるクラシック制覇を達成した。馬主のモス、管理調教師のシレフスにとっても初めてのクラシック優勝であり、シレフスは前日レディーズクラシックを制したライフイズスウィートから2日連続のメイン競走制覇も達成した。
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5歳(2019・20年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:04 UTC 版)
「ネイチャーストリップ」の記事における「5歳(2019・20年)」の解説
9月7日のコンコルドステークス(G3)で始動するも4着に敗戦するも、叩き2戦目の27日のモイアステークス(G1)では大接戦を制してG1・2勝目を挙げた。 10月19日のジ・エベレストに出走するも4着に敗れるが、巻き返しを図る11月9日のスプリントクラシック(G1)では一方的にリードを広げて2着に3.25馬身差の圧勝でG1・3勝目を飾った。 年が明けて2月15日のブラックキャビアライトニング(G1)で復帰して4着に敗れるが、3月7日のチャレンジステークス(G2)ではレッドゼルに3馬身差をつけて完勝した。 4月4日のTJスミスステークス(G1)は1番人気に推され、先行争いを制して最終コーナーで後続を突き放し、2馬身のリードを保って逃げ切りG1・4勝目を挙げた。 今季のG1・3勝などの活躍が評価されて豪州年度代表馬および最優秀短距離馬に選出された。
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5歳(2006年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 05:28 UTC 版)
「ブラックタイド」の記事における「5歳(2006年)」の解説
2006年5月末に帰厩すると、8月に新潟競馬場で行われるダートのオープン特別・関越ステークスで復帰することになった。藤岡佑介を鞍上に迎え、初のダート戦に挑んだ。道中は最後方を追走し、直線では鋭い末脚を繰り出すが7着に敗れた。レース後、調教師の池江泰郎は「とにかくレースを使えたことが収穫。よくここまで来れた」と語った。このレースでは上がり最速を記録した。 その後、得意の芝でのレース、小倉日経オープンに出走し、道中は中団に待機して最後はしぶとく伸びたが3着。さらに幸英明を鞍上に朝日チャレンジカップに出走し6着。続いて藤岡佑介を再び鞍上に迎え、オープン特別のアンドロメダステークスに出走、同日の東京競馬場のメインレース、ジャパンカップで弟のディープインパクトが勝利し、兄弟でのメインレース勝利が期待されたが2着に敗れた。更に12月のディセンバーステークスに鞍上クリストフ・ルメールで出走したが3着に終わった。
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5歳(2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:04 UTC 版)
「ダンツジャッジ」の記事における「5歳(2004年)」の解説
中1週で挑んだ中山金杯は3着と好走。続くアメリカジョッキークラブカップで初2200m戦に出走、道中は中団に構えると、直線内から鋭く抜け出しウインジェネラーレをハナ差交わしてゴール。重賞2勝目を飾る。次走、京都記念は7着、安田記念は8着と凡走が続いたが、エプソムカップで上り最速の脚を使いマイネルアムンゼンにクビ差の2着に入る。その後は北九州記念8着、トップハンデタイの58kgで挑んだ福島記念は10着、中1週で挑んだ京阪杯は6着、さらに中1週で挑んだ鳴尾記念はブービーの14着に終わった。
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5歳(2000年)
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「アグネスワールド」の記事における「5歳(2000年)」の解説
高松宮記念に出走するが、キングヘイローの3着に終わる。その後イギリスに遠征し、キングズスタンドステークスで単勝8番人気ながら2着になると、続くジュライカップでは単勝1番人気に応えて優勝、海外のG1競走2勝目を挙げた。海外の2つの国でG1競走に勝った初の日本馬となった。帰国後のスプリンターズステークスはダイタクヤマトに逃げ切られ、またしても2着。同年のブリーダーズカップ・スプリント(米G1)8着を最後に引退した。
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5歳(1993年)
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「サクラバクシンオー」の記事における「5歳(1993年)」の解説
スプリンターズステークスのあと、サクラバクシンオーは脚部不安を生じて休養に入る。翌1993年の春シーズンは全休し、10月になりオープン特別競走・オータムスプリントステークスで復帰。得意の1200メートルにもかかわらず2番人気の評価だったが、道中5~6番手追走から直線で抜け出すという新境地を見せ、復帰戦を勝利で飾った。続くアイルランドトロフィーでは1600メートル、重馬場と実績のない条件が重なり、結果も4着と敗れる。しかし前年勝利したキャピタルステークスでは、道中3番手を進んでの落ち着いたレース運びから直線で抜け出し、1分21秒2と前年同様の好タイムで勝利した。 12月19日、前年6着のスプリンターズステークスに出走。前年の2着馬で、当年マイル戦の安田記念、中距離戦の天皇賞(秋)を制し、「三階級制覇」がかかるヤマニンゼファーが1番人気、サクラバクシンオーは前年度優勝馬のニシノフラワーを抑えての2番人気に推された。スタートが切られるとサクラバクシンオーは先行する2頭を見ながらの3番手を進み、ヤマニンゼファーがその直後を追走。前半600メートルは33秒2と例年に比べれば緩いペースとなり、最後の直線で抜け出したサクラバクシンオーはヤマニンゼファーを突き放し、2馬身半差をつけてGI初制覇を果たした。これはサクラユタカオー産駒のGI初制覇ともなった。 競走8日前、バクシンオーの馬主であり、小島が父とも慕っていた全演植が死去しており、小島は競走後のインタビューにおいて「寝ても覚めてもオヤジのことばかり考えていた。絶対に勝たなくちゃいけない、絶対に負けられないと思っていた。これまでの騎手人生で最高の仕事ができた。オヤジにありがとうと言いたい」と語った。またバクシンオーについては「一本調子の逃げしかできなかった馬が、前走では好位で折り合う、以前とは見違えるようなレースができた。脚元の弱かった馬がビシビシ調教をやれるようになったし、馬自身が本当に成長している」と述べ、また境も「まさに本格化したといっても過言ではない」と述べた。 当年はこれでシーズンを終える。翌年1月に発表された年度表彰・JRA賞では、最優秀短距離馬部門で総数171票のうち77票を集めたが、87票を集めたヤマニンゼファーに及ばず次点となった。
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5歳(1997年)
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古馬となっての初戦には6月のマーメイドステークスが選ばれ、1番人気に支持され勝利を収めた。続く札幌記念は伊藤が同レースに出走予定だったジェニュインを相手に絞り、「勝っても負けてもジェニュインと何馬身差の競馬ができるかで、天皇賞でも通用するのか測れる」という思惑の元出走となった。札幌記念はこの年からGIIに格上げとなったことと2頭の対決が注目を集めたことで当日の札幌競馬場には5万人近くの観衆が集まり、レースでは中団から抜け出すとジェニュイン、エリモシックの追撃を振り切って勝利した。目標と定めていたジェニュインは4着であり、伊藤は「まだ目一杯仕上げていない状態でこれなら、本番(天皇賞)も勝てる」と確信を持ったという。 迎えた天皇賞(秋)では、エアグルーヴは伊藤が「この時、初めてピークに持っていきました」と振り返るほど良好な状態で出走した。当日は前年の優勝馬バブルガムフェローに次ぐ2番人気に支持される。レースでは最後の直線で3番手から抜け出そうとしたバブルガムフェローにエアグルーヴが外から襲い掛かり、残り200m過ぎからは2頭のマッチレース状態となったが、エアグルーヴがクビ差前に出て1着でゴールし、1980年のプリテイキャスト以来17年ぶり、また秋の天皇賞が2000メートルのレースになってからは史上初となる牝馬の優勝となった。なお、3着のジェニュインはバブルガムフェローから5馬身後方だった 続くジャパンカップでは2番人気に支持されたが、最後の直線で抜け出そうとしたところを内から追い込んだピルサドスキーにクビ差かわされ2着に敗れた。年内最終戦の有馬記念では武豊がマーベラスサンデーに騎乗したため、オリビエ・ペリエに乗り替わり、最後の直線で抜群の手応えで早めに先頭に立ったが、最後にマーベラスサンデーと勝ち馬のシルクジャスティスにわずかに交わされて3着に敗れた。 1997年度の年度代表馬選定において、秋の中長距離GIシリーズを牡馬に交じって走り、全てで馬券圏内に入着した走りが評価されて同年度の年度代表馬に選定された。牝馬の年度代表馬受賞は1971年のトウメイ以来26年ぶりとなった。
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5歳(2020・21年)
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「ベリーエレガント」の記事における「5歳(2020・21年)」の解説
8月22日のウィンクスステークスで勝利しG1・4勝目を挙げる。9月19日のジョージメインステークス4着を挟み、10月3日のターンブルステークス、17日のコーフィールドカップとG1を連勝した。その後、11月3日のメルボルンカップに出走するものの7着に敗れた。 年が明けて2月13日のアポロステークス(G2)で復帰して3着、チッピングノートンステークスでゴドルフィン所有のコレット(英語版)とアヴィリオスを破って勝利を収め、3月27日のランヴェットステークスでアデイブを破ってG1・8勝目を挙げた。その後、クイーンエリザベスステークスに出走するがアデイブを捉え切れず2着と連覇を許す結果となった。
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5歳(2004年)
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「ナリタセンチュリー」の記事における「5歳(2004年)」の解説
