6歳以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 00:13 UTC 版)
その後、レガシーワールドは米国遠征も取りざたされたが、その直後に屈腱炎を発症、皮膚病にもかかり長期休養に追い込まれた。長期休養から復帰したのは20ヶ月休養後の函館記念の事だった。函館記念ではそれまでの実績が買われ2番人気に支持されたが、最下位に大敗。その後、レガシーワールドは8歳まで現役を続けたが、GI優勝馬らしい走りを見せる事ができず、1996年の宝塚記念8着を最後に引退した。
※この「6歳以降」の解説は、「レガシーワールド」の解説の一部です。
「6歳以降」を含む「レガシーワールド」の記事については、「レガシーワールド」の概要を参照ください。
6歳以降(1999年 - 2000年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:52 UTC 版)
「メジロブライト」の記事における「6歳以降(1999年 - 2000年)」の解説
6歳となった1999年は、1月24日の日経新春杯(GII)で始動する。シルクジャスティスや、古馬となったばかりの菊花賞3着馬エモシオンとの対決となる中、トップハンデとなる斤量59.5キログラムが課されながら、2.1倍の1番人気で臨む。エモシオンとは4.5キログラムのハンデ差があった。スタートから中団に構え、スローペースを追走した。第3コーナーから最終コーナーにかけて外から早めに進出し、好位の3番手で直線に向く。直線では、内から追い込んだエモシオンに接近され、競り合いに発展した。その競り合いは決勝線まで続いたが、クビ差だけ守り、優勝を果たす。これまで46回の日経新春杯の歴史の中で、GI優勝馬が優勝したのは初めてのことだった。この翌日には、前年のJRA賞の表彰式が行われており、それに出席した田中によれば、隣の席の河内は「斤量を背負っているぶんだけキレが悪くなるので早めに仕掛けたんです」と述べていたという。 続いて3月21日の前哨戦の阪神大賞典に臨む。ここでは、日経新春杯と同日のアメリカジョッキークラブカップを3馬身差で優勝した前年のダービー馬スペシャルウィークとの対決に注目が集まる。ただしメジロブライトの斤量は、スペシャルウィークよりも1キログラム重かった。人気は2頭に集中する中、メジロブライトが1.7倍の1番人気、スペシャルウィークは2.1倍だった。スタートから後方に構え、先行するスペシャルウィークをマークしていた。第3コーナーからスペシャルウィークの仕掛け次第で追い上げ、直線で並び立った。競り合いを演じている間に、後方との差は広がり、一騎打ち状態となっていた。一騎打ちは長く続いたが、終いでスペシャルウィークに抜け出された。スペシャルウィークに4分の3馬身差、後方のスエヒロコマンダーに7馬身差の2着、阪神大賞典連覇は叶わなかった。 それから5月2日、天皇賞(春)に臨む。スペシャルウィークに加えて、セイウンスカイとの再戦だった。メジロブライトを含めたこの3頭は「三強」と称され人気が集中する。ただし、2倍台でスペシャルウィークとセイウンスカイが並び、4倍台がメジロブライトだった。スタートから後方に構え、同じく先行するスペシャルウィークを追う形、最終コーナーでは外から追い上げて並び立つ。直線では「阪神大賞典の続きを見るかのような叩き合い」(小塚泉)を演じたものの、再びスペシャルウィークをかわすことはできなかった。前回との差はわずかに縮まり、スペシャルウィークに半馬身差、セイウンスカイに2馬身半差の2着、天皇賞(春)連覇は叶わなかった。河内は直後「もうあれ以上は絞り出せないよ」と漏らしたという。その後は、夏の暑さに弱いことを考慮して、宝塚記念を回避し、メジロ牧場で休養、夏休みとなる。 函館競馬場を経由して9月2日に帰厩する。そして10月10日の京都大賞典で始動する。相手にはスペシャルウィークや菊花賞を目指す皐月賞優勝馬テイエムオペラオーがおり、メジロブライトを含めたこの3頭が3番人気までを占めていた。ただしスペシャルウィークは調子が戻ってこない中での参戦だった。メジロブライトは、後方追走から直線では内側から追い上げて、スペシャルウィークを下すことには成功する。しかし抜け出していた4番人気、ツルマルツヨシをかわすことができず、4分の3馬身差の2着に敗れる。3戦連続で、優勝馬に0.1秒差の2着となっていた。その後、天皇賞(秋)はスペシャルウィークの復活優勝を見届ける11着敗退。続くジャパンカップは、有馬記念に集中するために回避。その有馬記念では再びグラスワンダーに敵わず5着だった。 翌2000年、7歳となるが、有馬記念の後に左前浅屈腱炎を発症して戦線を離脱する。完治して秋、10月8日の京都大賞典で復帰するも8着。その後、屈腱炎の再発が判明し、競走馬を引退する。
※この「6歳以降(1999年 - 2000年)」の解説は、「メジロブライト」の解説の一部です。
「6歳以降(1999年 - 2000年)」を含む「メジロブライト」の記事については、「メジロブライト」の概要を参照ください。
6歳以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:28 UTC 版)
1999年、6歳になったジャスティスは日経新春杯6着、阪神大賞典4着を経て、春の天皇賞に挑んだが、前年同様4着に終わってしまう。その後、ジャスティスは左前脚の球節を疲労骨折してしまい、約1年間休養することになる。 1年後の2000年5月27日、ジャスティスは金鯱賞で復帰したが、11着と殿負けを喫し、このレースを最後に現役を引退した。
