AIMメンバーとなる
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「レナード・ペルティエ」の記事における「AIMメンバーとなる」の解説
1958年から、合衆国はタートルマウンテン保留地の保留解消を試み、多くの部族民が都市部へと移住させられた。1965年に、レナードはワシントン州シアトルに転居し、数年間自動車工場で働いた。レナードはアメリカインディアンの権利運動に熱中するようになり、「アメリカインディアン運動」(AIM)のメンバーとなった。1968年にミネソタ州のオジブワ族が結成したAIMは、直接的な抗議行動でインディアンの権利回復を要求し、全米にその運動を展開していた。 1970年、ワシントン州のロートンで、インディアンの土地に開設された米軍の廃基地の返還要求抗議をAIMや地元のインディアンが行い、レナードも座り込み占拠に参加した。 1972年、AIMはデニス・バンクスの発案で、ワシントンD.Cまでのインディアンによる平和的な抗議デモである「破られた条約のための行進」を行った。レナードはこの抗議行進で、、ウィスコンシン州ミルウォーキー地域での取りまとめ役を任じた。抗議行進は終着地ワシントンD.Cで、「BIA本部ビル占拠抗議」となり、この占拠抗議では、治安調整役を務めた。「BIA本部ビル占拠」は、BIAや内務省を激怒させ、AIMは合衆国と激しい対立状態となった。BIA本部ビル占拠後にミルウォーキーに戻ったレナードは、二人の白人非番警官から暴行を受け、抵抗したために殺人未遂罪で起訴され有罪となり、5ヶ月間投獄された。 1972年4月にサウスダコタ州の「パインリッジ・インディアン保留地」のオグララ族部族議長となった白人とスー族の混血のディック・ウィルソンは、独裁体制を強め、レッドネックを多数含んだ私設武装暴力団「オグララ国守護隊(Guardians of the Oglala Nation)」を組織し、オグララ族に対するテロ弾圧を始めた。これに対し、合衆国BIAの傀儡である「部族会議」に反発し、伝統的なインディアンの共同体を保持する「伝統派」たちは、彼らを「グーンズ」(GOONs、愚か者)」と呼び、ウィルソン弾劾の姿勢を強めた。パインリッジ保留地は二分され、グーンズによって日夜銃弾がオグララ族に浴びせられ、ここまでで60人以上が殺害される市民戦争、内戦状態となっていた。 1973年2月、パインリッジ保留地ではスー族女性の呼びかけで、対ウィルソン弾劾組織「オグララ・スー権利組織」(Oglala Sioux Civil Rights Organization=OSCRO)が結成され、AIMは「OSCRO」の直接援助要請を受け、レナードもAIMメンバーとしてデニス・バンクスやラッセル・ミーンズらとともにパインリッジ保留地をたびたび訪れた。
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AIMメンバーとなる
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「フロイド・ウェスターマン」の記事における「AIMメンバーとなる」の解説
1968年、「インディアン横丁」仲間の、デニス・バンクスらミネアポリスのオジブワ族インディアンの若者たちが、インディアンの権利回復要求のための団体「アメリカインディアン運動」(AIM)を旗揚げしたのに伴い、フロイドもそのメンバーとなった。 1970年には、クライド・ベルコート、デニス・バンクス、ラッセル・ミーンズ、ジョン・トルーデルとともに、AIMの中心的人物となった。AIMが全米に名をとどろかせることになった、11月26日の「反感謝祭抗議」では、大勢のメンバーとともにニューイングランド・プリマスで「メイフラワー2世号」を占拠してAIMの旗を揚げ、プリマス・ロックを砂で埋め、「清教徒上陸350周年」の祝賀祭をぶち壊して見せた。以後、AIMが行った数々の抗議運動を共にする。 1974年6月、アメリカ合衆国におけるインディアン民族の権利問題を国際的に訴えるため、AIMがサウスダコタ州「スタンディングロック・インディアン保留地」で「国際インディアン条約会議」(IITC)を結成。フロイドは創立時より晩年まで、IITCの親善大使を務めた。 AIMの活動では、ことに環境問題に熱心に取り組み、インディアン保留地での核物質の採掘による放射能汚染問題を巡って、1992年にオーストリアで開かれた「世界ウラニウム公聴会」に出席、証言を行っている。
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AIMメンバーとなる
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「ジョン・トルーデル」の記事における「AIMメンバーとなる」の解説
「アルカトラズ島占拠」の間に、ジョンはAIMに参加した。ジョンの雄弁さに敬服していたデニス・バンクスはこれを聞いて、「クライド・ベルコートと二人で大喜びした」と語っている。以後、デニス・バンクス、ラッセル・ミーンズ、クライド・ベルコート、フロイド・ウェスターマンらとともに、AIMの中心的主導メンバーとなる。 1970年、11月26日の感謝祭に合わせた「ニューイングランド入植350周年」のイベントで、「プリマスの岩とメイフラワー号2世乗っ取り抗議」などを主催。「白人による侵略開始の象徴」である「プリマスの岩」を、ペンキで真っ赤に塗って見せた。1972年、AIMが決行した「破られた条約のための行進」に参加、その後の「BIA本部ビル占拠抗議」では二日目から参加し、占拠団の一人となった。翌1973年の「ウーンデッド・ニー占拠」にも参加した。 1971年、ネバダ州の「ダック湖畔インディアン保留地」でパイユート族・ショーショーニー族のティナ・マニングと出会い、彼女と再婚する。ティナは部族の主権について積極的に関わる運動家だった。 1973年から1979年まで6年間、AIMの全国委員長を務めた。1975年、ネバダの保留地の交易所に食券(インディアン条約に基づく支給年金)で食料を買おうとして拒否され、このとき発砲したとして逮捕される。 1976年以降、FBIによって逮捕されたレナード・ペルティエに代わってAIMの調整役を務めた。1969年から1979年にかけて、FBIはジョンについて1万7千頁に上る調査書類を作成し、彼が「非常に知的で、したがって、非常に危険である」と結論付けている。
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