AIMへの参加とは? わかりやすく解説

AIMへの参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 18:24 UTC 版)

レオナルド・クロウドッグ」の記事における「AIMへの参加」の解説

1967年に、元オグララ部族会議議長のボブ・バーネットや父ヘンリーレイムディアーらとニューヨーク出向く。これはスー族保留地勝手に毛皮乱獲行っている「バックスキン・カーテン社」への抗議と、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア主催の「平和大行進」に参加するめだったレイムディアーヘンリーキング牧師の隣に座り演説の場に加わったレオナルドたちは白人友人リチャード・アードスの家に泊まり様々な黒人運動家グループ交流深めた1969年暮れに、「アメリカインディアン運動」(AIM)のデニス・バンクスがミネソタからサウスダコタ「クロウドッグ・パラダイス」訪ねてきた。デニスは「インディアン権利運動に、霊的な後ろ盾欲しい」とヘンリー頼みこみ、「スウェット・ロッジ」の儀式受けて帰った以後レオナルドAIM理念意気投合しミネソタ本部コロラド州デンバー支部赴いてクライド・ベルコートヴァーノン・ベルコート、エディー・ベントン・バナイ(オジブワ族)、リーマン・ブライトマン、ラッセル・ミーンズジョン・トルーデルスー族)、スタン・ホルダー(ウィチタ族)たちと会った。彼らに「AIMのメディスンマンになってくれ」と頼まれレオナルドは、AIMとともにインディアン権利回復運動に身を捧げることを誓った1971年AIMのデニス・バンクス、クライド・ベルコートラッセル・ミーンズ「クロウドッグ・パラダイス」開かれたサンダンスの儀式」で、レオナルドとともにピアッシングの苦行」を行った。これは自らの痛みを「大いなる神秘」に捧げる誓い儀式であり、ここにAIMスー族伝統派正式に連携関係となったレオナルド始めレイムディアーヘンリー、ビル・イーグルフェザーらスー族伝統派呪い師たちは、AIMインディアンたちにインディアン儀式のすべてを伝授した1972年11月AIM決行した「破られた条約のための行進」、「BIA本部ビル占拠抗議」や、レイモンド・イエローサンダー、ウェズリー・バッドハートブルの殺害抗議など、AIM行動をメディスンマンとして支援

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AIMへの参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 08:37 UTC 版)