前走から中2週で再び1000万下の競走に出走しハナ差で勝利したが、既に同じクラスを2勝していたこともあり、騎乗した田島は自身のウェブサイト(現在は閉鎖)で、「どう乗っても勝てる自信はあった」とコメントしている。続く特別戦(1600万下)もトップハンデながら勝利し、3連勝でオープン入りを果たす。2度目の重賞挑戦となった中京記念では、後方からレースを進め、直線では内ラチ沿いを最速の上がりタイム(3ハロン34秒4)で追い込んでくるが、単勝最低人気のメイショウキオウに逃げ切られ2着に敗れる。続く産経大阪杯では最後の直線で外に出すが、伸び切れず8着に敗れた。 GI初出走となった天皇賞(春)では鞍上が主戦騎手の田島から吉田稔に代わるが、逃げ切り勝ちしたイングランディーレを始め、先行した馬が上位を占める中、後方から差して5着に入る。この乗り替わりは、実戦での騎乗が少ない中、普段から調教を付け、「この馬を生きがいにしてきた」というほどであった田島にとってはショックだったようで、自身のサイト(前述)が約2ヶ月間更新されなかった。ちなみに田島は、2004年は3勝しか挙げていないが、その3勝はすべてナリタセンチュリーによるものであった。 しかし、5ヶ月ぶりの京都大賞典で田島とのコンビが復活する。いつものように後方からじっくりとレースを進め、直線でアドマイヤグルーヴを外から交わすと、内を突いてきた、断然の単勝1番人気(1.4倍)のゼンノロブロイをも捕らえる勢いで伸びてきた。ゼンノロブロイと馬体を併せると、ゼンノロブロイも差し返そうとするが、クビ差退けて重賞初制覇を飾る。前走の天皇賞(春)で騎乗出来なかった田島は、「競馬で騎乗出来るか分からず不安に思いながら調教を付けていた」「出馬投票で自分の名前を確認するまでは不安で一杯だった」ことを経ての勝利に、「今回の重賞勝利は今までと違い、悩んでいる時の勝利だったので本当に嬉しかった」とサイトに記している。 続く天皇賞(秋)では内が伸びる馬場状態の中、外を突いて伸びてくるがゼンノロブロイの6着に敗れた。ジャパンカップでは再び乗り替わりとなり、柴田善臣を背に単勝4番人気に支持され、最後の直線では外目を突いて伸びるも5着に終わる。
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5歳(2006年)
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「ダイワメジャー」の記事における「5歳(2006年)」の解説
2006年春にマイラーズカップ(GII)で約1年ぶりの勝利。この競走以降、騎乗停止などの事情を除いては安藤勝己が主戦騎手として定着する。 同年春のGI競走・安田記念、宝塚記念(安藤の騎乗停止で四位洋文騎乗)はいずれも4着となる。安田記念では2番人気の支持を受けていたが、最内枠からの発走で馬群に包まれたことに加え、全体の流れも遅くなったことで、持続的なスピードを持ち味とするが一気に抜け出す瞬発力に欠けるダイワメジャーには不利な展開となっていた。その後は社台ファームで休養に入り、秋は毎日王冠(GII)から始動。安藤は安田記念での経験を踏まえ、平均的に流れていた全体のペースを吊り上げようと、あえて最終コーナーからスパートをかける作戦をとった。最後の直線では並びかけてきたダンスインザムードと2度にわたって接触し一旦前に出られたものの、残り100メートルから再加速し、クビ差逆転しての勝利を挙げた。 当初の予定では、このあとは前年2着のマイルチャンピオンシップへ直行することになっていたが、毎日王冠が好内容であったこと、また、競走後のダイワメジャーの体調も良かったことから、2年前に最下位となっていた天皇賞(秋)への出走が決まる。天皇賞にはフランス・凱旋門賞への遠征を終えた五冠馬(当時)・ディープインパクトが出走を予定していたが、のちに回避が表明されたことにより一転して混戦模様を呈した。当日は1番人気がGI3勝を挙げている牝馬のスイープトウショウで3.9倍、上位5頭までが10倍以下と人気が割れるなか、ダイワメジャーは7倍の4番人気となった。なお、前日調教に跨がった調教助手の飯田によれば、このときのダイワメジャーからはかつてなく凄味のある感触が伝わってきたといい、「あまりに凄い感触で誰にも言うことができなかった。口に出すと自分にプレッシャーが掛かってしまうと思ったから」と振り返っている。 スタートが切られると、ダイワメジャーは逃げるインティライミから4~5馬身後方の2番手を追走、前半1000メートル通過は58秒8と淀みのないペースで流れた。ダイワメジャーは残り400メートル地点で先頭に立ち、追い込んできたスウィフトカレントに半馬身の差を保ち続けたままゴール。皐月賞以来924日ぶりのGI制覇を果たした。 安藤は「これまではダイワメジャーの力を出し切れるレースになることは少なかったけど、今回はこの馬に合った、淡々とした平均ペースになったのが良かった。我慢強い馬だから、スウィフトカレントが来たときにもう一回伸びてくれた」と感想を述べた。また上原は後年行われたインタビューで「嬉しかった。当時は手術をしてGIを勝った馬はいなかったし、喘鳴症になったらもう駄目というイメージだった。それが同じ症状に苦しむ馬に希望を与えることができた。何とかなる、GIだって勝てると……。社台クリニックのスタッフが心から喜んでくれたのが印象に残っている」と述べている。当の獣医師は「あれだけ走ってくれるのは10頭手術したうちの1頭ぐらいだと思う」との見解を示しており、吉田照哉はこの勝利を「奇跡と言っていい」と評した。 11月19日、マイルチャンピオンシップへ出走。当日は6頭のGI優勝馬が顔を揃えたなか、ダイワメジャーは単勝2.3倍の1番人気に推された。レースは前半600メートルが46秒0という速い流れを2番手で追走しながら、最終コーナーでは猛然とした勢いで先頭に立ち、ゴール前ではダンスインザムード(3番人気)に並ばれながらも前に出ることを許さず、同馬をクビ差退けて優勝。GI2連勝を遂げた。天皇賞(秋)とマイルチャンピオンシップの連勝は、1987年にこれを達成したニッポーテイオー以来19年ぶり2頭目の例となった。安藤は「本当に強い競馬だった。今日は特に行きっぷりが良かったし、ペースが速いのは分かっていたけど、無理に引っ張ることはしなかった。最後も後ろからダンスインザムードが来たとき、もう一度伸びてくれた。負ける気はしなかった。着差以上に強かったと思う」と称えた。 11月30日には年末のグランプリ競走・有馬記念への出走を発表。それまで1600~2000メートルを中心に出走してきたダイワメジャーに、同競走の2500メートルは長すぎるとの見方もあったが、上原はそれまでの番組選択は喘鳴症の影響を最大限に考慮したものであり、血統背景や日本ダービー・宝塚記念での走りからみて距離に問題はないとした。毎年12月に香港で行われる香港国際競走が隆盛をみてから、日本国内でも1600~2000メートル路線の実績馬は有馬記念を避けそちらへ回る事例が増えているなかで、マイルチャンピオンシップ優勝馬が同年の有馬記念へ出走するのは10年ぶりのことであった。 有馬記念へは、ジャパンカップを制しGI6勝目を挙げていたディープインパクトに次ぐ、ファン投票2位で出走。当日の人気ではディープインパクトに加え、当年の皐月賞、日本ダービー、菊花賞、ジャパンカップをそれぞれ2、3、2、2着としていたドリームパスポートに次ぐ3番人気となった。レースではアドマイヤメインの大逃げを2番手で追走、最終コーナーでこれをとらえ、先頭で最後の直線に入ったが、ディープインパクトにかわされ、さらにポップロックにも差されての3着となった。 翌年1月に発表された中央競馬の年度表彰・JRA賞において、ダイワメジャーは最優秀短距離馬に選出された。また、仮定の斤量数値で各馬の序列化を図るJPNサラブレッドランキングでは、Mコラム(1400~1899メートル)およびIコラム(1900 - 2199メートル)でそれぞれ1位(全距離区分の総合では3位タイ)となる121ポンドの評価を得た。
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5歳(1991年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:50 UTC 版)
「カミノクレッセ」の記事における「5歳(1991年)」の解説
2月の橿原ステークス(1500万下)に勝ってオープン馬になったクレッセは内山正博とのコンビで中日新聞杯で重賞初挑戦したが、4着に終わった。その後、クレッセは一度、1500万下に降級するものの、6月のエルムステークスで南井克巳とのコンビで勝利を収め、オープン馬に復帰した。このエルムステークスを境に南井がクレッセの主戦騎手を務めることになる。 2度目の重賞挑戦となった札幌記念では、11番人気ながら1着のメジロパーマーと0.2秒差の3着となり、芝でも好勝負できることを示した。その後、タイムス杯、シーサイドステークスとダートのオープン戦を2連勝したクレッセは中央競馬と地方競馬の交流競走・第3回ブリーダーズゴールドカップに出走。1番人気に推されたクレッセは、地方勢の筆頭と目されていたスイフトセイダイ(岩手)に大差(10馬身以上)を付けて圧勝、重賞初勝利を挙げた。 念願の重賞制覇を遂げたクレッセは天皇賞(秋)にぶっつけで出走。これがクレッセにとって、初めてGI競走の出走であり、この天皇賞(秋)を境に芝のレースを使っていくことになる。 レースでは4位で入線したが、1位入線のメジロマックイーンが第2コーナーで他馬の進路を妨害したため18着に降着となり、繰り上がりの3着となった。しかし、クレッセ自身もこの進路妨害の影響を受けて脚部に外傷を負ったことから、笹針治療もかねて休養に入り、ジャパンカップと有馬記念は回避を余儀なくされた。この天皇賞後、クレッセは脚部に慢性的な不安を抱えるようになり、脚に何本も注射を打ってからレースに臨むことが常となっていく。クレッセの調教助手を務めた河野正義は後に「まあ、勝負事に『もしも』というのは言ってはいけないことなんだが、もしもメジロマックイーンの斜行による不利さえなければ、カミノクレッセはメジロマックイーンと互角に戦えただろうし、GIの1つや2つは取れたと思うよ」と述べている。
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5歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:17 UTC 版)
「ステキシンスケクン」の記事における「5歳(2008年)」の解説
この年初戦の淀短距離ステークスで3着、続くシルクロードステークスも3着となった。そして次の東風ステークスを逃げ切って約1年半ぶりの勝利を挙げた。しかし続く谷川岳ステークスでは8着、テレビ愛知オープンでは6着に敗れた。ポートアイランドステークスは1番人気に支持されるも10着と大敗した。続くスワンステークスでも11着に敗れた。続く阪神カップでは14着と大敗した。
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5歳(1957年)
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翌1957年、春まで休養に入ったキタノオーに対し、ハクチカラは年頭から出走を続けた。緒戦から3、2、2着と勝ち切れなかったが、3月24日の目黒記念(春)で、休養から復帰してきたキタノオーを5着に退けて重賞3勝目を挙げる。この後、天皇賞(春)に備えて西下したキタノオーに対し、ハクチカラは関東に留まり、6月末までに東京盃、日経賞を含む4勝を加えた。 休養を経ての秋は毎日王冠を制した後、65kgの負担重量で臨んだオールカマーで目黒記念(春)以来の対戦となったキタノオーに敗れ2着となった。この競走では「アラブの怪物」と呼ばれたアングロアラブのセイユウが先頭でレースを引っ張っていたが、同馬の実力を知る蛯名武五郎(ヘキラク騎乗)が、動こうとしない保田に対し後方から「ダービー馬がアラブに負けてもいいのか!」と発破を掛け、これに応じて早めにセイユウを捉えに動いた結果、最後にキタノオーに差されたというエピソードが残っている。 2週間後に目黒記念(秋)で再びキタノオーと対戦し、半馬身差で前走の雪辱を果たした。この後、キタノオーは脚を痛めて休養に入り、これが両馬の最後の対戦となった。先着回数はハクチカラ4回に対しキタノオー6回であった。なお、キタノオーは先祖の血統が不詳のサラブレッド系種あったことから種牡馬入りが遅れ、翌年10月に急性肺炎にかかり現役のまま死亡している。 その後のハクチカラは天皇賞(秋)に優勝(このときの単勝支持率85.9%は現在でもJRA史上最高)、年末には中山グランプリから改称された有馬記念にファン投票1位の身で出走。2、3番手から抜け出して、2着オンワードゼアに3馬身差をつけて制した。このとき単勝式馬券は100円の元返しであった(単勝支持率76.1%)。当年、年度代表馬に選出された。
