「AIM」への参加
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「ハンク・アダムス」の記事における「「AIM」への参加」の解説
1972年にデニス・バンクスやラッセル・ミーンズら「アメリカインディアン運動」(AIM)のメンバーがワシントンD.Cまで「破られた条約のための行進」を行い、「インディアン管理局」(BIA)の本部ビルを抗議占拠した際に、ハンクはニクソン政権に対して20カ条の要求書を作った。これはインディアン部族を本来の連邦条約のもと、合衆国と対等な立場で自立した国家に立ち返らせるための目標で、そのままこの20カ条は「AIM」の基本綱領となった。この「AIM」による「BIA本部ビル占拠抗議」と、全米を震撼させた1973年の「ウーンデッド・ニー占拠抗議」で、ハンクは交渉者として重要な役目を果たした。 「ウーンデッド・ニー占拠抗議」では、ハンクはオグララ族のフールズクロウ酋長とホワイトハウスとの間を取り持った。ホワイトハウスの側近は、「非常に難しい問題の、平和的な解決におけるハンク・アダムズの役割は、私の心にまだ鮮やかに残っている」と語っている 。ハンクはこの占拠抗議で裏方に徹したが、この働きに関して彼自身はこう述べている。「いくつか不慮の事態を防いだということは、あなたが実際に成し遂げたことの多くと同じくらい重要なことです」。
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「AIM」への参加
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「ヴァーノン・ベルコート」の記事における「「AIM」への参加」の解説
ミネアポリスではその頃、弟のクライド・ベルコートがデニス・バンクス、ハロルド・グッドスカイ、ジョージ・ミッチェルら刑務所仲間と合流し、新しいインディアンの運動団体「アメリカインディアン運動」(AIM)を結成し、東フランクリン大通りに事務所を構えていた。「AIM」は、ミネアポリス市警の「パティ・ワゴン隊」による「インディアン狩り」対策のため、白人警官によるインディアンへの暴力行為の調査を行っていた。 「インディアン狩り」とは、市警本部が市の奉仕労働に充てるため、毎週末に警官隊「パティ・ワゴン隊」を場末の「インディアン・バー」(インディアンがたむろする酒場)に派遣し、不法にインディアンたちを無差別暴力逮捕していたものである。クライドやデニスは、「ブラック・パンサー党」の「逆パトロール」を参考に、「インディアン・パトロール隊」を結成し、白人警官からインディアンを保護する活動を行っていた。 一度経済的に成功していたヴァーノンだったが、この弟との再会は彼の運命を変えた。ヴァーノンは髪を三つ編みにし、ネクタイを捨てて骨の首飾りを着け、伝統回帰して「AIM」初代代表である弟のクライドとともに、「AIM」を支える運動家となった。「AIM」公式サイトは、ヴァーノンについて、次のように紹介している。 ヴァーノンは、「アメリカインディアン運動」の中心的スポークスマンであり、1972年の「BIA本部ビル占拠抗議」から、1992年の「ワシントン・レッドスキンズ・スーパーボウル」での抗議デモまでの一連の抗議運動の主導者です。彼は、「AIMコロラド支局」の創設者の一人であり、最初の代表です。1973年に彼が関わった「ウーンデッド・ニー占拠抗議」は、連邦政府への告発につながりました。彼は「国際インディアン条約会議」の特別代理人であり、1974年に、最初の条約会議の組織作りに尽力しました。彼は、10万人のインディアンの殺害に抗議するために、グアテマラの大使館に自分の血を振りかけた罪で投獄されました。彼は「白い大地の部族政府」で4年間議員を務め、刑務所のインディアン囚人のための霊的教育のために、模範となるプログラムを開発しました。 またヴァーノンは、「スポーツとメディアの人種差別に関する全国会議」の理事長であり、フェニックス市での1993年度の「マーチン・ルーサー・キング人権賞」の受賞者です。 1972年、「AIM」が決行した「破られた条約のための行進」、続く「BIA本部ビル占拠抗議」で、ヴァーノンはスポークスマンを務め、弟クライド、ラッセル・ミーンズとともに共同記者会見を開いた。 1973年2月、レッドネックに刺殺されたスー族青年ウェズリー・バッドハートブル(当時20歳)の法的措置を巡って、「AIM」がサウスダコタのカスター市裁判所で起こした抗議暴動に参加。連邦から起訴された。続いて「AIM」が「ウーンデッド・ニー占拠抗議」を決行した際には、ヴァーノンはニューハンプシャーのダートマス大学を訪問していて、テレビニュースでこれを知った。ヴァーノンはこのまま講演を続け、各地の保留地の伝統派に支持を呼びかけるほうが得策と判断し、講演旅行を続け、「AIM」のスポークスマンとして占拠資金を募った。したがって、ヴァーノンは占拠地にはほとんど足を踏み入れていない。「ウーンデッド・ニー占拠」の後、インディアンの権利の保護を訴えるため、「AIM」の全国代表としてニューヨークの国連本部で演説を行う。 1974年、「AIM」メンバーによる「国際インディアン条約会議」(IITC)結成に参加。特使として国際的な講演活動を開始。「IITC」は、1977年にはインディアン初の非政府組織として国連に認可された。 1975年、「AIM」メンバーのレナード・ペルティエが、FBI捜査官を殺害したとして逮捕され、その後偽証による起訴によって終身刑宣告される。ヴァーノンも、他の「AIM」メンバーとともにレナードの釈放要求運動に参加。 1980年代に入り、「AIM」はベルコート兄弟と、ラッセル・ミーンズ、デニス・バンクスら創始者の間でイデオロギー論争が生じ、仲違いと分裂の時代を迎えた。このなか、「AIM」女性メンバーアニー・マエ・アクアッシュの暗殺は、「AIM」主導部批判を呼び、ヴァーノンもこれに関与したとの批判を受けている。 「AIM」内の不和のなかも、ヴァーノンは多数のデモに関わり、アメリカ連邦政府が批准していない400以上の条約について、世界各国の大学で講演している。また「IITC」の和平親善大使として各国を歴訪し、パレスチナのヤーセル・アラファトやリビアのカダフィ大佐、ニカラグアのダニエル・オルテガら歴代首脳と会談している。こうした「AIM」での取り組みについて、ヴァーノンは次のように述べている。 「AIM」が1968年にミネアポリスで生まれたとき、それは野火のように他の都市や保留地中に拡がった。私たちの命の木の根がほとんど枯れ、死んだと思われていたなかに、それは強い刺激を与えた。現在、私たちはたいていの場合、若い時分からアルコールと薬物依存に強く関わっている。何を子供たちに渡すかで、我々の将来は大きく左右されるだろう。私たちは自殺を止めなければならない。そして私たちは、私たちを利用する人々に対して、反対意見を述べなければならない。 2007年9月に、ウゴ・チャベス大統領と同地のインディアン部族に対する支援計画を議論するためベネズエラに滞在。この滞在先で体調を崩し、ミネソタに戻った。 2007年10月13日、ミネアポリスのアボット北西病院で、肺炎の合併症のため死去。75歳だった。 葬儀は10月16日にオジブワ族保留地の「白い大地の命の輪学校」で行われ、埋葬は10月17日に、「3つの火協会」によって「白い大地・インディアン保留地」で行われた。妻キャロル・アン・ベルコート(のち離婚)との間に6人の子供がいる。
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