ラッセル・ミーンズ」の記事における「AIMへの参加」の解説

1971年ビルデイス兄弟とともにミーンズ三兄弟」として、正式にAIMメンバーとなる6月、再びラッセルらはラシュモア山占拠AIM老若男女インディアンたちは連邦記念碑である「大統領の顔」の上AIMスー族国旗掲げ1か月を超す長期野営抗議行ったこの際ラッセルらはジョージ・ワシントンの「顔」に小便をかけて見せ、岩に「レッド・パワー、インディアン土地」と赤い塗料大書したこの年スポーツ界の「インディアン・マスコット問題にも取り組み、「ワフー酋長」の意匠廃止巡ってプロ野球球団クリーブランド・インディアンス告訴原告団に加わり、「ワフー意匠インディアン品位汚している」として、900ドル損害賠償訴訟行っている。 1972年、「ワフー訴訟」に反発するクリーブランド・インディアンスファンから猛抗議を受け、クリーブランドのインディアン・センター所長辞任サウスダコタに戻る。 この年AIMによるワシントンD.C.への抗議行進「破られた条約のための行進」参加。この抗議行動インディアン管理局BIA本部ビル占拠発展しリチャード・ニクソン大統領調停が入る一大事となった(→BIA本部ビル占拠抗議)。ラッセルは「メディアインディアン無視している」と報道陣訴え、彼らは激し抗議行動マスコミ訴えかける戦法取ったデニス二人でBIA汚職証拠となる書類ごっそり運び出したラッセルは、各保留地部族議長腐敗BIAとの癒着公開しBIA激怒させた。この占拠抗議の後、ラッセルはこう宣言した。 「我々は、巨大な狼煙上げたのだ」 1973年スー族のパインリッジ・インディアン保留地は、部族会議議長ディック・ウィルソンによって私物化され、ウィルソン私設暴力団スー族との内戦状態にあり、また部族民はすさまじ白人からの差別と暴力の下にさらされていた。スー族同胞白人グループ面白半分に虐殺され抗議運動白人警察によって弾圧されラッセル白人保安官によって名指し暴行を受け、逮捕拘留された。 2月26日、パインリッジのオグララで、フールス・クロー酋長呼びかけ長老酋長による大集会開かれたスー族以外のAIMメンバー加わった緊急集会で、スー族女たちAIM力を貸してくれるよう頼んだAIMはこれを快諾しパイプ儀式行ってウーンデッド・ニーまでの抗議行進決行全会一致決定したラッセルは各酋長世話役)との連絡役とスポークスマン任じることとなった。この抗議行進は、ついにはウーンデッド・ニー占拠抗議」、「オグララ国独立宣言」に発展州兵FBI介入し戦車戦闘機まで投入される一大事となって全米衝撃与えた。 パインリッジの部族会議議長として部族民をテロ弾圧していたディック・ウィルソンについて、占拠抗議参加したスー族伝統派呪い師レオナルド・クロウドッグは「白人インディアン混血、あるいはインディアンですらなかったかもしれない」と述べている。ウィルソンラッセル賞金首にして、次のように発表した。 「懸賞金ラッセル・ミーンズ三つ編み、ひとつ50ドル、ふたつで300ドルラッセル・ミーンズ首付き塩漬けなら1000ドル部族政府まで連絡されたし」 ラッセルニクソン大統領との交渉のため、ワシントン訪れた足止めされ、占拠抗議インディアン2人死者出して1973年5月8日撤退となった占拠後、ウィルソン部族議長連邦政府AIM対すテロ強化し次々と占拠メンバー暗殺された。 1973年10月ノースダコタのスタンディングロック保留地訪問した際に、BIA警官によって背後から肝臓撃たれ重傷負ったが、命は取り留めたこのあと6年間で、ラッセルは4回、白人による射殺刺殺危機乗り越えた1974年1月2日連邦政府FBIは、「ウーンデッド・ニー占拠主導者統一裁判」として、ミネソタ州セントポールラッセル・ミーンズ、デニス・バンクスの二人連邦訴追した。連邦政府AIMを「国家反逆犯罪者集団」として反AIMキャンペーン行っており、この二人断罪ようとしたのである。オグララ族のペドロ・ビソネットはBIA射殺されスー族呪い師レオナルド・クロウドッグと、AIM主導者一人クライド・ベルコート別件逮捕され別法廷で被告となっていた。 9か月にわたる裁判にはビル・クンスラーやマーク・レーンら、著名な人権派弁護士がつき、違法盗聴偽証など、FBIの不正が次々明るみ出た9月15日、フレッド・ニコルス裁判長FBI司法省対す激し批判怒りの弁を読み上げラッセルデニス完全無罪判決下したこの年ラッセル生まれ故郷のパインリッジ保留地部族会議議長立候補現職のディック・ウィルソンに200余りの差をつけたが、ウィルソンは不正と脅迫によってこれを無効とし、連邦裁判所再選挙要求無視した1975年酒場での喧嘩殺人犯したとして起訴された。