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5歳(1997年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 23:39 UTC 版)
「ロイヤルタッチ」の記事における「5歳(1997年)」の解説
5歳初戦の京都記念では約1年ぶりの勝利を期待されて、久々に1番人気に推されたが、ユウトウセイに敗れた。続く産経大阪杯でもマーベラスサンデー、ユウトウセイの3着に敗れ、天皇賞(春)ではレース中に跛行を発症して競走中止となり、勝利から見放されてしまった。 故障明けで6か月ぶりの実戦となった天皇賞(秋)では、岡部がバブルガムフェローに騎乗するため、蛯名正義を鞍上に迎えたが、同厩のエアグルーヴと同期のバブルガムフェローの壮絶な叩き合いに加われず、4着に敗れた。そして、次走のジャパンカップでは11着と初めて二桁着順を喫した。 その後、脚部不安で1年間休養ののち引退した。
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5歳(1973年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:51 UTC 版)
「ランドプリンス」の記事における「5歳(1973年)」の解説
ロングエースが引退し、イシノヒカルが戦線離脱したため、本馬のライバルで残ったのはタイテエムだけとなった。タイテエムは古馬になってからさらに力をつけたが、ランドプリンスは4歳時のような走りを見せることができず、マイラーズカップと天皇賞でいずれもタイテエムに敗れ、5着、13着に終わった。天皇賞の後で故障発症が判明し、そのまま引退することとなった。
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5歳(1979年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 14:15 UTC 版)
「シービークロス」の記事における「5歳(1979年)」の解説
1979年、年頭の金杯(東)から始動。後方から最後の直線でメジロファントムを差し切り、15戦目での重賞初勝利を挙げた。ダービー当時に446kgだった馬体重は470kgまで増えており、吉永は「使いながら馬体重が増えているし、今日は馬の状態がともかく素晴らしかった。今年はなにか一暴れできそうな感じです」と感想を語った。 その後、目黒記念(春)3着、中山記念7着と続いたのち、天皇賞(春)に出走。道中は常の通り最後方を進んだが、周回2周目の第3コーナーから位置を上げ、最終コーナーでは中位で最後の直線に入った。吉永は馬群がばらけると見越して追い込みをかけたが、当てが外れてシービークロスの前には壁ができる形となった。やむなく吉永が外に持ち出すとシービークロスは鋭く伸びたが、勝ったカシュウチカラから1馬身半差の3着と敗れた。吉永は本競走について後年「勝てたレースだった」と振り返り、「ぼくがもう少し早く外に出せていたら……と、悔やまれますね」と述べている。 春のグランプリ、宝塚記念(第20回宝塚記念)では9着となり、夏は休養に充てた。秋は天皇賞(秋)を目標に毎日王冠から始動。道中最後方から最終コーナーで馬場内側から位置を上げると、最後の直線では半ばから外に持ち出して先行勢を交わし、カネミノブに2馬身差をつけて勝利した。走破タイム1分59秒9は同厩・同馬主の先輩馬シービークインの記録を0秒3更新し、東京競馬場の2000メートルで初めて2分を切るコースレコードとなった。吉永は「いつもは展開に左右される馬だが、今日は4コーナーの時点で勝てると思った。それほど馬の気迫が違っていた」と感想を述べた。 続いて出走した目黒記念(秋)では1番人気に支持される。レースでは最後方追走のはるか前方で、逃げ馬のヒダカホーリュウが大逃げを打ち、一時先頭から100メートル以上離された。しかし最後の直線で最内をついて追い込み、ブルーマックスに1馬身半差をつけ重賞2連勝を遂げた。2分32秒2は2500メートルの日本レコードタイムであり、2戦連続のレコード勝利ともなった。この頃からシービークロスには「白い稲妻」の異名が冠されるようになった。吉永は「このまま無事なら天皇賞も楽しみ」と期待を口にしたが、同競走への直前の調教で右前脚に繋靱帯炎を発症し、回避を余儀なくされた。厩務員の青木によればシービークロスは入厩当初から右前脚に負担が掛かりやすく、瞬発力を極限に発揮したことが相当の負担を掛けたのだろうと述べている。なお、天皇賞は前2走で破ったスリージャイアンツが優勝した。
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5歳(2011年)
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「フェイムアンドグローリー」の記事における「5歳(2011年)」の解説
4月17日のヴィンテージクロップステークスと5月29日のサヴァルベグステークスを共に勝利。6月16日のゴールドカップを快勝、G1競走5勝目を挙げた。その後8月20日のセントレジャートライアルステークスは2着、9月10日のアイリッシュセントレジャーは4着に終わる。10月15日のブリティッシュ・チャンピオンズ・ロングディスタンスカップはレース中盤で先頭に立つと後続の追撃をしのいで勝利した。この年、カルティエ賞の最優秀ステイヤーに選出される。
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5歳(1983年)
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「ハギノカムイオー」の記事における「5歳(1983年)」の解説
菊花賞の後、カムイオーは福島県いわき市の競走馬総合研究所で温泉療養に入った。翌1983年5月にスワンステークスで復帰、初の単枠指定を受けて1番人気に支持されると、スタートからの逃げ切りで勝利、母イットーとの親子制覇となった。続いて出走した春のグランプリ宝塚記念では、単騎逃げから直線でカズシゲを5馬身突き離し、芝2200mを2分12秒1という日本レコードタイムで優勝した。また、本競走の賞金加算分で収得賞金は1億9104万円となり、賞金額が自身の購買額を上回った。続く高松宮杯も逃げ切り、スワンステークスに続く親子制覇、さらに前々年度に優勝したハギノトップレディとの姉弟制覇も果たした。 休養を経て、秋はジャパンカップと有馬記念を目標に、11月に東京競馬場のオープン戦で復帰した。しかしこの緒戦で8頭立て7着に終わると、続くジャパンカップでは道中で後続を30馬身以上離す暴走を見せ、第3コーナーで失速、勝ったスタネーラから7秒以上離された最下位と惨敗した。それでも年末のグランプリ有馬記念にはファン投票第3位選出で出走したが、やはり逃げ潰れての最下位に終わった。 競走後、伊藤はカムイオーの引退を発表。引退の言は「これ以上ファンの夢を壊したくない」というものであった。翌年1月8日、京都競馬場で引退式が行われ、翌9日に種牡馬入りのため北海道に戻った。
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5歳(1977年)
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「グリーングラス」の記事における「5歳(1977年)」の解説
1977年は1月23日のアメリカジョッキークラブカップから始動し、前年秋の天皇賞馬・アイフルやニッポーキングに次ぐ3番人気に推された。レースではそれらを向こうに回し、3コーナー大捲りで直線粘り込むという強い競馬で2着のヤマブキオーに2馬身1/2の差を付け、2分26秒3のレコードタイムで完勝。菊花賞がフロックでないことを証明し、後に中野は「グリーングラスが勝ったレースでは一番強かった」と評している。4着のハーバーヤングに騎乗していた岡部も「向こう正面の坂のあたりから行ってもっちゃうんだから。(…)馬力が違うっていう感じだった。」と語っている。5着は菊花賞以来2度目の対戦で、グリーングラスと同じく始動戦のクライムカイザーであった。鞍上はデビュー以来手綱を取っていた加賀武見から、初騎乗の柴田政人に乗り替わっていた。このレース以降、グリーングラスは両前の球節など、大形馬の宿命である慢性的な脚部不安に苦しめられる。それほど体質も強くなかったため、6歳以降の出走回数は4歳時の10戦を下回る9戦だけに止まった。 次走の目黒記念(春)では最重量の60kgを背負って1番人気に推されたが、当時オープンクラスに昇格したばかりで7kg軽い53kgのカシュウチカラに2馬身差の2着となった。前年の菊花賞から同じローテーションのクライムカイザーは4着で、柴田はこの2戦で降板。この辺りから右橈骨に慢性的な痛みを抱えるようになり、第75回天皇賞は2ヶ月前より栗東・坂口正大厩舎に滞在して調整したが、中間に歯替わりと虫歯で順調さを欠き、レースでも菊花賞同様インコースを突くもテンポイントの雪辱を許す4着に敗れる。トウショウボーイは関西に移動はしたものの、直後に右肩に不安が出たため不出走となり、続く第18回宝塚記念がTTG二度目の顔合わせとなった。6頭立てながらアイフル・クライムカイザー・ホクトボーイと実力馬が揃い、TTGが上位人気を分け合った。レースはトウショウボーイが勝利し、2着にテンポイント、グリーングラスは3着に終わる。5歳を迎え充実期を迎えつつあった両馬にはかなわず、橈骨の状態が最悪な中で挑んだグリーングラスはトウショウボーイを追走するだけで精一杯であった。 この連敗で安田はグリーングラスから降ろされカシュウチカラに騎乗し、嶋田功に乗り替わり挑んだ7月3日の日本経済賞を2分33秒8のレコードタイムで勝利。ムキになった安田はグリーングラスの弱点を知っているため、カシュウチカラで何がなんでもグリーングラスの内から潜ろうとしたが、1コーナーを回るところですぐに落馬。安田は「やっぱり馬のことも考えて乗らなきゃ、憎しみで競馬乗るとこんな破目になるな」と気がついて反省した。その後に夏負けしたため、秋は前哨戦を叩かずにぶっつけで11月27日の第76回天皇賞に出走。テンポイントは当時の天皇賞勝ち抜けルールで出走できなかったため、トウショウボーイとの二強対決となった。脚部不安と熱発もあり、休養明けと順調さに欠いたものの、トウショウボーイに次ぐ2番人気となる。レースでは向こう正面よりトウショウボーイと競り合う形で暴走して末脚を無くし、両者共倒れで後方に待機していたホクトボーイの5着に敗れるが、競り合ったトウショウボーイ(7着)には先着した。グリーングラスは悍性が強くステイヤーとしては落ち着きに欠き、レース中に騎手との折り合いを欠く場面もしばしば見られたため、中野と安田が天皇賞の敗因の一つに挙げている 。 続く12月18日の第22回有馬記念はTTG三度目、そして最後の顔合わせとなる。レースはマルゼンスキーも出走を表明し、ホクトボーイ・カシュウチカラを始めとする有力馬が回避。翌年正月の東西金杯などに回る陣営が相次ぎ、結局マルゼンスキーは脚部不安により直前に引退するが、8頭立てと少頭数によるレースとなった。最終的にはテンポイントとトウショウボーイの歴史的なマッチレースとなり、結果は1着テンポイント、2着トウショウボーイであった。グリーングラスは天皇賞後の回復も早く、カイ喰いも文句なしであった。