AIM(アメリカ・インディアン運動)の創設
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「ネイティブ・アメリカン」の記事における「AIM(アメリカ・インディアン運動)の創設」の解説
レッド・パワーの中でも1968年7月29日にデニス・バンクス(Dennis Banks)や、クライド・ベルコート(Clyde Bellecourt、初代AIM代表)ら、大学教育を受けていない、貧しい地域出身の若者によって創設された、アメリカ・インディアン運動(AIM)が知られている。 ミネソタ州の刑務所で出合い、二年にわたり構想をまとめたオジブワ族のバンクスやベルコートたちは、釈放後、ミネアポリスで結成大会を開き、インディアンの権利回復のためのさまざまな活動を始めた。当初、この団体名は「CIAC(憂慮するインディアン協議会)」だったが、「CIA」と読みが重なることに異議が出て、9月に現在の「AIM」に改められた。「AIM」の命名は、インディアン女性メンバーの「男性は何でも目標(Aim)、目標と発言しているのだから、AIMにしたらどうですか」という発言による。 彼らは前述の団体とは違い、自ら「スキンズ」と名乗り、AIMのジャケットや、「インディアンの力」、「インディアンと誇り」と書かれたバッジを着け、髪を伸ばして編み、ビーズや骨の首飾りをし、髪や帽子に鷲の羽根をつけた。AIMの若者達は霊的な後ろ盾を得るために、自ら伝統派のメディスンマンたちを探し、協力を求めた。彼らは同化政策によって言語や文化を奪われた世代であり、伝統的な宗教儀式の実践によって、インディアンとしての民族性回帰を強調したことが大きな特徴だった。 指導者達はまず1970年にスー族の伝統派宗教者達の支持を得て、古来の宗教儀式を実践した。1971年には「サン・ダンス」のピアッシングの誓いを立て、「ゴースト・ダンス」を復活させた。スー族からはレオナルド・クロウドッグ(Leonard Crow Dog)たち多数、オジブワ族からはエディー・ベントン(Eddie Benton-Banai)、オクラホマのムスコギー族からはフィリップ・ディアー(Phillip Deere)といった、すでに数少なくなっていた伝統派のメディスンマンが、彼らを精神的に支えた。 彼らはメディアに訴えかける戦術を取り、さまざまな組織との共闘・支援を行った。彼らはポンカ族の女性運動家ハープ・ポーズの提唱によって全員が禁酒の誓いを立て、アルコールに溺れる若者たちを「インディアン戦士」に甦らせた。彼らの抗議行動は、「大集会を開き、人々の共感を集める」、「争点を徹底的に明確にする」の二点に絞られ、反暴力主義を掲げた。組織統治のアドバイザーには、イロコイ連邦のオノンダーガ族指導者のオレン・ライオンズ(Oren Lyons)がついた。 1969年11月には、ミネアポリスで第一回「全米インディアン教育会議」が開催され、数千人規模のインディアンが全米から参加。AIMもこれに合流し、ラッセル・ミーンズや、大学教授リー・ブライトマン(Lee Brightman)らスー族の活動家たちがAIMに加わった。AIMは「教育問題委員会」を結成し、アメリカの標準歴史教材のなかでも差別的な「ミネソタ・北の星」の永久使用禁止を要求して教育委員会を提訴し、インディアンを「野蛮人」扱いした教科書差別表現の削除と併せ、これを実現させた。インディアンの子供たちは、白人の学校に入学させられても、これら差別的な教科書内容に嫌気がさす場合があり、退学してしまうこともあった。また、チャック・ロバートソンによって、「インディアン寄宿学校」への対抗として、「インディアンによるインディアン児童への言語・歴史文化・芸術と伝統の教育」を行うべく、1970年に「生存の学校(サバイバル・スクール)」の第一号がミネアポリスに開設された。1975年には、ハンク・アダムスによって「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」が結成され、この動きは他州やカナダにも波及していった。 また、これまで黒人に対してと同様、闇の中に隠蔽されてきた、保留地での白人警官によるインディアンに対する暴力に対し、AIMは「警察対策委員会」を結成。パトロール自警団を組織して、白人警官による暴力行使の現場写真を撮るという作戦で裁判を起こし、揉み消しを許さず、警官の暴力行為を自粛させていった。またさらにインディアンの警察官採用要求などを実現させた。 メアリー・ジェーン・ウィルソンらAIM女性メンバーは、裁判官や陪審員、ソーシャル・ワーカーらの思考や対応がいかに白人中心であり、教育・医療の分野でいかにインディアンが不当な扱いを受けているかの啓発に注力し、「善意」の名のもとに白人が行っている「里親制度」などの撤廃を要求した。 AIMはミネアポリスでの結成ののちに、オハイオ州クリーブランドで組織拡大を行い、当初オジブワ族だけだったメンバーも、他部族の若者が次々参加していき、クリーブランド、ミルウォーキー、シカゴ、キャスレイク、ローズバッド保留地、デンバー、オクラホマシティ、シアトル、オークランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスなど、全米に支局を増やしていった。こうしたなか、ワシントンDCのBIAビルの占拠やサウスダコタ州のウンデット・ニーやブラックヒルズの返還を要求して占拠したり、1500人以上のインディアンによる抗議運動として、サンフランシスコからワシントンまで行進するなど大規模な行動を次々に実行していった。(→破られた条約の行進) デニス・バンクスは、これらAIMの運動について、こう発言している。「我々はこの大陸のもとからいる地主だ。その地主が、地代を集め始めただけのことだ。」 これらの運動は、保守派の白人にとっては過激で、黒人運動団体「ブラックパンサー党」とも連携したその運動は、武力で弾圧されるようになっていった。なかでも大きな反響を呼んだ「ウンデッド・ニー占拠事件」は、占拠解除後にAIMと連邦・FBIとの熾烈な「法廷抗争」に発展し、以後、州・連邦政府はAIMを反国家的犯罪集団とする、反AIMキャンペーンを強めていった。1973年から76年までに、AIMと関係のあるインディアン約300人が、オグララ族議長ウィルソンの私設暴力団と、FBIによって放火・銃撃され、少なくとも「67人が死亡」している。AIM狩りの先頭に立った州司法長官のウィリアム・ジャンクロー(インディアン少女への強姦と暴行で、AIMから提訴された)は、インディアンの運動を激しく批判した。 当時、1960年代のインディアンを取り巻く状況は、まさに民族消滅の危機に瀕するものだった。さまざまなインディアンの権利が剥奪され、数々の部族が絶滅認定されていた。ラッセル・ミーンズはメイフラワー号抗議行動の中で、自身たちを「絶滅寸前の種族」と呼称した。レッド・パワー運動はそうしたなかで起こるべくして起こった市民運動だった。
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