ビル・クンスラーが弁護につき、陪審1976年8月6日殺人告発解いた1977年アメリカ合衆国インディアン権利問題国際的に訴えるため、国連に「国際インディアン条約会議」を設立。またパインリッジ・インディアン保留地で、スー族によるラジオ局「KILI」や、「ポーキュパイン健康診療所」の組織化進めたこの年11月に、1973年の「カスター騒乱」の廉で有罪とされ、サウスダコタ州刑務所1ヵ月服役したこの際刑務所内で心臓近くナイフ刺され重傷負った1980年7月に、ラッセル彼の言葉をより広く知らしめるためとして、『For America to Live, Europe Must Die』(アメリカ生きるためにヨーロッパは死ななければならない)とする有名な演説行い、「アメリカインディアン伝統を守ることでヨーロッパ化を避けるべきだ」と訴えたラッセルは、キリスト教資本主義を含むヨーロッパ知的伝統批判し、「白人宇宙を非スピリチュアルなものにした」とし、ヨーロッパ伝統的なマルクス主義アメリカインディアン問題を何も解決しない警告した。彼は次のように述べている。 私は『指導者』ではない。私はオグララ・ラコタの愛国者だ。それは、私がそうありたいと望むすべてであり、私はそうあることで、とても心が安まるのです。 1981年4月ラッセルAIMグループラコタ族伝統派が、サウスダコタ州ビクトリアクリーク渓谷にある連邦政府土地で、「ブラックヒルズ返還第1段階」としてティピー野営張った。この野営は、白人虐殺されスー族レイモンド・イエローサンダーの名をとって、「イエローサンダー・キャンプ」と名付けられた。米国森林サービス局は野営のための土地使用拒否したため、彼らは1978年制定の「アメリカインディアン宗教の自由法」に対す侵害であるとして連邦告訴した1985年に、ドナルド・オブライエン判事はこの野営有利な判決下したが、控訴審では逆転敗訴した。 1980年代に、AIM運動における霊的な扱い巡って、数派に分かれた。またもう一つ理由は、ニカラグア圧政下にあるミスキート族インディアン対す支援の是非によるもので、ラッセルミスキート族インディアン一派「MISURASATA(YATAMA)」を支持した。この団体コントラ関連していたので、ラッセル1985年翌年ニカラグア東に実情調査赴いた現地では、サンディニスタ民族解放戦線爆撃行い多数インディアン虐殺していた。ラッセルはこれを重大事として報告したが、アメリカ左派や親マルクス主義者論陣はこれを認めずラッセル批判した全米分けた世論の中、AIMでも共産党サンディニスタ民族解放戦線と MISURASATA の支持派分かれた。 またこの時期ラッセル個人AIMとは歩調の違うラリー・フリント統一教会リバタリアン党などに賛同していた。ミーンズAIM内のこうした不和について、「残念ながら程度個人個人異なるが、私たちは皆、植民地化されてきた。 それらの意見の相違は、誤って導かれエゴから始まったものだ」と述べている。インディアン社会縦割りの上下達文化持たず白人のように「一人指導者」によって統率されるような習慣はない。 1988年AIM本部離れたのち、6月25日インディアン戦功無視したリトルビッグホーンの戦い記念碑のそばに、「インディアン戦士記念碑」を設置する抗議行動を行う。 1991年アルコール依存症入院退院後、マーヴィン・ウルフの協力のもと自伝書『Where White Men Fear to Tread』に取り掛かる1994年春、AIM共同創設者クライド・ベルコートは、1972年提訴した「クリーブラント・インディアンス訴訟」の原告団が35,000ドル和解応じたことで、「AIM売った」とラッセル責めた。これに対してラッセル現在のインディアン・マスコット団体である「アメリカインディアン名誉棄損連盟」は何も賠償金受け取っていないと反論している。 晩年はおもにAIMコロラド支局で、反コロンブス・デー抗議などで積極的に働いたまた、ラコタ共和国インディアン銀行設立構想にも関わった。映画の出演料で、ラコタ族文化子供たち教え学校設立しており、またパイン・リッジ保留地に、ブラックヒルズでの「イエローサンダー・キャンプ」のような若者向け霊的なキャンプを行う「宇宙大学」(the University of the Universe)と呼ぶ学校計画した三度離婚しており、子供10人いる。4人目の妻はナバホ族インディアン教師ロデオ師のグロリア・グラント。 2012年10月22日サウスダコタ州ポーキュパイン英語版)で死去72歳没。

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