スタートで隣の枠のスピリットスワプスに寄られる不利があったが、前2頭を見る位置で巧く折り合い絶好の展開となる。直線では幾分内にササリ気味で追い辛くなり、トウショウボーイに半馬身まで迫る3着がやっとであったが、4着の菊花賞馬・プレストウコウは6馬身もの差をつけられており、TTに肉薄できたのは唯一この馬だけで、負けはしたものの三強と呼ばれるに相応しい実力を見せた。このレースを有馬記念ベストレースはもとより、日本競馬史上最高のレースに推すファンは今も少なくない。特番収録用に実況した杉本は実況席ではなく、スタンドにロープで区切りを作った中から「中山の直線を!中山の直線を流星が走りました!テンポイントです!」という競馬史上に残る名文句を残しているが、後に著書の中で、最後の直線で競り合うテンポイントとトウショウボーイの後方にグリーングラスが迫ってきたのを見て「実況しながら内心『またこいつ来たんか』と思った」と当時の心境を述懐している。先述したように杉本による実況はあくまで特番収録用としての録音であるので、一般には盛山毅(当時・フジテレビアナウンサー)による「テンポイント力で、トウショウボーイを、そしてグリーングラスをねじ伏せました!」という実況も広く知られている。トウショウボーイに騎乗した武はレース後まで3着にグリーングラスが入ったことに気付かず、記者からこのことを聞かされると「3着?グリーングラス?来てたの。知らなかったよ」と答えた。このレースについて後に安田は、内に入れていればグリーングラスは勝っていた旨を述べており、騎乗していた嶋田も最後の直線、内に切れ込んでしまい追い切れなかったと発言している。ただし当時、この時期の中山は内が極端に荒れており、内ラチ沿いを走らせる騎手は皆無であった。その後、トウショウボーイが引退したため、TTGが2度と揃うことはなかった。中野は後にインタビューで、トウショウボーイとテンポイントをどう思っていたか尋ねられると、「全く意識していなかった」と言い、「というより、トウショウボーイもテンポイントも、これっぽっちもライバルとは思っていなかった。こっちはいつも右前脚のことで精一杯だったから」と語っている。 この年の古馬のフリーハンデではテンポイント・トウショウボーイに及ばなかったが、ホクトボーイと共に62kgで3位の評価を得た。これは年度によっては首位になるような値であり、過去5年間で古馬フリーハンデ1位が62kgの年は3回あり、1975年フジノパーシア、1973年タイテエム、1972年ヤマニンウエーブが古馬部門の首位になっていた。
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5歳(2005年)
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「ハードクリスタル」の記事における「5歳(2005年)」の解説
5歳初戦、前走から700mの距離短縮となった根岸ステークスでメイショウボーラーに7馬身離されたものの2着と好走する。その後フェブラリーステークス9着、マーチステークス10着と2戦続けて凡退。オープンのブリリアントステークス、大沼ステークスでともに4着に入るとマリーンステークスを2馬身半差をつける快勝で7勝目を飾る。続くエルムステークスは5着、白山大賞典は先に抜け出したグラッブユアハートに1馬身差の2着に敗れた。続く彩の国浦和記念はスタートからハナに立つ積極策に出たがヴァーミリアンに交わされ2戦連続2着となる。次走は名古屋グランプリを予定していたが大雪のため開催が中止となった。
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5歳(2011年)
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「レインボーヴュー」の記事における「5歳(2011年)」の解説
8月16日のオプショナルクレーミングに出走したが6着に敗れた。 そのレースを最後に引退し、繁殖牝馬入りする。
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5歳(1993年)
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「シンコウラブリイ」の記事における「5歳(1993年)」の解説
長期休養となり、4月24日の京王杯スプリングカップ(GII)で始動。前年の安田記念優勝馬ヤマニンゼファーを抑えて1番人気に推された。最後の直線ではヤマニンゼファーとの競り合いに屈し、1馬身半遅れた2着に敗れた。続く安田記念(GI)は3番人気の支持を集め、2番人気ヤマニンゼファー、14番人気イクノディクタスにも先着されて3着に敗れた。それから休養前の北海道輸送を兼ね、札幌日経オープン(OP)に出走。単勝支持率73パーセントの支持を集め、単勝オッズ1.0倍という「元返し」状態の1番人気に推された。好位から抜け出し、迫るゴールデンアイをクビ差ばかり退けて勝利、7カ月ぶりの勝利を果たした。 秋となり、毎日王冠(GII) に1番人気で出走。マイスタージンガーが逃げる中、3番手に位置、残り300メートルで先頭となると、追い込んだ8番人気セキテイリュウオーを1馬身4分の3馬身離し、レコードタイムで勝利。続いて、外国産馬のために出走することのできない天皇賞(秋)を尻目にスワンステークスに出走、初の重馬場となったが1番人気に推された。5番手から直線で先頭となり、迫るステイジヒーローをクビ差退けて勝利。この直後にマイルチャンピオンシップを引退レースとなることが決定した。 それから11月21日、前年2着に敗れたマイルチャンピオンシップに参戦。当日の朝から小雨が降ったが、第7競走の京都3歳ステークス(OP)は良馬場で行われナリタブライアンがレコードタイムを樹立していた。ところが、発走1時間前には激しい雨に変わり、視界が煙で遮られるほどになった。馬場状態は、稍重を経ずに悪化、不良での発走となった。単勝オッズ2.3倍の1番人気に推され、続く3.6倍の2番人気にニシノフラワーとなり牝馬2頭が上位人気を占めた。イイデザオウが逃げる中、シンコウラブリイは馬群の外側の4番手の好位。ニシノフラワーが後方で不良馬場に苦戦する中、直線コースで抜け出すと、逃げ粘るイイデザオウを1馬身4分の1差をつけて先頭で入線した。GI初制覇となり、藤沢にとっても初のGIタイトル獲得となった。 シンコウラブリイにとって手に届きそうで届かなかったGIの勲章。これで引退の花道が飾れました — 岡部幸雄 岡部は、レース後の観客席のファンにシンコウラブリイの引退を改めて発表。年末には、JRA賞最優秀5歳以上牝馬に選出された。
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5歳(1986年)
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「プレシジョニスト」の記事における「5歳(1986年)」の解説
5歳時は1月のサンパスカルハンデキャップ(英語版)(G2・D8.5F)から始動。相手には3歳時に2回負けているタイツがいたが、すでにプレシジョニストとは大きな差が開いており、1.3倍の圧倒的な支持を受けて、2着ベアミニマムに4 1/2馬身差を付けての楽勝。 次走は初参戦となるサンタアニタハンデキャップ(G1・D10F)。プレシジョニストが126ポンドのトップハンデで2.2倍の1番人気。実に7回目の対戦となるグレイントンが122ポンドで同馬主のダハールとのカップリングで4倍の2番人気。レースは最低人気のヘラトが逃げ、プレシジョニストは2番手追走。しかし直線でグレイントンに抜かれ6着に完敗。次のサンバーナーディノハンデでグレイントンと8度目の対戦となったが、ここでは首差でグレイントンに勝利。グレイントンはこのレースを最後に引退、プレシジョニストとの対戦成績は4勝4敗の5分で終わった。 次走は前年に敗れていたカリフォルニアンステークス。1.5倍の1番人気に応えて5番人気のスーパーダイアモンドに半馬身差で勝利。しかし次のハリウッド金杯ではスーパーダイアモンドに逆襲されて3着に敗退。 ここで東海岸のモンマスパーク競馬場に遠征してフィリップH・アイズリンハンデキャップ(G1・D9F)に出走。ここまでG1競走7勝のレディーズシークレットが1番人気、プレシジョニストは125ポンドのトップハンデで2.7倍の2番人気。3番人気にこの年のチャールズHストラブS2着馬のルーアートがいた。レースは逃げるレディーズシークレットに対して2番手で追走するが、直線でルーアートに差し切られて2 1/4身差の2着に敗北。続けて2週間後のサラトガ競馬場のウッドワードステークス(G1・D9F)に出走。プレシジョニストは126ポンドのトップハンデで2.2倍の1番人気。レディーズシークレットとルーアートのカップリングが2番人気。レースは逃げるレディーズシークレットを2番手で追いかけ、直線で一気に突き放してレディーズシークレットに4 3/4身を付けて圧勝、G1競走6勝目を挙げた。 ウッドワードステークスの後に主戦のクリス・マッキャロンが落馬により負傷。次走のマールボロカップハンデキャップ(G1・D10F)はジョン・ヴェラスケスが騎乗して2.2倍の1番人気で挑むものの最後方から追い込んできた2番人気ターコマンに1 1/2身差を付けられての2着に敗北。 その後は目標をBCクラシックに定め、この年にブリーダーズカップが行われるサンタアニタ競馬場のヤンキーヴァローハンデ(LS・D9F)を前哨戦に選び、前走でターコマンに騎乗していたゲイリー・スティーブンスを鞍上に4 1/2身差つけての楽勝。そして本番のBCクラシックを迎える。 1番人気はパット・デイを乗せたターコマン、プレシジョニストは再びスティーブンスを乗せて2.7倍で僅差の2番人気。大きく離れた3番人気に鉄の女トリプティク、前年のサンタアニタダービー勝ち馬でプレシジョニストが勝ったこの年のカリフォルニアンステークス3着馬スカイウォーカー (競走馬)(英語版)が4番人気だった。レースは9番人気ヘラトが逃げ、プレシジョニストとスカイウォーカーが2番手で追走。速い仕掛けからスカイウォーカーが先頭に立ち、プレシジョニストは追いかけるが差を詰められず。ターコマンが直線で追い込んでくるが時すでに遅し。プレシジョニストは2 1/2身差を付けられての3着に敗退した。
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5歳(1981年)
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「ジュウジアロー」の記事における「5歳(1981年)」の解説
