AIMへの参加
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「レオナルド・クロウドッグ」の記事における「AIMへの参加」の解説
1967年に、元オグララ部族会議議長のボブ・バーネットや父ヘンリー、レイムディアーらとニューヨークに出向く。これはスー族の保留地で勝手に毛皮の乱獲を行っている「バックスキン・カーテン社」への抗議と、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア主催の「平和大行進」に参加するためだった。レイムディアーとヘンリーはキング牧師の隣に座り、演説の場に加わった。レオナルドたちは白人の友人リチャード・アードスの家に泊まり、様々な黒人運動家のグループと交流を深めた。 1969年の暮れに、「アメリカインディアン運動」(AIM)のデニス・バンクスがミネソタからサウスダコタの「クロウドッグ・パラダイス」を訪ねてきた。デニスは「インディアンの権利運動に、霊的な後ろ盾が欲しい」とヘンリーに頼みこみ、「スウェット・ロッジ」の儀式を受けて帰った。以後、レオナルドはAIMの理念に意気投合し、ミネソタ本部、コロラド州デンバー支部へ赴いて、クライド・ベルコート、ヴァーノン・ベルコート、エディー・ベントン・バナイ(オジブワ族)、リーマン・ブライトマン、ラッセル・ミーンズ、ジョン・トルーデル(スー族)、スタン・ホルダー(ウィチタ族)たちと会った。彼らに「AIMのメディスンマンになってくれ」と頼まれたレオナルドは、AIMとともにインディアンの権利回復運動に身を捧げることを誓った。 1971年、AIMのデニス・バンクス、クライド・ベルコート、ラッセル・ミーンズが「クロウドッグ・パラダイス」で開かれた「サンダンスの儀式」で、レオナルドとともに「ピアッシングの苦行」を行った。これは自らの痛みを「大いなる神秘」に捧げる誓いの儀式であり、ここにAIMとスー族伝統派は正式に連携関係となった。レオナルドを始め、レイムディアーやヘンリー、ビル・イーグルフェザーらスー族の伝統派呪い師たちは、AIMのインディアンたちにインディアンの儀式のすべてを伝授した。 1972年11月、AIMが決行した「破られた条約のための行進」、「BIA本部ビル占拠抗議」や、レイモンド・イエローサンダー、ウェズリー・バッドハートブルの殺害抗議など、AIMの行動をメディスンマンとして支援。
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AIMへの参加
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「ラッセル・ミーンズ」の記事における「AIMへの参加」の解説
1971年、ビルとデイスの兄弟とともに「ミーンズ三兄弟」として、正式にAIMメンバーとなる。6月、再びラッセルらはラシュモア山を占拠。AIMと老若男女のインディアンたちは連邦記念碑である「大統領の顔」の上にAIMとスー族の国旗を掲げ、1か月を超す長期野営抗議を行った。この際、ラッセルらはジョージ・ワシントンの「顔」に小便をかけて見せ、岩に「レッド・パワー、インディアンの土地」と赤い塗料で大書した。 この年、スポーツ界の「インディアン・マスコット」問題にも取り組み、「ワフー酋長」の意匠廃止を巡って、プロ野球球団クリーブランド・インディアンス告訴の原告団に加わり、「ワフーの意匠がインディアンの品位を汚している」として、900万ドルの損害賠償訴訟を行っている。 1972年、「ワフー訴訟」に反発するクリーブランド・インディアンスのファンから猛抗議を受け、クリーブランドのインディアン・センター所長を辞任。サウスダコタに戻る。 この年、AIMによるワシントンD.C.への抗議行進「破られた条約のための行進」に参加。この抗議行動はインディアン管理局(BIA)本部ビルの占拠に発展し、リチャード・ニクソン大統領の調停が入る一大事件となった(→BIA本部ビル占拠抗議)。ラッセルは「メディアはインディアンを無視している」と報道陣に訴え、彼らは激しい抗議行動でマスコミに訴えかける戦法を取った。