差別と暴力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 00:55 UTC 版)
ペトルーキオがカタリーナを食べさせない、眠らせないといった手法で従順な女に変身させるという筋は現代的なフェミニスト批評の文脈で批判されることが多いが、本作の暴力性、差別はより以前から注目されていた。リンダ・ブースは、ジョン・フレッチャーが1611年頃に本作の続編『女の勝利、またの名じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』(The Tamer Tamed)を発表したことなどに着目し、『じゃじゃ馬ならし』はシェイクスピアの時代の基準からしても必ずしも観客にとって居心地が良い芝居ではなかった可能性を考え、バーバラ・ホジドンは、どのような演出の下でも最後の場面が観客に「幸せな強姦とでもいうような場面」と受け取られる可能性があることを念頭におかなければならないと指摘した。 またジョージ・バーナード・ショーはこの芝居について「まともな感情を持った男であれば、賭けや女自身の口から発せられる演説に示されている、偉ぶった男どものモラルに強く恥じ入ることなしには、女とともに芝居を終わりまで見ていることはできない」と述べ、『じゃじゃ馬ならし』への批判を反映する戯曲『ピグマリオン』を執筆した。 一方で、ペトルーキオがカタリーナを変身させるために非常に苦労したことを強調したり、カタリーナがペトルーキオの調子に合わせたことに着目し、本作が差別的作品であるという分析に論駁する批評があり、こうした解釈に基づく上演も存在する。キャロル・トーマス・ニーリーはカタリーナとペトルーキオの関係性に関して、暴力性よりは2人の間に愛が介在していることを強調する分析を行っている。また、カタリーナとペトルーキオが両方とも世間に居場所がなく問題をかかえた孤独な若者であり、2人が心を通わせるまでの課程が重要であると考える批評や上演も存在する。
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