牝馬東タイ杯後はそこそこの成績を収めていた。5月は新潟に遠征して新潟大賞典に勝利し安田記念に挑戦する。ここまで哩戦は5戦したが1分37秒7という時計不足が心配された。レースはミヤコガニエ、サクラシンゲキが前半競り合いハイペースとなり後方組が有利な展開となり、直線で中で割り逃げ粘るサクラシンゲキを捉えるも外からのタケデンに半馬身及ばず2着。安田富騎手はレース後、「4角で馬場のボコボコしたところを通り、モタついたのが痛かった。直線ではよく伸び2着なら上々でしょう」と語った。 次走七夕賞後、夏場は美浦で待機。秋は京王杯AHから、年度代表馬のホウヨウボーイも出走。泥んこ馬場の中、ホウヨウボーイとの直線叩き合いは制したがハセシノブを捉えきれず2着。 そしてジュウジアローは、キャリア最大の勝利となる毎日王冠に向かう。10月4日東京競馬場晴れ良馬場。このレースは第1回ジャパンカップに向けて競馬界が盛り上がりを見せ、東西の有力馬がこぞって出走、豪華な出走馬となった。中でもハギノトップレディが特に注目されていた。 競馬ブックの松本憲二は観戦記に「パンとした良馬場、別定の56kg、2000mの距離とあれば、正直、ハギノトップレディの一人旅は明白で、死角を探すことすら難しいと思ってた」と語っている。 レースのほうは、ハギノトップレディの華麗な逃げで始まった。スタートからの1000mを57秒4(57秒2)、1200mを1分9秒0(1分8秒4)、1600mを1分33秒8(1分33秒5)で通過。(()内は当時の日本レコード)。 「この馬場ではあのくらいのペースにはなる。速すぎたとは思わない。」とは伊藤修司調教師が娘婿である伊藤清章騎手をかばおうとも、人の目には暴走としか映るまい。直線の坂でハギノトップレディは力尽き馬群に飲み込まれた。 この乱ペースには勝者には幸いした。「向こう正面のペースは速かった。あれに惑わされたら、この馬の身上であるしまいの切れが使えない。」「あのペースに逃げ切られたら、強いんだと諦めるよりしょうがない」安田富騎手はそう思いながら中団でじっくり機をうかがう。半マイル過ぎから仕掛けられたジュウジアロー。ハミをがっちり受けて一気に末脚を伸ばした。「思っていた通り動いてくれた」坂を駆け上がりながら、安田富騎手は勝利を確信したという。またタイムはシービークロスの持つレコード1分59秒9を、0秒5破る1分59秒4のコースレコードを記録した。 レース後、加藤師は「まさかこのメンバーで勝てるとはね。それにしても逃げた馬(ハギノトップレディ)は、速かったが、バテるのも早かったね。少しでも距離が長い方がいいと思って牝馬東タイ杯を回避して相手かまわず毎日王冠に使ったが、これで今後のローテーションも大幅に変更だ」と語り当初予定の目黒記念から勇躍、天皇賞・秋に挑戦することになった。そして天皇賞・秋(3200m)→JC→有馬記念と過酷なローテーションを踏むことになる。11月10日ジャパンカップの選考会に於いて日本代表馬8頭に選出された。
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5歳(1974年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 16:58 UTC 版)
1974年、5歳始動戦は1月20日のアメリカジョッキークラブカップであった。小島太に乗り替わり、菊花賞時より20キログラム増加という自身最高体重で臨んだ。直線に入るまで最後方で待機し、ハイセイコーなど諸々かわして優勝。続く中山記念では、鞍上が嶋田に戻って参戦したが小回りコースの中山競馬場と不良馬場に苦戦、ハイセイコーが大差勝ちを果たす一方で2.2秒離された3着に敗退した。 4月29日の天皇賞(春)に参戦予定であったが、厩務員ストライキが発生したため1週間延期し、5月5日の開催となった。2番人気での出走した。サチモシローが逃げ、ハイセイコー、ストロングエイトがそれを追いかける位置におり、タケホープは中団に位置した。最終コーナーにてハイセイコーとストロングエイトが先頭となり、タケホープは5番手から追い上げ態勢となった。直線ではまずハイセイコーが失速し、ストロングエイトが単独先頭となった。それからタケホープが外から追い上げ、残り50メートルでストロングエイトに並び、クビ差差し切り先頭で入線した。天皇賞(春)優勝を果たし、5歳春にして天皇賞勝ち抜きとなった。馬場から退場しようとするタケホープの脇腹には拍車の跡ができており、血が浮き出るほどであった。稲葉は1954年のオパールオーキット、1964年のヤマトキョウダイに続く天皇賞3勝目となり、10年ごとに3勝を達成した。嶋田は「直線半ばで3着かな、と思ったが、負けられないと思い、必死で馬を促したら伸びてくれた。この馬の精神力の強さには頭が下がります。」と振り返っている。 疲れが取れないために、宝塚記念参戦を断念し栗東トレーニングセンターで笹針治療を施されたのち、福島県いわき市の馬用の温泉施設がある競走馬総合研究所常磐支所で夏を過ごした。秋は、オープン競走で復帰し5着敗退。続く有馬記念では、ハイセイコーとともに引退レースとなり、タケホープが1番人気に推された。ハイセイコーと9回目の対戦となったがタニノチカラの逃げ切りに遭い、5馬身遅れた2着にハイセイコー、それにクビ差遅れた3着がタケホープであった。
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5歳(2009年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 01:03 UTC 版)
「スクリーンヒーロー」の記事における「5歳(2009年)」の解説
1月14日、JRAより2008年度の「ワールド・サラブレッド・ランキング」においてスクリーンヒーローが122ポンドで23位に、同時に「ジャパン・サラブレッド・ランキング」では全部門において1位であることが発表された。 2009年初戦の阪神大賞典は3番人気で4着。5月の天皇賞(春)はアサクサキングスに次ぐ2番人気で出走するも、勝ち馬マイネルキッツから2秒7離された14着と大敗した。鞍上の横山典弘は敗因について「前回、今回と関西への輸送が続いたし、前走は馬場も悪かったから。疲れがあったのかもしれない」と話した。その後、短期休養をはさんだ6月の宝塚記念は5着に終わる。 4か月の休養をはさみ、秋は休み明けで天皇賞(秋)に出走した。鞍上にはクリストフ・ルメールを予定していたが、ルメールの落馬骨折による来日延期のため、2007年以来となる北村宏司が騎乗した。7番人気で出走したレースは内枠2番から先行、外からカンパニーに交わされたものの、内から迫るウオッカを抑えて2着に入った。史上初の連覇を狙ったジャパンカップは前年と同じくデムーロとコンビを組む。4番人気に支持されたスクリーンヒーローだったが、他馬に2回接触して置かれてしまい、勝ったウオッカから2.1秒差の13着に敗れた。 ジャパンカップ敗戦後、暮れの有馬記念では最終的に6位のファン投票を集めることになるが、これを回避して山元トレーニングセンターへ放牧に出されることが発表された。しかし発表直後の12月3日、左前脚に腫れが見られ、検査を行ったところ左前浅屈腱炎が判明。9か月以上の休養を要する見込みとなり、オーナーの吉田照哉ら関係者による協議の結果、現役引退し種牡馬入りすることが決まった。12月9日付けで競走馬登録を抹消。翌10日に北海道新ひだか町のレックススタッドで種牡馬入りした。
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5歳(1977年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 00:25 UTC 版)
「トウショウボーイ」の記事における「5歳(1977年)」の解説
翌1977年は、前年秋の連戦疲労が著しく、さらに両前脚の深管骨瘤も発症して休養に入る。快復後、天皇賞(春)出走のため関西に移動したが、直後に右肩に不安が出て回避を余儀なくされた。一時は7月24日に札幌競馬場で行われる短距離ステークスに出走を予定し、このレースには前年の朝日杯3歳ステークスを優勝した無敗馬・マルゼンスキーも出走を予定していたがトウショウボーイが右膝の深菅を痛めたことで回避し、6月に入り春のグランプリ・宝塚記念で復帰することとなった。 前年の有馬記念以来5か月のブランクがあったため調教の動きが思わしくなく、厩務員の長沼が「気合いが全然足りない」とコメントしていたことから人気を落とし、当日は天皇賞(春)を制したテンポイントに次ぐ2番人気の評価であった。しかしスローペースで流れるレースを先頭で引っ張ると、そのままゴールまで逃げ切って勝利を収めた。トウショウボーイがラスト1000メートルで記録した走破タイム57秒6は、当時の芝1000メートルの日本レコードよりも早かった。レース後、武は「出走頭数が少なくハイレベルの馬が2、3頭に絞られたレースでは先に行った方が有利」という鉄則に従った騎乗をしたとコメントし、一方でテンポイント鞍上の鹿戸は「相手をトウショウボーイだけに絞りきれなかった。ずっと後ろの馬がいつ来るか警戒していて、トウショウボーイに逃げきられてしまった」、「ぼくのミスです」とコメントした(競走詳細については第18回宝塚記念を参照)。 3週間後に出走した高松宮杯では、62kgの斤量に加え、不得手の不良馬場という悪条件が重なりながら、逃げ切りで勝利。単勝・複勝オッズは共に1.0倍であった。 夏を越したトウショウボーイは、見習い騎手の黛幸弘騎乗でオープン戦(芝1600m)に出走。2着に7馬身差、日本レコードとなる走破タイム1分33秒6を記録して圧勝した。 次走・天皇賞(秋)では騎手が武に戻り、グリーングラスを抑え1番人気に支持される。しかし先頭を行った道中で、終始グリーングラスに絡まれてオーバーペースとなり、直線では両馬とも失速。7着と初めての大敗を喫した。競走前の状態は良く、保田は「ダービー、菊花賞といい、大レースはどうも運がない」と語った。武は敗因について、距離ではなく馬場状態(稍重)であると強調したが、広見直樹によると武は晩年に「距離ではなく、不利な展開と渋った馬場。それが敗因だと思う」と話をしてくれたという。 競走後、年末の有馬記念を以ての引退・種牡馬入りが発表される。戦前は、秋に入り著しい充実を見せていたテンポイントに加え、当年のクラシックに出走できなかった8戦8勝の4歳馬マルゼンスキーが出走を予定しており、「三強対決」と注目を集めた。しかしマルゼンスキーは直前で脚部不安を生じて出走を回避し、最終的に出走馬は8頭となった。当日はテンポイントが1番人気の支持を集め、天皇賞の大敗で評価を落としたトウショウボーイは2番人気となった。スタートが切られると、荒れた馬場を見越した武トウショウボーイが先頭に立ったが、直後に鹿戸明とテンポイントがマークに付き、両馬がそのまま後続を引き離した。この状態のまま最終コーナーを周り、最後の直線では両馬の競り合いとなった。直線半ばまではトウショウボーイが先頭を保ったが、残り200m地点でテンポイントに交わされる。残り100mの地点でトウショウボーイは再度差し返しに行く勢いを見せたが、3/4馬身及ばず2着に終わった。しかしその競走内容はマッチレースとも喩えられ、日本競馬史上屈指の名勝負として高く評価された。なお、武邦彦はレース後まで3着にグリーングラスが入ったことに気付かず、記者からこのことを聞かされると「3着?グリーングラス?来てたの。知らなかったよ」と答えた。(競走詳細については第22回有馬記念を参照) 予定通りトウショウボーイはこの競走を最後に引退。翌1978年1月8日には東京競馬場で引退式が執り行われた。当日は武が同日他場の開催で来られず、4歳時の主戦騎手であった池上が騎乗した。皐月賞勝利時のゼッケン「5」を付けてラストランを披露したトウショウボーイは、ゴール前の200mでは実戦並の10秒5というタイムを記録。スタンドのファンからは引退を惜しむ声が絶えなかった。
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5歳(2004年)
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「オースミコスモ」の記事における「5歳(2004年)」の解説
中1週での出走となった京都金杯は6着、京都牝馬ステークス9着と敗れ、次走・小倉大賞典は本田優に乗り替わる。7番人気でのレースとなり、勝ったメイショウバトラーには5馬身離されるが2着に入ると、蛯名正義が騎乗となった中山牝馬ステークスを9番人気で出走、レースは馬群を割って伸びてきたハッピーパスを外から差し切り1着、重賞2勝目を挙げる。次走の第1回福島牝馬ステークスでも蛯名が手綱を取る。別定戦で他より2kg以上重い57kgでの出走となったが、4コーナーで前に並びかけ、直線半ばで先頭に立つとマイネヌーヴェルの強襲を1馬身1/4振り切り連勝、重賞3勝目を飾る。3か月ぶりのレースとなった北九州記念は4着、続くクイーンステークスは1番人気で7着に敗れる。その後は、府中牝馬ステークス6着、エリザベス女王杯6着、阪神牝馬ステークス10着と掲示板を逃す。