デニスと二人でBIAの汚職証拠となる書類をごっそり運び出したラッセルは、各保留地の部族議長の腐敗やBIAとの癒着を公開し、BIAを激怒させた。この占拠抗議の後、ラッセルはこう宣言した。 「我々は、巨大な狼煙を上げたのだ」 1973年、スー族のパインリッジ・インディアン保留地は、部族会議議長ディック・ウィルソンによって私物化され、ウィルソンの私設暴力団とスー族との内戦状態にあり、また部族民はすさまじい白人からの差別と暴力の下にさらされていた。スー族同胞が白人グループに面白半分に虐殺され、抗議運動は白人警察によって弾圧され、ラッセルも白人保安官によって名指しの暴行を受け、逮捕拘留された。 2月26日、パインリッジのオグララで、フールス・クロー酋長の呼びかけで長老と酋長による大集会が開かれた。スー族以外のAIMメンバーも加わった緊急集会で、スー族の女たちはAIMに力を貸してくれるよう頼んだ。AIMはこれを快諾し、パイプの儀式を行ってウーンデッド・ニーまでの抗議行進の決行を全会一致で決定した。ラッセルは各酋長(世話役)との連絡役とスポークスマンを任じることとなった。この抗議行進は、ついには「ウーンデッド・ニー占拠抗議」、「オグララ国独立宣言」に発展。州兵、FBIが介入し、戦車や戦闘機まで投入される一大事件となって全米に衝撃を与えた。 パインリッジの部族会議議長として部族民をテロ弾圧していたディック・ウィルソンについて、占拠抗議に参加したスー族伝統派呪い師のレオナルド・クロウドッグは「白人とインディアンの混血、あるいはインディアンですらなかったかもしれない」と述べている。ウィルソンはラッセルを賞金首にして、次のように発表した。 「懸賞金、ラッセル・ミーンズの三つ編み、ひとつ50ドル、ふたつで300ドル。ラッセル・ミーンズの首付き、塩漬けなら1000ドル。部族政府まで連絡されたし」 ラッセルはニクソン大統領との交渉のため、ワシントンを訪れたが足止めされ、占拠抗議はインディアン2人の死者を出して1973年5月8日に撤退となった。占拠後、ウィルソン部族議長と連邦政府はAIMに対するテロを強化し、次々と占拠メンバーが暗殺された。 1973年10月、ノースダコタのスタンディングロック保留地を訪問した際に、BIA警官によって背後から肝臓を撃たれ重傷を負ったが、命は取り留めた。このあとの6年間で、ラッセルは4回、白人による射殺と刺殺の危機を乗り越えた。 1974年1月2日、連邦政府とFBIは、「ウーンデッド・ニー占拠主導者統一裁判」として、ミネソタ州セントポールでラッセル・ミーンズ、デニス・バンクスの二人を連邦訴追した。連邦政府はAIMを「国家反逆の犯罪者集団」として反AIMキャンペーンを行っており、この二人を断罪しようとしたのである。オグララ族のペドロ・ビソネットはBIAに射殺され、スー族の呪い師レオナルド・クロウドッグと、AIM主導者の一人クライド・ベルコートは別件で逮捕され別法廷で被告となっていた。 9か月にわたる裁判にはビル・クンスラーやマーク・レーンら、著名な人権派弁護士がつき、違法盗聴や偽証など、FBIの不正が次々に明るみに出た。9月15日、フレッド・ニコルス裁判長はFBIと司法省に対する激しい批判と怒りの弁を読み上げ、ラッセルとデニスの完全無罪判決を下した。この年、ラッセルは生まれ故郷のパインリッジ保留地の部族会議議長に立候補。現職のディック・ウィルソンに200票余りの差をつけたが、ウィルソンは不正と脅迫によってこれを無効とし、連邦裁判所の再選挙要求を無視した。 1975年、酒場での喧嘩で殺人を犯したとして起訴された。ビル・クンスラーが弁護につき、陪審は1976年8月6日に殺人告発を解いた。 1977年、アメリカ合衆国のインディアン権利問題を国際的に訴えるため、国連に「国際インディアン条約会議」を設立。またパインリッジ・インディアン保留地で、スー族によるラジオ局「KILI」や、「ポーキュパイン健康診療所」の組織化を進めた。 この年11月に、1973年の「カスター市騒乱」の廉で有罪とされ、サウスダコタ州刑務所に1ヵ月服役した。この際、刑務所内で心臓近くをナイフで刺され重傷を負った。 