稲城市 稲城市の概要

稲城市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/23 03:13 UTC 版)

いなぎし 
稲城市
稲城市旗 稲城市章
1967年10月14日制定
日本
地方 関東地方
都道府県 東京都
市町村コード 13225-0
法人番号 2000020132250
面積 17.97km2
総人口 94,472[編集]
推計人口、2023年3月1日)
人口密度 5,257人/km2
隣接自治体 調布市府中市多摩市
神奈川県川崎市
市の木 イチョウ
市の花 ナシ
市の鳥 チョウゲンボウ
稲城市役所
市長 高橋勝浩
所在地 206-8601
東京都稲城市東長沼2111番地
北緯35度38分17秒 東経139度30分16秒 / 北緯35.63794度 東経139.50456度 / 35.63794; 139.50456座標: 北緯35度38分17秒 東経139度30分16秒 / 北緯35.63794度 東経139.50456度 / 35.63794; 139.50456
市庁舎位置
外部リンク 公式ウェブサイト

― 区 / ― 市 / ― 町・村

 表示 ウィキプロジェクト

人口は約9万人。日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)による1970年代以降の多摩ニュータウン建設や京王相模原線および小田急多摩線の沿線開発に伴い、多摩川流域の既存住宅地と合わせた人口が急増した。古くからナシブドウの産地である。特に「稲城の梨」はブランド梨として有名であり[1]、現在でも住宅地の中に多くの梨農園や梨の直売所が見られる。サッカーJリーグ東京ヴェルディホームタウンでもある。

多摩ニュータウンのファインヒル向陽台地区は1995年度に都市景観100選大賞を受賞。

東京都の住宅街で大賞を受賞したのは大田区田園調布と稲城市向陽台地区のみである。

地理

東京都心から西南に約25km多摩川右岸に位置し、市内大丸にて取水した大丸用水が東部を潤し、東西方向に三沢川が横断する。多摩丘陵の北東部に位置し、現在は多くが住宅地となっているが、古くから谷戸地形を活かした農業が営まれており、森林も比較的多く残っている。他の東京都の多摩地区の自治体よりも神奈川県の川崎市といったつながりが強い。

市域は「勾玉」の形をしており、よみうりランド内の一部が飛地となっている。

1990年1月15日、よみうりランド観覧車から見た京王よみうりランド駅と稲城市街

地形

大まかに分けると多摩丘陵と多摩川周辺の沖積地の二つとなり、多摩周辺の沖積地(平地)が北部を、多摩丘陵が南部を形成する。また多摩川支流の三沢川が、多摩丘陵部を北西と南西に分ける形で流れる。

多摩川沿いにはJR南武線の「矢野口」「稲城長沼」「南多摩」の3つの駅、三沢川沿いには京王相模原線の「京王よみうりランド」「稲城」の2つの駅がある。(若葉台駅は厳密には神奈川県川崎市麻生区に位置する)

三沢川にほぼ平行して建設された鶴川街道を北上すると稲城大橋があり、中央道に続くこの稲城大橋が多摩南部とのパイプ的役割を果たしている。

地質

稲城には、坂浜や平尾の丘陵地や台地に関東ローム層が堆積しており、その中の立川ロームという層位から14か所の旧石器時代遺跡が発見されている。大丸には奈良時代の遺跡・瓦谷戸窯跡(東京都指定旧跡)がある。

市域の概要

東・北部

多摩川と多摩丘陵南山(みなみやま)と呼ばれる)にはさまれた地域。南武線川崎街道南多摩尾根幹線鶴川街道)、京王相模原線が横断し、市の中心部を形成する。もともとは多摩川の氾濫原であり、平坦な地形である。南山の際には川崎市麻生区黒川を水源とする三沢川が流れている。古代から稲作が行われてきた地域で、江戸期には大丸用水が開削されている。大丸から多摩市連光寺に通じる斜面では奈良時代武蔵国分寺に使用する瓦を焼いており、窯跡が発掘されている(瓦谷戸窯跡)。鶴川街道の拡張など急速に宅地開発が進んでいるが、広々とした敷地に古格のある土蔵が建っている古くからの農家もまだまだ残っている。

市内の多摩丘陵は南山(みなみやま)と呼ばれ、新宿から30分という近さにも関わらずタヌキ、オオタカなど豊かな自然が残る大規模な里山として知られているが、その東側は現在、区画整理組合方式による宅地開発が行われている。ただし、これに反対する意見も根強い。

稲城市東部・西部遠景。手前から矢野口、大丸、向陽台。右手が東長沼。
1990年12月、百村から見た稲城駅、よみうりランド方向
1990年12月、百村から見た稲城駅、よみうりランド方向2
一部が神奈川県川崎市多摩区菅仙谷への飛び地となっている。
  • 押立(おしたて)
  • 東長沼(ひがしながぬま)
近世には長沼村と呼ばれていた。明治になって南多摩郡が設置された時、郡内にもう一つ、現在の八王子市長沼町も「長沼」という地名だったため、東にある長沼ということで東長沼と改称された[2]