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5歳(2006年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:51 UTC 版)
5歳初戦、京都牝馬ステークスは6着、中山牝馬ステークスは11着と精彩を欠き、続く福島牝馬ステークスが5着と掲示板には載るもののヴィクトリアマイルは最下位の18着と大敗に終わった。マーメイドステークスでも12着と大敗したが前年優勝したクイーンステークスで3着に入ると、19戦ぶりの混合戦出走にして連闘で臨んだ札幌記念では9番人気の低評価を覆し勝ったアドマイヤムーンに1馬身差の2着と好走する。秋は府中牝馬ステークス9着、エリザベス女王杯8着と今一つな競馬が続き、開催時期が12月に変更となった愛知杯は4着に敗れる。
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5歳(2007年)
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「ワンダースピード」の記事における「5歳(2007年)」の解説
この年2戦目の4歳以上1000万下競走を制して4勝目を挙げ、昇級初戦の御堂筋ステークス(1600万下)で9着となった後、3月1日付で湯浅三郎厩舎の定年解散に伴い羽月友彦厩舎へ転厩した。転厩初戦の鳴門ステークス(1600万下)は9着だったが、3月に梅田ステークス(1600万下)を制してオープン馬となった。続く重賞初挑戦となった東海ステークスでは11番人気ながら2着、休養を挟んで出走した9月のシリウスステークスでは5番人気で3着に入るなどの好走を続け、10月にはアルデバランステークスを制してオープン競走初勝利を挙げた。次走は第8回ジャパンカップダートに出走登録を行い、登録時点では除外の対象だったものの回避馬がいたおかげで繰り上がりで出走に至り、レースでは11番人気で9着という結果に終わった。しかし続く12月のベテルギウスステークスは2番人気に支持され、当時の日本レコードで競走を制し、レース後は休養に入った。
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5歳(1998年)
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「スキップアウェイ」の記事における「5歳(1998年)」の解説
5歳を迎えた1998年は前年同様ドンハンデキャップから始動し、先行策から押し切って1着。前年は逸したガルフストリームパークハンデキャップ(英語版)とピムリコスペシャルをも制して、G1競走5連勝を記録する。マサチューセッツハンデキャップを連覇ののち西海岸地区に向かい、ハリウッドゴールドカップハンデキャップステークスを逃げ切りで勝利。フィリップ・H・アイズリンハンデキャップとウッドワードステークスも制して前年のジョッキークラブゴールドカップステークスからの連勝を9まで伸ばしたが、2年連続制していたジョッキークラブゴールドカップステークスで3着に終わって2年越しの10連勝はならず、ブリーダーズカップ・クラシックではシルバーチャームやスウェイン、オーサムアゲインらと相まみえた末に6着に終わり、残り約30万ドルにまで迫っていた、シガーの持つ当時のアメリカにおける生涯獲得賞金記録9,999,815ドルを上回ることはできずに引退。それでも5歳時は9戦してG1競走5勝を含む7勝、それも6つの異なる競馬場で挙げ、エクリプス賞年度代表馬と2年連続の最優秀古牡馬に選出された。
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5歳 (2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:31 UTC 版)
「イングランディーレ」の記事における「5歳 (2004年)」の解説
2004年は船橋競馬場で行われたダイオライト記念に出走し、不良馬場の中、2着に入る。次走の天皇賞(春)(GI)では他にも有力馬が多く10番人気に過ぎなかった。ゲートが開くと、鞍上の横山典弘は押して先頭に立ち、逃げを打つ。一時は20馬身を超えるリードを作った逃げであったが、ネオユニヴァースやゼンノロブロイ、リンカーンといった差し馬が揃っており、どの馬も牽制しあってイングランディーレに誰も鈴を付けに行かないままレースは進んでいった。さすがに直線では脚色が鈍ったものの、そのまま2着ゼンノロブロイに7馬身差をつけて逃げ切った。鞍上の横山は、同じ京都競馬場のGI菊花賞をセイウンスカイで逃げ切った実績があり、好騎乗が光る競走となった。レース後の勝利ジョッキーインタビューでは「セイウンスカイに乗っているようでした」と語っていた。当時地上波のテレビ実況を担当していた馬場鉄志アナウンサーが「イングランディーレの一人旅」と形容した快心のレースだった。
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5歳(1991年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:00 UTC 版)
「ダイタクヘリオス」の記事における「5歳(1991年)」の解説
2月3日の淀短距離ステークス(OP)で始動し4着。その後については、2月24日のマイラーズカップ(GII)と3月3日の中日新聞杯(GIII)の二択だったが、マイラーズカップで「本命視」(浅利大策)されていたホリノウイナーが出走を止めたことから、マイラーズカップを選択。4番人気に推される。3頭が先行争いをしてハイペース、ダイタクヘリオスは、それに加わらずに控えて4番手を進んだ。直線で前を行く3頭の脚が鈍る中、馬場の最も内から抜け出した。以降、差を広げる一方となって独走、後方に5馬身差をつけて入線。重賞2勝目、走破タイム1分41秒2は、1990年にリキサンナナが樹立したコースレコード1分41秒5を0.3秒上回った。騎乗した武は「今までこの馬のレースを見ていた印象は一瞬いい脚を使うがゴール前で止まってしまう馬(中略)それがなんと5馬身差の圧勝。自分の思っていた印象とはぜんぜん違っていましたね。そうとう〔ママ〕力をつけていると思いますよ。」と述懐している。 続いて、3月17日のダービー卿チャレンジトロフィー(GIII)では、単枠指定および1番人気となり、逃げて失速し4着。4月21日の京王杯スプリングカップ(GII)では、控えた4番手から抜け出せず6着。それから5月12日の安田記念(GI)は、単勝オッズ28.7倍の10番人気で出走。6枠13番からスタートし中団外を追走、ハイペース。直線では、外から先行馬をかわして抜け出したが、さらに外から追い込むダイイチルビーにゴール手前でかわされ、1馬身4分の1差の2着。6月23日のCBC賞(GII)は、単枠指定と2番人気で出走。スタートから先行するも、不良馬場で本来の走りができずに失速し、5着となった。 7月7日、2000メートルの高松宮杯(GII)に、加用正が騎乗して参戦。出走8頭のうち、安田記念を制したダイイチルビーが注目を集めて1.4倍、同条件の愛知杯を勝利したホワイトアローが6.3倍、中京1800メートルの金鯱賞2着から臨むトーワルビーが7.5倍という上位人気。対してダイタクヘリオスは11.7倍の5番人気であった。梅田は加用に、最終コーナーで先頭に立ち、差しのダイイチルビーを待たずに追い出す騎乗を指示した。1枠1番からスタートして先行。ハナをトーワルビーに譲り、2番手を追走する。一方ダイイチルビーは、その後ろの3番手、3頭はそれぞれ間を空けての追走だった。トーワルビーはかかってハイペースを作り、やがて第3コーナーで失速。代わってダイタクヘリオス先頭、ダイイチルビー2番手で最終コーナーを通過した。直線では作戦通り、すぐに仕掛けられてリードを作った。対するダイイチルビーは、外からの末脚で以て、そのビハインドを埋めにかかった。2頭の差がなくなり、全く並んだところが決勝線。写真判定により、ダイタクヘリオスのハナ差先着が認められた。重賞3勝目、安田記念と正反対のワンツーフィニッシュとなり「安田記念の雪辱を果たした」(『優駿』)とも称された。加用にとっては、1989年マルブツスピーリアで制したウインターステークス以来、1年半ぶりの重賞勝利だった。 秋は、10月6日の毎日王冠(GII)で始動、5番人気となる。スタートから単騎で逃げたが、2番手のプレクラスニーにゴール手前でかわされ、半馬身差の2着。10月26日のスワンステークス(GII)9着を挟み、11月17日のマイルチャンピオンシップ(GI)に出走する。ダイイチルビー1.8倍、スワンステークスを勝利したケイエスミラクル4.3倍、バンブーメモリー10.6倍、ダイタクヘリオスは11.8倍の4番人気であった。梅田は岸に対し、ハナで競馬をしないよう指示していた。 7枠12番からスタートして先行。積極的にハナを奪った2頭の後方で控えようとしたが、ダイタクヘリオスの推進力を感じ取った岸は、指示を破って第3コーナーで先頭に並びかけた。コーナーの下り坂でスピードに乗り、かわして単独先頭となった。スローペースを刻んだダイタクヘリオスは、最終コーナーをリードを広げながら通過、直線では独走状態。残り200メートル地点では5馬身のリードを作った。その後次第に足が鈍り、リードを縮められたが、2馬身半差をつけて入線。逃げ切ってGI初勝利となった。それから有馬記念(GI)に出走。逃げるツインターボ、プレクラスニーに次ぐ3番手追走から、5着となった。
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5歳(1996年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:18 UTC 版)
「マヤノトップガン」の記事における「5歳(1996年)」の解説
マヤノトップガンは阪神大賞典から始動。このレースには前年秋の不振からの復活を期すナリタブライアンも出走し、2頭の年度代表馬対決として競馬ファンの注目を集めた。レースは期待に違わずマヤノトップガンとナリタブライアンのマッチレースとなる。残り600メートルの標識付近から他馬を引き離して互いに譲らずにゴールまで並走、最後はアタマ差の2着という決着になった。2着のマヤノトップガンと3着ルイボスゴールドとの差は9馬身も離れていた。なお、後年田原は「あのレースは勝てた騎乗だった」と語っている。(レースに関する詳細は、第44回阪神大賞典を参照。) 次の天皇賞(春)では、単勝オッズがナリタブライアンが1.7倍、マヤノトップガンが2.8倍と2頭が抜けた人気になったが、3番人気(14.5倍)のサクラローレルが優勝し、折り合いを欠いたマヤノトップガンは5着に敗れた。敗因について、マヤノトップガンを管理していた調教師の坂口正大は、調教にミスがあったと語っている。(レースに関する詳細は、第113回天皇賞を参照。) 天皇賞後、陣営が次走に選んだのは宝塚記念であった。この年の宝塚記念は前年に発生した阪神・淡路大震災の復興支援競走として行われた。有力馬の回避が相次いだため、マヤノトップガンは圧倒的な1番人気となるが、鞍上の田原がムチを入れることもなく1着に入った。また、馬主の田所祐も大震災で大きな被害を受けており、地元の摩耶山から冠名をとったマヤノトップガンの勝利は被災者に勇気を与えた。 秋はオールカマーから始動。サクラローレルと人気を二分(両馬とも単勝オッズ1倍台)するも4着と完敗。天皇賞(秋)では先行し接戦のなか2着と踏ん張ったが、有馬記念ではサクラローレルの快勝の前に7着と惨敗した。マヤノトップガンが中山コースで2戦とも惨敗したことについて、坂口は当時の中山は力のいる馬場になっていて、トップガンには合わなかったと語っている。