※この「6歳以降」の解説は、「シルクジャスティス」の解説の一部です。
「6歳以降」を含む「シルクジャスティス」の記事については、「シルクジャスティス」の概要を参照ください。
6歳(2016年)以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:51 UTC 版)
「アップトゥデイト」の記事における「6歳(2016年)以降」の解説
2016年は阪神スプリングジャンプで始動。林満明が落馬負傷したため白浜雄造への乗り替わりとなったものの、サナシオンに逃げ切りを許し2着に敗れた。その後中山グランドジャンプ連覇を目指し調整が続けられたが、左前脚に骨りゅうが出たため出走を回避した。 2016年冬から2018年春までのJ・G1は、2017年4月の中山グランドジャンプでの3着を除き全て2着であり、2015年の中山大障害で降していたオジュウチョウサンに苦杯を舐めさせられ続けた。 2018年9月の阪神ジャンプステークスに勝利し障害重賞6勝目をマークする。オジュウチョウサンが出走しなかった年末の中山大障害は1番人気に推されるも最終障害で落馬し競走を中止した。以後出走はなく、2019年7月26日付で競走馬登録を抹消、引退した。引退後は馬事公苑で乗馬となる。
※この「6歳(2016年)以降」の解説は、「アップトゥデイト」の解説の一部です。
「6歳(2016年)以降」を含む「アップトゥデイト」の記事については、「アップトゥデイト」の概要を参照ください。
6歳以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 22:57 UTC 版)
「シーザー (競走馬)」の記事における「6歳以降」の解説
翌1962年、当馬はそのまま関東に残り、同年開幕レースとなる1月3日の金盃(中山)に出走したがオンスロートの、続く1月21日のアメリカジョッキークラブカップ(中山)ではタカマガハラの、さらに2月21日の京王杯スプリングハンデキャップ(東京)では伏兵のトリシンの前にいずれも2着と惜敗し、後述する「ジリ脚シーザー」という渾名が一層、現実味を帯びるようになる。 しかし、3月4日の目黒記念では、タカマガハラ・メジロオーらを退け、待望の関東地区での重賞勝ちを果たした。その後、厩舎に戻り4月8日のスワンステークス(京都)を勝って、4月29日の天皇賞(京都)へと挑んだ。前年の有馬記念を勝ったホマレボシは引退し、タカマガハラは前年の秋の天皇賞をすでに勝っていることから当時の規定で出走権利がなかったこともあり、オンスロートとの一騎討ちとなったが、直線に入ってジリジリとオンスロートに引き離され、2馬身でまたしても2着に終った。 その後4戦したあと、11月27日の天皇賞(東京)に出走。上記3強の出走はなく、悲願の盾取りの絶好のチャンスとなり、1番人気にも支持されたが、直線でまったく伸びきれず、勝った牝馬のクリヒデに3馬身近く離されて5着に敗れ、結果、同年の有馬記念に出走することなく厩舎に戻った。その後、年末の阪神大賞典5着(阪神)・迎春賞3着(京都)の結果を残し、シーザーは引退した。
※この「6歳以降」の解説は、「シーザー (競走馬)」の解説の一部です。
「6歳以降」を含む「シーザー (競走馬)」の記事については、「シーザー (競走馬)」の概要を参照ください。
6歳(2013年)以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 16:10 UTC 版)
「セントニコラスアビー」の記事における「6歳(2013年)以降」の解説
2013年も初戦は前年同様ドバイに遠征し、3月30日のドバイシーマクラシックに出走。先行集団から直線で早めに抜け出し、前年の日本の年度代表馬であるジェンティルドンナの追撃を振り切って優勝。続いて6月1日のコロネーションカップに出走して優勝、100年を超える歴史を持つ同レースで史上初の3連覇を達成した。その後は7月27日のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを目標とし、大手ブックメーカーによる前売りオッズでも1番人気に推されていたが、直前の7月23日早朝の調教中に重度の故障を発症したため、現役を引退することが所有するクールモアグループによって発表された。その後治療を行っていたが、10月に蹄葉炎を併発。2014年1月14日、重度の疝痛を発症したため治療を断念、安楽死の処置が取られた。
※この「6歳(2013年)以降」の解説は、「セントニコラスアビー」の解説の一部です。
「6歳(2013年)以降」を含む「セントニコラスアビー」の記事については、「セントニコラスアビー」の概要を参照ください。
6歳以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 05:13 UTC 版)
その後も現役を続けたリュウキコウは、第27回阪神大賞典2着以外は大した見せ場無く、8歳で引退するまで23連敗。1981年緒戦の金杯では久し振りに3着と気を吐いたが、次走の日経新春杯で最下位に終わり、これを最後に競走馬を引退した。
※この「6歳以降」の解説は、「リュウキコウ」の解説の一部です。
「6歳以降」を含む「リュウキコウ」の記事については、「リュウキコウ」の概要を参照ください。
- 6歳以降のページへのリンク