AIMの創設とは? わかりやすく解説

AIM(アメリカ・インディアン運動)の創設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 19:20 UTC 版)

ネイティブ・アメリカン」の記事における「AIMアメリカ・インディアン運動)の創設」の解説

レッド・パワーの中でも1968年7月29日にデニス・バンクス(Dennis Banks)や、クライド・ベルコートClyde Bellecourt初代AIM代表)ら、大学教育受けていない、貧し地域出身若者によって創設された、アメリカ・インディアン運動AIM)が知られている。 ミネソタ州刑務所出合い、二年にわたり構想をまとめたオジブワ族バンクスやベルコートたちは、釈放後、ミネアポリス結成大会開きインディアン権利回復のためのさまざまな活動始めた当初、この団体名は「CIAC(憂慮するインディアン協議会)」だったが、「CIA」と読み重なることに異議出て9月現在のAIM」に改められた。「AIM」の命名は、インディアン女性メンバーの「男性は何でも目標Aim)、目標発言しているのだから、AIMにしたらどうですか」という発言よる。 彼らは前述団体とは違い、自ら「スキンズ」と名乗りAIMジャケットや、「インディアンの力」、「インディアン誇りと書かれたバッジ着け、髪を伸ばして編みビーズや骨の首飾りをし、髪や帽子羽根をつけた。AIM若者達は霊的な後ろ盾を得るために、自ら伝統派のメディスンマンたちを探し協力求めた。彼らは同化政策によって言語や文化奪われた世代であり、伝統的な宗教儀式実践によって、インディアンとしての民族性回帰強調したことが大きな特徴だった。 指導者達はまず1970年スー族伝統派宗教者達の支持得て古来宗教儀式実践した1971年には「サン・ダンス」のピアッシング誓い立て、「ゴースト・ダンス」を復活させた。スー族からはレオナルド・クロウドッグLeonard Crow Dog)たち多数オジブワ族からはエディー・ベントン(Eddie Benton-Banai)、オクラホマのムスコギー族からはフィリップ・ディアー(Phillip Deere)といった、すでに数少なくなっていた伝統派のメディスンマンが、彼らを精神的に支えた。 彼らはメディア訴えかける戦術取りさまざまな組織との共闘支援行った。彼らはポンカ族の女性運動家ハープ・ポーズの提唱によって全員禁酒誓い立てアルコール溺れ若者たちを「インディアン戦士」に甦らせた。彼らの抗議行動は、「大集会開き人々共感集める」、「争点徹底的に明確にする」の二点に絞られ、反暴力主義掲げた組織統治アドバイザーには、イロコイ連邦のオノンダーガ族指導者のオレン・ライオンズ(Oren Lyons)がついた。 1969年11月には、ミネアポリス第一回全米インディアン教育会議」が開催され数千規模インディアン全米から参加AIMもこれに合流しラッセル・ミーンズや、大学教授リー・ブライトマン(Lee Brightman)らスー族活動家たちがAIM加わったAIMは「教育問題委員会」を結成しアメリカ標準歴史教材なかでも差別的なミネソタ北の星」の永久使用禁止要求して教育委員会提訴しインディアンを「野蛮人扱いした教科書差別表現削除併せ、これを実現させた。インディアンの子供たちは、白人学校入学させられても、これら差別的な教科書内容嫌気がさす場合があり、退学してしまうこともあった。また、チャック・ロバートソンによって、「インディアン寄宿学校」への対抗として、「インディアンによるインディアン児童への言語歴史文化芸術伝統教育」を行うべく、1970年に「生存学校(サバイバル・スクール)」の第一号がミネアポリス開設された。1975年には、ハンク・アダムスによって「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」が結成され、この動き他州カナダにも波及していった。 また、これまで黒人に対してと同様、闇の中隠蔽されてきた、保留地での白人警官によるインディアン対す暴力対しAIMは「警察対策委員会」を結成パトロール自警団組織して白人警官による暴力行使現場写真を撮るという作戦裁判起こし揉み消し許さず警官暴力行為自粛させていった。またさらにインディアン警察官採用要求などを実現させた。 メアリー・ジェーン・ウィルソンらAIM女性メンバーは、裁判官陪審員ソーシャル・ワーカーらの思考や対応がいかに白人中心であり、教育・医療分野でいかにインディアン不当な扱い受けているかの啓発注力し、「善意」の名のもとに白人が行っている「里親制度」などの撤廃要求したAIMミネアポリスでの結成ののちに、オハイオ州クリーブランド組織拡大行い当初オジブワ族けだったメンバーも、他部族若者次々参加していき、クリーブランドミルウォーキーシカゴ、キャスレイク、ローズバッド保留地デンバーオクラホマシティシアトルオークランドサンフランシスコロサンゼルスなど、全米支局増やしていった。こうしたなか、ワシントンDCBIAビル占拠サウスダコタ州ウンデット・ニーブラックヒルズ返還要求して占拠したり、1500人以上のインディアンによる抗議運動として、サンフランシスコからワシントンまで行進するなど大規模な行動次々実行していった。(→破られ条約行進) デニス・バンクスは、これらAIM運動について、こう発言している。「我々はこの大陸のもとからいる地主だ。その地主が、地代集め始めただけのことだ。」 これらの運動は、保守派白人にとっては過激で、黒人運動団体ブラックパンサー党」とも連携したその運動は、武力弾圧されるようになっていった。なかでも大きな反響呼んだウンデッド・ニー占拠事件」は、占拠解除後にAIM連邦FBIとの熾烈な法廷抗争」に発展し以後、州・連邦政府AIMを反国家的犯罪集団とする、反AIMキャンペーン強めていった。1973年から76年までに、AIMと関係のあるインディアン300人が、オグララ族議長ウィルソン私設暴力団と、FBIによって放火銃撃され少なくとも「67人が死亡」している。AIM狩り先頭立った州司法長官のウィリアム・ジャンクロー(インディアン少女への強姦暴行で、AIMから提訴された)は、インディアン運動激しく批判した当時1960年代インディアン取り巻状況は、まさに民族消滅の危機瀕するのだったさまざまなインディアン権利剥奪され数々部族絶滅認定されていた。ラッセル・ミーンズメイフラワー号抗議行動の中で、自身たちを「絶滅寸前種族」と呼称した。レッド・パワー運動はそうしたなかで起こるべくして起こった市民運動だった。

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