1980年7月に、ラッセルは彼の言葉をより広く知らしめるためとして、『For America to Live, Europe Must Die』(アメリカが生きるために、ヨーロッパは死ななければならない)とする有名な演説を行い、「アメリカインディアンは伝統を守ることでヨーロッパ化を避けるべきだ」と訴えた。ラッセルは、キリスト教と資本主義を含むヨーロッパの知的伝統を批判し、「白人が宇宙を非スピリチュアルなものにした」とし、ヨーロッパの伝統的なマルクス主義はアメリカインディアンの問題を何も解決しないと警告した。彼は次のように述べている。 私は『指導者』ではない。私はオグララ・ラコタの愛国者だ。それは、私がそうありたいと望むすべてであり、私はそうあることで、とても心が安まるのです。 1981年4月、ラッセルらAIMグループとラコタ族伝統派が、サウスダコタ州ビクトリアクリーク渓谷にある連邦政府の土地で、「ブラックヒルズ返還の第1段階」としてティピーの野営を張った。この野営は、白人に虐殺されたスー族のレイモンド・イエローサンダーの名をとって、「イエローサンダー・キャンプ」と名付けられた。米国森林サービス局は野営のための土地の使用を拒否したため、彼らは1978年制定の「アメリカインディアンの宗教の自由法」に対する侵害であるとして連邦を告訴した。1985年に、ドナルド・オブライエン判事はこの野営に有利な判決を下したが、控訴審では逆転敗訴した。 1980年代に、AIMは運動における霊的な扱いを巡って、数派に分かれた。またもう一つの理由は、ニカラグアで圧政下にあるミスキート族インディアンに対する支援の是非によるもので、ラッセルはミスキート族インディアンの一派「MISURASATA(YATAMA)」を支持した。この団体はコントラと関連していたので、ラッセルは1985年と翌年にニカラグア東に実情調査に赴いた。現地では、サンディニスタ民族解放戦線が爆撃を行い、多数のインディアンを虐殺していた。ラッセルはこれを重大事として報告したが、アメリカの左派や親マルクス主義者の論陣はこれを認めず、ラッセルを批判した。全米を分けた世論の中、AIMでも共産党系サンディニスタ民族解放戦線と MISURASATA の支持派に分かれた。 またこの時期、ラッセル個人はAIMとは歩調の違うラリー・フリント、統一教会、リバタリアン党などに賛同していた。ミーンズはAIM内のこうした不和について、「残念ながら、程度は個人個人で異なるが、私たちは皆、植民地化されてきた。 それらの意見の相違は、誤って導かれたエゴから始まったものだ」と述べている。インディアンの社会は縦割りの上意下達文化を持たず、白人のように「一人の指導者」によって統率されるような習慣はない。 1988年にAIM本部を離れたのち、6月25日、インディアンの戦功を無視したリトルビッグホーンの戦いの記念碑のそばに、「インディアン戦士の記念碑」を設置する抗議行動を行う。 1991年、アルコール依存症で入院。退院後、マーヴィン・ウルフの協力のもと自伝書『Where White Men Fear to Tread』に取り掛かる。 1994年春、AIM共同創設者クライド・ベルコートは、1972年に提訴した「クリーブラント・インディアンス訴訟」の原告団が35,000ドルで和解に応じたことで、「AIMを売った」とラッセルを責めた。これに対して、ラッセルは現在の反インディアン・マスコット団体である「アメリカインディアン反名誉棄損連盟」は何も賠償金を受け取っていないと反論している。 晩年はおもにAIMコロラド支局で、反コロンブス・デー抗議などで積極的に働いた。また、ラコタ共和国やインディアンの銀行設立構想にも関わった。映画の出演料で、ラコタ族の文化を子供たちに教える学校を設立しており、またパイン・リッジ保留地に、ブラックヒルズでの「イエローサンダー・キャンプ」のような、若者向けの霊的なキャンプを行う「宇宙の大学」(the University of the Universe)と呼ぶ学校を計画した。 三度離婚しており、子供は10人いる。4人目の妻はナバホ族インディアンの教師、ロデオ師のグロリア・グラント。 2012年10月22日、サウスダコタ州ポーキュパイン(英語版)で死去。72歳没。
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