脚本・撮影
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1978年2月から脚本執筆。4月16日~29日ロケハン。小林が「がんじがらめの性愛からヒロインを解放してゆく要因の一つにイランの風土がある。これをどこまで描き切れるかが勝負の別れ目」というほど、イランロケは重要視された。1978年5月1日、作品の後半に当たるイランロケから撮影スタート。当時のイランはイラン革命前の政情不安で、ロケ中もイラン各地で暴動が起きており何度が銃声を聞いた。イラン政府文化省の協力で文化省の役人がスタッフとして同行、ロケ隊は無事だった。イランはアメリカ帰りで合作映画を手掛けた人も多く、文化省の協力でアメリカ製の新鋭機材を借りられた。現地人スタッフ12人を含む総勢40人余でロケ隊が編成された。 イランは5月でも気温は38℃超。また昼夜の激しい温度差にも悩まされた。ロケ隊は、本来飛行機で移動するテヘラン、エスファハーン、シーラーズをロケバスで辿り、時には後戻りして撮影を繰り返した。イランは光が強すぎ撮影できる時間も限られ難しい撮影だったという。監督の小林はこのコースをシナハン、ロケハン、本編撮影、実景撮影と計4回通った。テヘラン市内やクム、カシャーンの砂漠地帯、ペルセポリス他、5月27日までイランロケ。全旅程1000キロを走破し、日本から持ち込んだ25000フィートのフィルムを全部使いきった。 1978年7月、祇園祭で賑わう京都ロケを挟み、6月20日~8月27日、作品の前半に当たるスタジオセットと実景ロケ。9月28日雨の実写を1日だけ撮影し撮影完全終了。編集にもたっぷり時間をかけた。
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脚本・撮影
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 22:23 UTC 版)
大林と脚本のジェームス三木は古典的なアイドル映画作り、その原点たるスター映画の構造を焙り出したいと、敢えて陳腐な話を考えた。評論家筋からも酷評されている。大林演出による"百恵友和コンビ"のグリコCMシリーズも映画と同様に続き、結局二人の出会いから結婚までの7年間続いた。この間、演出側に興味を持っていた友和は大林の横に常に立ち、技術的な質問をしたりし、大林が百恵に友和を見て演技するよう指示した。2~3年たつと百恵の視線が"カット"後も友和から離れなくなった。幼い憧れが恋となり、やがて愛にまで育っていくというCMの企画が、そのまま二人の現実と一体化してしまった。スタッフの間でも百恵が友和に好意を持っていると話題になり、大林もカット尻に百恵の恋心を発見したため、この感情を引用し、カット尻が虚構ではなく、虚構が現実になりつつあるその過程を捉えるという「カット尻の映画」にしてやろうと考えた。シナリオにあるセリフ、動きが終わっても、大林はカットをかけず黙っていた。すると二人はまだ何かをやらなければならない。本作のセリフがないシーンや、何か情景だけのシーンは、シナリオに書かれていることの後のカットを繋いだもの。ラストシーンは最後までカットをかけず、フィルムが無くなって映画が終わる。 ホリプロがせっかくオリジナルでやるのだからと海外ロケを提案し、サンフランシスコだけという条件を出した。このため東京とサンフランシスコを行きつ戻りつしながら撮影が行われ、本作を切っ掛けに山口百恵と三浦友和は結婚にふみきることを決意したといわれる。 山口百恵は本作で初めて上半身のみ、何も纏わず撮影した。
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脚本・撮影
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 15:26 UTC 版)
「女番長ブルース 牝蜂の逆襲」の記事における「脚本・撮影」の解説
皆川は映画になる当てもなく、習作の一つとして東京の友人から先の話を聞かされ、既存の不良たちとは接点を持たず、オートバイに乗る女の集団を取材し、シナリオを書いた。シナリオを天尾に読んでもらった後、『温泉みみず芸者』に助監督に就き、先述のように池主役の次回作が決まったとき、この皆川のシナリオが採用され、皆川と鈴木とでシナリオを練って最終稿ができた。当時、助監督の習作シナリオが映画化される例はほとんどなかったが、皆川が天尾に気に入られていたため採用に至った。池の役名が「玲子」なのは偶然で、池の出演が決まる前に皆川が「玲子」という主人公でシナリオを書いていた。原案としてクレジットされている「小山裕久」は『東映ゲリラ戦記』では「京都の学生を中心としたライダーグループのヘッド」と説明されているが、皆川の親戚という。 スケバンが仁義を切るシーンは実話でなく、ヤクザ映画から頂いたものである。裸の女をバイクに乗せて6台が並走、走りながらインサート、イッたらその場でストップ、そこまでの走行距離で勝負というオートバイセックス(オートバイレース)は実話であるが、先の新宿で取材した集団がやっていたのではなく、小道具のスタッフからそういう状態のまま走ったという話を聞いた皆川が、膨らませて取り入れたもの。鈴木とのシナリオ作りは色々なアイデアが出たという。 鈴木のもとで脚本や助監督を務めた映画監督の関本郁夫は、先のオートバイセックスに関して「いかに商売として成立するかをあざとく、臆面もなくやる人なんだよ」と鈴木を評している。