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5歳(1964年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:48 UTC 版)
「ネイティヴダイヴァー」の記事における「5歳(1964年)」の解説
休む間もなく、去年と同じサンカルロスハンデにドナルド・ピアース(英語版)を鞍上に出走。アドミラルズヴォヤージ(ダンジグの母父)の3着。2週間後のサンパスカルハンデにケネス・チャーチ(英語版)を乗せてオールデンタイムスの6着、更に二週間後のサンアントニオハンデにジョニー・ロングデンの騎乗でガンボウの6着と鞍上が定まらず、成績も上がらなかった。 ここで1ヶ月の休みを取って3月のアルベイニーハンデに出走。ここで再びジェリー・ランバートを鞍上に迎え、以降のほとんどのレースでジェリーが騎乗した。新コンビの初戦はダブルリー(ペニンシュラハンデ連覇など)の4着、2週間後の分割競走・サンフランシスコマイルハンデはマスタードプラスター(ベイメドウズハンデ(英語版)など)の3着、更に2週間後のサクラメントハンデでもマスタードプラスター・ダブルリーに先着されての3着と中々勝てなかった。しかし2週間後のWGギルモアハンデでサンフランシスコマイルで2着だったアッパーハーフに首差で勝利。マスタードプラスターにも雪辱を果たしてこの年の初勝利を挙げた。この勝利で調子を上げて3週間後にイスマエル・ヴァレンズエラを乗せてオークランドハンデでも首差勝利。 6月のカリフォルニアンステークスには東海岸で無敵を誇っていたケルソがカリフォルニアに遠征してきており大いに注目を集めたが、111ポンドのマスタードプラスターが勝利。127ポンドを背負ったケルソは6着・115ポンドのネイティヴダイヴァーは8着に終わった。 2週間後のイングルウッドハンデに騎手をジェリーに戻して出走。マスタードプラスターに3/4馬身差をつけて同レースの連覇を達成。7月に入りアメリカンハンデでコロラドキング(英語版)の5着の後、ハリウッド金杯に挑戦するがコロラドキング・マスタードプラスターの後の3着に終わった。 8月のサンディエゴハンデを連覇した後に3ヶ月の休養を取る。11月のレッドウッドシティハンデでテスタム(ヒルズデールハンデなど)に5馬身差勝利、12月のパロスヴェルデスハンデでヴァイキングスピリット(デルマーハンデなど)に2 1/2馬身差で勝利。3連勝を飾った。ちなみにパロスヴェルデスハンデが行われた12月26日にはネイティヴダイヴァーを見るために多くの人が集まり、サンタアニタパーク競馬場は70,023人の観客数新記録を達成した。 5歳時は15戦6勝の成績だった。
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5歳(1992年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:15 UTC 版)
「トウカイテイオー」の記事における「5歳(1992年)」の解説
翌1992年4月5日、前年の東京優駿から314日ぶりの実戦となる産経大阪杯から復帰する。当時調教師試験に注力していた安田の事情、また将来の海外(日本国外)遠征の予定を踏まえ、本競走より騎手は国際経験が豊富で、父シンボリルドルフの主戦騎手・岡部幸雄に替わった。当日は東京優駿から20キログラム増の480キログラムで出走、レースではイブキマイカグラや前年の有馬記念優勝馬ダイユウサクなどの強豪も出走したが、これらの凡走を尻目に、テイオーは岡部が鞭を抜かないどころか殆ど追う事も無く圧勝した。 無敗のまま迎えた天皇賞(春)は、本競走の前年度優勝馬メジロマックイーンとの「世紀の対決」が注目を集めた。3200メートルで行われる同競走に対し、トウカイテイオーは2400メートル超のレースを未経験であったため、松元は「テイオーは本質的に中距離タイプであるのに対し、マックイーンは最強のステイヤー。天皇賞という舞台に関していうなら、我々はあくまでもチャレンジャーですよ」と語っていたが、大阪杯の競走前に普段は大げさな表現を嫌う岡部が発した、「一杯になるという感じがなく、地の果てまでも走れそう」というコメントなどから問題はないと見られた。一方、相手のメジロマックイーンは4歳時(1990年)の3000メートルで行われる菊花賞、本競走の前哨戦阪神大賞典も連覇するなど、充分な長距離実績を持っていた。また、鞍上の武豊が岡部の「地の果てまでも走れそう」というコメントに対して「あっちが地の果てなら、こっちは天まで昇りますよ」と応酬し、対決ムードを盛り上げた。 当日の単勝オッズはトウカイテイオーが1.5倍の1番人気、メジロマックイーンが2.2倍の2番人気となり、3番人気イブキマイカグラが18.2倍と2頭から大きく離れ、両馬の馬連オッズも1.5倍と非常に低くなった。スタートが切られると、トウカイテイオーは前方4・5番手につけたメジロマックイーンの右後ろを追走。第3コーナーに入ってメジロマックイーンがスパートをかけるとトウカイテイオーはこれに反応して前方へ進出し、メジロマックイーンとの差を詰めにかかった。しかし最後の直線で失速、後ろから来たカミノクレッセ、イブキマイカグラ、ホワイトアローにかわされ、そのまま独走態勢に入って逃げ切り勝ちを収めたメジロマックイーンから10馬身近く遅れた、1.7秒差の5着に敗れた。 デビュー以来初となる黒星を喫し、レース後に松元は敗因について「距離の壁としか言いようがない」とコメントし、岡部は「考えていた通りの競馬ができたけど、直線半ばで、もういっぱいになってしまった。今日のところは相手が強かった、ということでしょう」と述べた。調教助手の北口浩幸は、「テイオーは良馬場でこそ力を発揮できるタイプだけに、荒れた馬場が災いしたのかも」と振り返った。 競走10日後には右前脚の剥離骨折が判明し、以降春シーズンは休養となった。この時診断した獣医は、骨折は東京優駿時と同じくレース開始直後に発生していたものではないかとしている。一方で、この時の骨折についてシンボリルドルフの生産者・馬主の和田共弘は、「何日も分からなかったぐらいなのだから、たいした骨折じゃない」、安田隆行は骨折の影響について問われた際に「あれは勝敗とは関係ない」と述べ、いずれも競走能力に影響する程度ではなかったという見解を示している。 二風谷育成センターで療養したのち、9月に帰厩。本格的な調教を開始したが、半ば頃に38度を超す熱発に見舞われて3日間調教を休むといったアクシデントが起き、調整に狂いが生じた。復帰戦はぶっつけ本番で臨む天皇賞(秋)(11月1日)となったが、松元は「時間的にギリギリになってしまった。正直言って、背水の陣です」と不安を口にしていた。復帰初戦にも関わらず当日は単勝オッズ2.4倍で1番人気に支持されたが、レースはメジロパーマーとダイタクヘリオスが競り合い、前半1000メートル通過が57秒5という「殺人的なハイペース」となり、岡部との折り合いが付かず3番手を進んだテイオーは最後の直線で失速。先行勢は総崩れの展開となり、後方から追い込んだレッツゴーターキンの7着に終わった。 初めて掲示板を外す結果となり、レース後に岡部は「休み明けの馬特有の精神面の不安定さがモロに出た」、「2度も骨折したから、4歳時の脚を臨むのは酷かもしれない」とコメントしたが、レース後に談話を取りに来ていたアナウンサーに対し、「荒れ果てた顔つき」で「負けは負けだよ!」と叫んだ。松元は「次のジャパンカップがピーク、というつもりでやってきたが、この負け方ではそんなことも言えない」とコメントした。この敗戦を受けて、トウカイテイオーは「もう終わった」「二冠は相手が弱かったから」と言われるようにもなっていた。 続くジャパンカップ(11月29日)は、当年から国際GI競走として認定され、イギリス二冠牝馬のユーザーフレンドリー(GI競走4勝、当年の全欧年度代表馬)を筆頭に、史上初めて現役のイギリスダービー馬が一挙に2頭来日、オーストラリアから全豪年度代表馬のレッツイロープ、フランスからはアーリントンミリオンの優勝馬ディアドクターなど世界中の強豪馬が集まり、そのメンバー構成は「レース史上最強」とも評された。この中でテイオーは、日本馬では最上位ながら生涯最低となるオッズ10.0倍の5番人気にとどまった。しかし、レースでは道中4・5番手を追走すると、残り200メートル地点で外から抜け出し、残り150m地点からナチュラリズムとの激しい叩き合いとなると、残り50m地点でクビ差抜け出して優勝。ゴール後、普段は冷静な岡部が珍しく右手でガッツポーズを上げた。日本馬の勝利は1984年のカツラギエース、1985年の父シンボリルドルフ以来7年ぶり3頭目であり、同時にトウカイテイオーは日本競馬史上最初の国際GI優勝馬となった。岡部にとってもルドルフ以来の優勝であり、ジャパンカップ史上初の2勝騎手となった。 年末のグランプリ・有馬記念では、出走馬選定のファン投票で17万票以上を集め、第1位で選出。しかし、12月19日の開催で岡部が騎乗停止処分を受けた。陣営はJRAから同日19時までに有馬記念でのテイオーの鞍上を発表するように要請され、松元がこの日阪神競馬場にいた田原成貴に電話で当日の騎乗を依頼し、これを了承された。ジャパンカップとは一転して「絶好調」と報じられ、当日も単勝オッズ2.4倍の1番人気に支持される。しかしレースでは終始後方のまま、生涯最低の11着に終わった。松元は敗因にゲートでトモを滑らせて腰の筋肉を痛めたことを挙げた。田原は腰の筋肉を傷めたことについてスタート直後にレガシーワールドと接触して腰を捻ったと述べ、加えて「追い切り(最終調教)の感触は悪くなかったが、追い切った後の2、3日で変わってしまった」、「返し馬に出たテイオーは、空気が抜けた風船のような状態になっていた」と回顧している。
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5歳(2009年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 02:10 UTC 版)
「メリッサ (競走馬)」の記事における「5歳(2009年)」の解説
約半年間の休養を経て、1600万下条件の4連敗を挟み、1番人気で臨んだ7月の北九州短距離ステークス(芝1200m)では人気に応える勝利を掴み、ようやくオープンクラスへ昇格。ここまで26戦を要した。その後4戦するも、北九州記念5着以外は全て着外に終わり、この年のレースを終えた。
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5歳(2003年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:13 UTC 版)
「ディバインシルバー」の記事における「5歳(2003年)」の解説
5歳初戦、中1週で挑んだガーネットステークスは4着。続く根岸ステークス、すばるステークスと連続5着に敗れた。3か月後、穂苅が降板し、四位洋文に乗り替わった栗東ステークスをマコトセイウンと後続を話して競り合いをクビ差前に出て1着、1年ぶりの勝利を飾る。次走、北海道スプリントカップはやや離された3着に終わった。続くクラスターカップ安藤勝己に乗り替わる。レースは先手を取ると直線で後続を突き放しスターキングマンに7馬身差をつけて圧勝。重賞初制覇を飾った。その後、さきたま杯はノボトゥルーにクビ差交わされ2着、別定58kgを背負ったギャラクシーステークスは7着に沈んだ。