西部

若葉台の街並み

多摩ニュータウンの東端となる地域である。向陽台は最も早く開発された地域で、駅からの距離は若干遠いものの、中央図書館、市立病院、中央公園などの主要インフラが隣接しており、戸建てと集合住宅の高低差を意識した街造りが評価されて1995年度に都市景観100選大賞を受賞している。長峰は向陽台と若葉台の間の地域である。若葉台は近年急速に開発が進んだ地域で、大型マンションやショッピングセンターが次々に建設されており、ファミリー層が増加している。若葉台は稲城市の中でも独特の土地で、黒川はるひ野や多摩市聖ヶ丘永山など、市外との結びつきが強い。

南部

坂浜は三沢川沿いの狭隘な地域であるが、比較的古くから人間が住んだ地域であり、稲城市郷土資料室にはこの地域の江戸時代の様子を復元した大型の立体模型が展示されている。三沢川に流れ込む支流が形成した数多くの谷戸で農業が営まれているが、若葉台側の谷戸は急速な宅地化が進んでいる。南側の斜面には駒沢女子大がある。平尾は坂浜から南に高勝寺坂・天神坂を越えた地域で、川崎市麻生区、特に新百合ヶ丘との結びつきが強い。なお平尾には都内で唯一の「十三塚」である平尾十三塚や、平尾入定塚平尾原経塚などの信仰系遺跡が残っている[3]

隣接している自治体・行政区

歴史

旧石器時代

現在稲城市がある地域は比較的古くから人間が住んだ土地であり、旧石器時代遺跡も多数確認されている。それらの多くは、数点の石器が出土しただけの小規模な遺跡で、約2万年前から1万3千年前のものと考えられている。出土した遺物のほとんどすべてが尖頭器(せんとうき)、細石器(さいせっき)、ナイフ形石器などの石器である。当時の人々はこれらの石器を使い、オオツノジカ、野牛、ナウマン象などの大型獣を追って、丘陵のなかを移動しながら狩猟活動を中心とした生活をしていたと考えられる。

縄文時代

市内最大の縄文遺跡は多摩ニュータウンNo.471・473遺跡(現在の稲城第4公園付近)で、縄文中期の住居跡が数十箇所発見されている。しかし縄文後期に入ると気候の寒冷化や富士山の噴火による降灰によって、市域は縄文人の生活に適さない地域になったと考えられており、この時期以降の遺跡の数は激減している。

弥生時代

弥生時代の遺跡は少なく、集落遺跡は平尾台原遺跡のみである。この遺跡では、弥生時代中期と後期、そして後期末から古墳時代前期にかけて三度にわたり集落がつくられ、住居跡22軒、方形周溝墓5基が発見された。この地に最初に米づくりを伝えた弥生時代人は、平尾台原の地を拠点として集落をつくり、活動していたと見られる。

奈良時代

青渭神社(稲城市東長沼)

奈良時代には現在の中央図書館の東側、日帰り温泉施設がある一帯に窯が築かれ、瓦谷戸窯跡や多摩ニュータウンNo.513遺跡(大丸遺跡)で須恵器武蔵国府武蔵国分寺の瓦を焼いていたことが判っている[4]。また市内には式内古社あるいは式内古社論社が三つ存在しており(青渭神社大麻止乃豆乃天神社および穴澤天神社)、古墳時代以降に再びこの地域に一定規模の集落が存在したことを伺わせる。

平安時代

平安末期には現在の市域は小沢郷に含まれ、武蔵七党のうち秩父党に属する小山田氏の支配となった。小山田氏は多摩川の対岸にあった官牧の小山田牧が私有化された小山田荘を所有した豪族であるが、後に稲毛氏と名乗り、鎌倉幕府の有力御家人となる。

鎌倉時代

稲毛氏は鎌倉時代も引き続き武蔵国小沢郷(現在の大丸から矢野口)を所有した。しかし北条時政執権の時、稲毛重成・小沢重政の父子は畠山重忠とともに滅ぼされている。その後、小沢郷は、重成の妻が北条政子の妹だった縁で北条氏の支配下に入ったと考えられている。またこのころ、大丸遺跡には砦(大丸城)が築かれていた。14世紀には現在の坂浜地区に高勝寺が創建されているが、この寺に所蔵されている聖観音像(もとは同じ坂浜の妙福廃寺のもの)は12世紀半ばの制作と推定されている。また東長沼の常楽寺は寺伝では行基の開基とされているが、少なくとも本尊の阿弥陀如来像は12世紀前半まで遡るものと考えられている。

