差別とされなかった表現の例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:24 UTC 版)
「部落問題」の記事における「差別とされなかった表現の例」の解説
松本治一郎は、1952年(昭和27年)7月、徳川夢声との対談で「『部落』と書こうが『エタ』といおうが、問題じゃないんです。……その前後に差別の意味が加わってさえいなけりゃ、少しも問題はないわけですよ。それを糾弾するというのは、ことさらためにしようとするハシッパのもんです。……悪い奴にかかると、やっぱりヘンなことが生ずる」と語り、差別表現として糾弾するか否かはその語が差別的文脈で使われているか否かによるという見解を示したが、1948年(昭和23年)には松本自身が「私は三百万部落民の水平運動から、さらに数歩をすすめて、いわば世界の特殊部落におちこんだ八千万日本人民の水平運動をおこしたいと考えているのだ」と述べ、特殊部落という語を差別的文脈で使用していた。しかしこれは糾弾の対象とならず、松本自身も自己批判しなかった。 1952年(昭和27年)8月20日、『解放新聞』は「おじいさん達も斗つた─八十一回目の解放令記念日を迎え」と題する山村槙之助の記事を載せた。この記事の中では「再軍備と植民地化に反対し、民族の解放を斗いとることが、外国帝国主義と国内反動のために世界の特殊部落になれはてた日本民族全体の死活の問題として切実に出されてきている」と、やはり特殊部落という語が差別的文脈で使われていた。しかし、これもやはり糾弾の対象とならず、『解放新聞』も山村も自己批判しなかった。 1966年、丸山眞男が鼎談集『現代日本の革新思想』(河出書房新社)の中で「とかく左翼インテリの論議は、現実の勢力配置をそっちのけにして、せまいイデオロギー的"部落"のなかでワイワイやることになりがちですからね」と発言。しかし糾弾の対象とならず、読者の呉智英は「釈然としない気持ちだった」と回想している。 1970年、大江健三郎はルポルタージュ『沖縄ノート』の中で、集団自決を強制したとされている元守備隊長を「屠殺者」と表現した。この件について、「世界屠畜紀行」(解放出版社)の作者・内澤旬子は「誤植……じゃないよなあ」「屠場労働組合がまさに糾弾対象としている使われ方にドンピシャリ」と驚きを示した(2007年12月3日付の著者ブログ)。また、評論家の呉智英は「部落解放同盟などは「だれだれの作品だから差別はないと“神格化”したものの考え方を一掃したい」と言明した」「だが『沖縄ノート』は一度も糾弾されずに今も出版され続けている。大江健三郎に限ってなぜ糾弾から免責されるのか。大江健三郎のみ“神格化”される理由は何か。かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか。知らなかったと言うのなら、それは許す。だが、今知ったはずだ。岩波書店、部落解放同盟にはぜひ説明していただきたい」 と問題提起した。しかし、今日に至るまで部落解放同盟は大江を一度も糾弾しておらず、その理由も説明していない。 1971年、塚本邦雄が『悦楽園園丁辞典』(薔薇十字社、1971年)p.38で「商業美術といふ画壇の特殊部落で、お前はつひぞ劣等感を感じなかつた」と記述。しかし糾弾には至らなかった。 1981年、中野孝次が『文藝』1981年4月号における対談で「闇を意識しないで、明るみの中だけで書いていると、言葉はどうしても特殊部落的な言葉になっちゃうでしょ、インテリ語というか」と発言。絓秀実はこの発言を自己批判するよう促したが、中野はこれを拒否。その後、部落解放同盟と友好関係にある野間宏が中野孝次と部落解放同盟の間に入り、中野を糾弾しないよう話をつけた、という。 政界においては野中広務が被差別部落の出身として有名であるが、出身に起因する差別や妬みなどがあったと言われている。野中が出馬するという説があった2001年の総裁選では、部落出身であるから内閣総理大臣にはなれないという話も出てきていた(結局野中が所属する平成研究会は橋本龍太郎を擁立した)。こうした中、野中は同党の麻生太郎が差別発言を行ったとして名指しで非難し(野中の著書によれば、新聞記者からの情報があったとされている)、麻生が否定するという一幕もあった。 2010年、森功は講談社発行『g2』12月号の「同和と橋下徹」で橋下徹が同和地区出身であることに言及。一連の橋下同和報道の嚆矢であり、具体的な同和地区名も挙げていたが、部落解放同盟は糾弾しなかった。
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