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5歳(1996年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 13:57 UTC 版)
「タニノクリエイト」の記事における「5歳(1996年)」の解説
この年は7月21日のBSNオープンより始動するも4番人気に応えられず10着、その後小倉記念、朝日チャレンジカップと重賞を2戦するも9着、10着と大敗し、引退となった。
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5歳(2010年)
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「アーネストリー」の記事における「5歳(2010年)」の解説
当初の予定であった大阪杯からの始動を早め、中京記念への出走を目標に調整を進めていたが、調教後に右前脚の蹄壁欠損を発症したため回避。5月29日の金鯱賞での復帰となった。故障明けで、5ヶ月半のブランクとなったが、1番人気に支持された。レースでは1000m通過が1分1秒0のスローペースの流れを2番手から追走し、直線で抜け出すと逃げたドリームサンデーに1馬身1/4の差を付け勝利。連勝で重賞2勝目を挙げ、次走には目標としていた宝塚記念を掲げた。またレース後、佐々木は秋にアメリカのGIに挑戦する考えがあることを明らかにした。 迎えた6月27日の宝塚記念は、ブエナビスタ、ジャガーメイル、ドリームジャーニーなど、実績馬の揃ったレースとなった。アーネストリーはGI初挑戦ながら3番人気に支持される。レースはナムラクレセントがハナを切る展開で進み、アーネストリーが2番手、ブエナビスタが4番手に付けた。直線を向くとアーネストリーが先頭に立ち、内からブエナビスタがこれに並びかけ競り合いとなったが、外から脚を伸ばしたナカヤマフェスタに一気に差し切られ、最後にはブエナビスタにも競り負け3着に敗れた。レース後、佐々木は「まだ本物ではありません。もうあとひとつガツンと来るものがあればいいですね。でも、これで秋が楽しみになりました。今日の1馬身差をどう詰めるか、これから考えていきたいと思います」と述べた。 秋のGI戦線への緒戦として8月22日の札幌記念に1番人気で出走した。3番手を追走し、直線半ばで先頭に立つとそのまま押し切る形で、ダービー馬ロジユニヴァースに1馬身3/4の差を付け勝利した。鞍上の佐藤は勝利後のインタビューで「内側につけようとも考えたが、力が違うと思い、外を回して安全策でいって勝ってくれた」と答えている。 10月31日の天皇賞(秋)では2番人気に支持される。レースは5・6番手からジリジリと脚を伸ばすも直線で抜け出したブエナビスタに3馬身半差をつけられ、後方から追い込んだペルーサにも差し切られる形で3着に敗れた。レース後、佐々木はインタビューで「ブエナビスタを負かせるのはここしかないと思ってこっちも目いっぱい仕上げたけど、勝ち馬には馬なりでかわされた。参ったよ」と敗戦のコメント出している。次走はジャパンカップがレイティングによる優先出走権、賞金順での出走とも見込みが薄いため見送り、有馬記念を目指していたが、調整過程で腰痛を発症したため回避した。
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5歳(2009年)
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「イーグルマウンテン」の記事における「5歳(2009年)」の解説
2009年の緒戦は香港に渡り、11月の国際マイルトライアルから復帰したが9着。連覇がかかった香港カップでは5着に終わった。
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5歳(2011年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 00:34 UTC 版)
「ジョーカプチーノ」の記事における「5歳(2011年)」の解説
年明け初戦となった1月29日のシルクロードステークスでは、スタートでやや出遅れ、道中中団後ろ11番手で待機するも、直線で外から一気に伸びて勝利。NHKマイルカップ以来となる重賞3勝目を挙げた。3月27日の高松宮記念では1番人気に推された。好スタートから先行したが、3コーナー付近でダッシャーゴーゴーに前に入られて進路を妨害される不利を受けたため位置取りを下げ、中団前目からのレースとなった。4コーナーもそのままの位置取りで回り、直線では外に持ち出したが伸びを欠き10着に終わった。5月14日の京王杯スプリングカップでは2番手追走から逃げるシルポートに食い下がったが外から猛追したストロングリターンにかわされ3着。6月5日の安田記念では2番手で競馬を進めたが直線で伸び切れず5着。8月28日のキーンランドカップでは中団追走も直線で伸び脚を欠き9着に敗れた。さらにはレース当日の暑さで体調を崩したため、秋の最大目標だったスプリンターズステークスを回避した。その後10月29日のスワンステークスでは先行し直線で後続を突き放しにかかるがゴール前でリディルにかわされ2着。11月26日の京阪杯では道中2番手を追走したが直線で失速し6着に敗れた。
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5歳(1991年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:50 UTC 版)
「ミホノビヤクエイ」の記事における「5歳(1991年)」の解説
5歳になったミホノビヤクエイの初戦は、1月4日のA3B1級アラ系5才上。1着でゴール板を駆け抜け、4月10日までにA2級まで上り詰める。そして迎えた5月8日の兵庫大賞典。自身よりも年上の有力馬が軒を連ねる中、出走メンバーとしては最年少馬としてシバノアマゾネス他1頭とともに出走。しかしミホノビヤクエイは5着、シバノアマゾネスは6着と格の違いを思い知らせることになる。次走のA1級のオープン戦日刊スポ賞では4番人気でありながら1着でゴールイン。それ以降は勝ち星からは遠ざかり、A1級のオープン戦サマーカップでは5着、デイリースポ社賞では2着と一歩及ばず、8月21日の摂津盃では去年の摂津盃以来となる着外を記録する。その後の特別競走では掲示板入りを果たし、次走では1着に輝いている。以降調子を取り戻したミホノビヤクエイは白鷺賞にて3着、園田金盃にて2着を記録し1991年を終えた。
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5歳(2005年)
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「ギャラントアロー」の記事における「5歳(2005年)」の解説
5歳初戦、シルクロードステークスはプレシャスカフェに半馬身差し切られたが2着に入る。前年に引き続き1番人気に推された阪急杯は7着に敗れ、高松宮記念は11着に終わる。5か月の休み明け、小倉日経オープンは59㎏を背負い3着と善戦。セントウルステークスは4着に敗れた。その後、スプリンターズステークス、スワンステークスと二桁着順に沈み、アンドロメダステークスは最下位と大敗。CBC賞はやや復調し6着となった。
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5歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:53 UTC 版)
「マイネサマンサ」の記事における「5歳(2005年)」の解説
5歳初戦、周防灘特別を人気に応え、好位追走から1馬身3/4差をつけて勝利する。昇級初戦、斑鳩ステークスは中団から伸びるも2着、但馬ステークスは先手を取ったが9着に敗れた。続く道頓堀ステークスは中団やや後方から追い上げて2着に入ると、次走、洛陽ステークスで好位につけると強襲するシンボリエスケープを半馬身抑えて1着、5勝目を挙げた。久々の重賞出走となった愛知杯は15着と惨敗。続くマーメイドステークスは2番手につけると逃げ切ったダイワエルシエーロに1馬身3/4差の2着に入った。次走、関屋記念は9着と崩れたが、府中牝馬ステークスは4番手追走からヤマニンアラバスタに続く2着と好走した。その後はエリザベス女王杯に出走、向こう正面で捲っていったが14着に終わる。続く阪神牝馬ステークスは直線でアドマイヤグルーヴ、レクレドールとの叩き合いとなりアドマイヤグルーヴに半馬身差の2着となった。
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5歳(1999年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 09:50 UTC 版)
安田記念参戦を確実なものにするために4月25日、新潟競馬場の谷川岳ステークス(OP)に出走する。相手は、一段劣るメンバーであり、先々のことを考えて、完全には仕上げない状態で臨み、2.2倍の1番人気に支持された。スタートから先行。ハイペースの中、直線で早めに抜け出したが、後方から追い込んだ2番人気ナリタプロテクターに差し切られた。コースレコードで決着し、クビ差後れを取る2着。この敗戦により、エアジハードを矯正し、発走調教再審査を合格させ、重賞勝利まで導いた橋本の降板が決定する。伊藤とラッキーフィールドの協議の末「技術があって、老獪ではない騎手」(伊藤)として、前年にエルコンドルパサーに騎乗し、ジャパンカップを制した30歳の蛯名正義を、新たな主戦騎手として迎えることとなった。 5月15日、安田記念の前哨戦として知られる京王杯スプリングカップ(GII)に出走。前年の有馬記念を勝利し、この年の始動戦だったグラスワンダーが2.1倍、続く4.8倍の2番人気がエアジハードであった。蛯名は安田記念出走のために、勝利よりも「スムーズな競馬をして、2着までにもってくる」ことを最優先に考えていたという。大外枠からスタートして先行した。スローペースの中、逃げ馬に次ぐ2番手で直線に向き、内側から競りかけてきた先行勢4頭の追い上げを制して抜け出したが、中団待機から大外に持ち出して追い込んだグラスワンダーに差し切られた。4分の3馬身差をつけられた2着。賞金加算には成功した。
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「5歳」の例文・使い方・用例・文例
- 15歳の少女
- この新法は55歳以上の人全員に適用される
- 15歳の中学生
- 私は15歳です
- 5歳の女の子
- 妹はまだ5歳です
- 彼は35歳だと言うが,恐らく50歳近いだろう
- 私はたいてい55歳以上に見られます
- 彼は15歳になるまでにヘミングウエイのすべての作品を読破してしまっていた
- 先生は30から35歳だと思う
- あの5歳の少女はコンピュータの操作方法を覚えた,しかもすぐにね
- その男の子は5歳の時失明した
- 5歳の男の子
- 彼は私より5歳若い
- 5歳です。
- 伝統行事です。3歳と5歳の男の子と、3歳と7歳の女の子は神社へ行き、健康を祈願します。
- 彼は15歳のとき婦人帽子業で働き始めた。
- 退職共済年金は通常65歳に到達した時点から支払われる。
- 彼らは若い人は雇わないし、一番年を取っている労働者は75歳だ。
- 私の息子は今日5歳の誕生日です。
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