南北朝時代

南北朝期には市域も足利尊氏足利直義の戦闘の舞台となり、穴澤天神社の南にある小沢城が尊氏側の部隊によって焼き払われている。この時期の小沢郷は摂津親秀を当主とする摂津氏が所有していたが、親秀の孫の満親は小沢郷を京都の南禅寺に寄進してしまう。その後の小沢郷の消息は文献上はしばらくたどれない。

戦国時代

次に小沢郷が文献に登場するのは戦国時代である。小沢城は世田谷城などとともに、後北条氏の支配下にあり、1530年享禄3年)には上杉朝興の部隊に攻め落とされるなど、最前線の軍事拠点となっていたことがわかる。後北条氏の家臣団で小沢郷を与えられていたのは垪和氏である。北条氏照八王子城で戦死し後北条氏が滅亡すると、氏照に従っていた市域の武士たちは帰農したり、あるいは徳川家に仕えて旗本となったと考えられている。例えば坂浜に在住した冨永家は後北条氏に仕えた後、徳川家の旗本になったとされている。

なおこの時代の平尾地区では、天文5年8月15日(1536年8月31日)に長信という僧侶を造って内部に籠り入定を遂げたことが解っている(平尾入定塚)。

江戸時代

江戸期には大丸村、長沼村、押立村、矢野口村、百村、坂浜村、平尾村の6つの村落が点在していたことが、弘化2年(1845年)に制作された『調布玉川惣画図』などから確認出来る。これらの村は現在では「稲城市域六ケ村」と呼ばれている。ただし、この時代までは稲城という地名も存在せず、また現在の稲城市域に地域としての一体性も存在していなかった。

なお、それぞれの村の支配体制であるが、大丸と長沼は旗本の朝倉氏、百村は同じく坪内氏。矢野口は加藤氏と中根氏が支配した後、18世紀半ばに幕府直轄領となる。平尾も18世紀半ばまで黒沢氏で、その後は幕府直轄領。坂浜は天野氏。ただし新田は全て幕府直轄領だった。

この時代の平尾地区では、宝永5年(1708年)に経塚が築造されている(平尾原経塚)。同地区内にある十三塚平尾十三塚)は築造年代不明である。

明治時代・稲城村の誕生

この地域が地域としての一体性を持ったのは稲城村の成立をもって嚆矢とする。稲城という地名も稲城村の成立時に考案されたものである。その由来ははっきりしない。最も有力な説によれば、稲城村の母体となった東長沼外五か村連合の戸長であり、後に初代の村長となった森清之助が、域内で私塾「奚疑塾」を主宰していた漢学者窪全亮に諮問した結果であるという。この地域が中世に稲毛氏の所領だったことや、かつては良質の米を産したこと、域内にいくつもの山城跡が存在することなどから、「いなげ」に通じる名前として「稲城」が考案されたのではないかと推測されている。

市制施行まで

市制施行後

多摩ニュータウン開発

三沢川分水路入り口(稲城市坂浜)

もともと稲城は多摩ニュータウン計画の範囲外であり、1956年施行の首都圏整備法では、稲城村域はグリーンベルトとして農村を残す予定だった。しかし稲城村議会は、開発から取り残されることを懸念して全会一致でこの構想への反対を決議。1965年の同法改正でグリーンベルト構想は撤回され、稲城村域も多摩ニュータウン計画に組み込まれたという経緯がある。

1990年12月、尾根幹線道路完成前の向陽台近辺

1971年に建設大臣の事業承認が下りたものの、稲城市域の多摩ニュータウン開発は、用地買収の難航とニュータウン区域の雨水排水問題のために遅々として進捗しなくなる。前者は用地転売益を狙った民間企業が土地を買い漁ろうとしたために、市域の地価が吊り上がったという経緯がある。後者は、ニュータウン区域の雨水を三沢川に排出する場合には三沢川の大規模改修が必須となるものの、三沢川は上流域と下流域が神奈川県川崎市であり、川崎市が三沢川改修費用負担を拒否したこと、三沢川周辺は宅地化が進んでおり、立ち退き費用が巨額に上ることから、事業費用が膨らむことが問題となった。

結局、雨水排水の問題は三沢川中流域からトンネルを掘削して多摩川に直接、ニュータウン区域の雨水を落とす「三沢川分水路」のアイデアが生まれるまで、解決不能の難題となった。なお三沢川分水路は1986年に完成しており、向陽台地区は1987年に分譲開始となる。

開発遅滞のメリット

先行する多摩市域に大幅に遅れて開発が進んだことで、稲城市域の多摩ニュータウン開発は、多摩市域の先行事例の教訓を生かすことが可能になった。具体的には1977年に開始された「多摩ニュータウン環境計画」による先行事例の課題調査の結果を踏まえ、以下のような特徴を持つ地区としてデザインされた。

「緑の環」
稲城市は多摩川から米軍多摩サービス補助施設、多摩カントリークラブ、坂浜・平尾地区、読売カントリークラブ、南山(みなみやま)という緑地帯を市域のグランドデザインに設定していた。稲城市域の多摩ニュータウン計画を立案した日本都市総合研究所はこの「緑の環」構想を生かし、城山公園稲城中央公園、上谷戸公園という大規模な緑地を残したデザインを行った。
生活環境軸
多摩ニュータウンの先行事例は徹底的な歩車分離デザインを採用していた。これは結果的に住民の住みやすさを減じ、ロードサイド店の普及とともに住民流出を招いてしまった。この反省を踏まえ、稲城市域では自家用車の利用にもある程度配慮したデザインが行われた。
カルチャーパス
同じく先行事例では小中学校が町はずれに立地しており、日常生活から分離してしまっているという反省があった。これを踏まえ、稲城市域では街区の中央に小学校や中学校を置き、周囲に歩行者専用道路を張り巡らせるというデザインを採用した。また向陽台地区では、集合住宅のうち、通り沿いの1階部分に店舗用の空間を持つ物件を設定したプラスワン住宅も建設されたが、こちらは目論みが外れ、店舗に活用される事例は全く見られない。



  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 町界町名地番整理実施区域

注釈

  1. ^ 締結時は女満別町、大空町への合併後、2006年に再度調印。

出典

  1. ^ 稲城市の特産品 「梨」”. www.city.inagi.tokyo.jp. 2021年7月29日閲覧。
  2. ^ 今尾恵介『多摩川絵図今昔』(けやき出版)
  3. ^ 入定塚・十三塚”. 稲城市. 2011年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年9月2日閲覧。
  4. ^ 大丸遺跡
  5. ^ いなぎの歴史”. www.city.inagi.tokyo.jp. 2022年7月30日閲覧。
  6. ^ 村を町とする処分”. 稲城市例規集. 2016年4月9日閲覧。
  7. ^ 図典 日本の市町村章 p85
  8. ^ 市章・市の木・市の花”. 稲城市. 2012年5月31日閲覧。
  9. ^ 町を市とする処分”. 稲城市例規集. 2016年4月9日閲覧。
  10. ^ a b 市民憲章・平和都市宣言”. 稲城市. 2012年5月31日閲覧。
  11. ^ 東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行152-153ページ。
  12. ^ 統計いなぎ 平成30年度版” (pdf). 稲城市. p. 175. 2019年5月21日閲覧。
  13. ^ a b 稲城市出張所設置条例”. 稲城市例規集. 2012年5月31日閲覧。
  14. ^ 「いなぎ市議会だより 第184号」(2010年5月18日発行) 9頁
  15. ^ 稲城市ホームページ. “稲城市介護支援ボランティア制度”. 稲城市. 2010年9月7日閲覧。
  16. ^ 果物ナビ. “稲城(いなぎ) ナシ(日本梨) 味の感想や特徴など 果物ブログ”. 果物ナビ. 2020年8月13日閲覧。
  17. ^ 東京都稲城市”. 大空町. 2017年12月28日閲覧。
  18. ^ フォスターシティ市と姉妹都市提携を締結しました”. 稲城市. 2022年6月25日閲覧。
  19. ^ 稲城市と福島県相馬市が友好都市協定を締結しました”. 稲城市. 2015年8月22日閲覧。
  20. ^ 稲城市と長野県野沢温泉村が友好都市協定を締結しました”. 稲城市. 2016年6月5日閲覧。
  21. ^ 東京都稲城市 私立コマクサ幼稚園|トップページ
  22. ^ 稲城市ホームページ. “稲城市立iプラザが開館しました”. 2009年10月24日閲覧。
  23. ^ 稲城市ホームページ. “複合施設ふれんど平尾”. 2022年2月3日閲覧。
  24. ^ 稲城市ホームページ. “稲城市郷土資料室”. 2022年2月3日閲覧。
  25. ^ 稲城市ホームページ JR南武線連続立体交差事業
  26. ^ 都道路公社解散へ 通行量見通し甘く 税金投入、無料化 TOKYO web(東京新聞)2009年9月13日






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  稲城市のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「稲城市」の関連用語

1
向陽台 地名
100% |||||

2
坂浜 地名
100% |||||

3
大丸 地名
100% |||||

4
平尾 地名
100% |||||

5
押立 地名
100% |||||

6
東長沼 地名
100% |||||

7
百村 地名
100% |||||

8
矢野口 地名
100% |||||

9
若葉台 地名
100% |||||

10
長峰 地名
100% |||||

稲城市のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



稲城市のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの稲城市 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2023 GRAS Group, Inc.RSS