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脚本・撮影
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/01 05:03 UTC 版)
脚本の前半は笠原で後半は野上が書き、二人の資質の違いを反映し二層分離の構造となっている。笠原は小川薫に密着マークし詳細な取材を行った。笠原は体重90キロの体型とそれらしき強面をいいことに小川に連れられて三越の株主総会にも出席し総会をつぶさに観察。小川の前の席に座らされ「何が起きてもずっとそこに座ってろ」と指示された。小川は笠原を自身のバックにいる共政会幹部に仕立て総会を仕切ったという。映画も総会屋のなり方、教えますという内容で、笠原の著作『鎧を着ている男たち』でも総会屋の仕事内容が詳しく書かれている。後半にかけてスケールの大きな経済ドラマになるはずだったが、大脚本家2人の力を持ってしても中途半端な出来になってしまった。特に後半を担当した野上が相当苦労していたといわれる。その理由として同じ脚本家の高田宏治は「総会屋を主人公に据えてドラマを作ると、善人面をしている大銀行こそが悪の根源であるという構図が必要だった。しかし映画会社も銀行から金を借りて生き延びている以上、銀行を極悪には描けない」「やくざ社会を描く以上に難しい題材もある」などと解説している。笠原は「ドラマとして決着がつくようにラストシーンをちゃんと書いた。野上君と話し合って会社からイチャモンがつくかもしれないけどやろうと決めた。それを(監督の)中島が敵前回頭した」と話している。ところが中島の著書『遊撃の美学』や『東映実録路線 最後の真実』での高田との対談では、笠原が書いていたという「ドラマとして決着がつくようなラストシーン」についての言及が中島になく、中島は「野上さんが脚本に苦しみクランクインする時に、台本が1冊の本になっておらず、後半はペラ状態で、結局追い込まれて近親相姦みたいなところに行かざるを得なくなったのだろう」、「途中でどうやっても..。」「完成後に二人から怒られた」などと述べている。
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脚本・撮影
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 15:05 UTC 版)
「多羅尾伴内 (小林旭版)」の記事における「脚本・撮影」の解説
小池一夫・石森章太郎による劇画作品は使わず、1955年の東映作品『多羅尾伴内シリーズ 隼の魔王』(三番打者怪死)を再構成し脚色した。冒頭の野球場のシーンは実際のプロ野球チームに似せたユニフォームを作成して俳優に着させて撮影している。大騒ぎの客席は、王貞治の756号本塁打の日本テレビの映像の盗用。鈴木監督は当時、盆と正月興行の『トラック野郎シリーズ』を手掛けており、その合間に撮影した。
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脚本・撮影
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 08:46 UTC 版)
「ボクの女に手を出すな」の記事における「脚本・撮影」の解説
桑原譲太郎の原作が先にあってそれを脚色したのではなく、プロットは中原が小泉をイメージして構想していたもので、「高校受験の中学3年生の女の子が徹夜で勉強していて『なんで私、勉強しなきゃいけないんだろう』と思いながら、朝起きたとき、どういう夢だったかな、こんな夢だった」というもの。内容をリアルにしたのは「胡蝶の夢」がベースとしてあるという。それをプロデューサーたちと話し合い、桑原に同時進行でノベライゼーションしてもらう形を採った。中原のイメージは、オードリー・ヘップバーンやゴールディ・ホーンが演じた巻き込まれ型映画に出来るだけ近づけたいと努力した。企画から脚本までの共同作業で最もスタッフから出た言葉は「『シャレード』はどうだったかな」だという。また脚本をそのまま撮るのではなく、小泉の意見を取り入れ、脚本を小泉に味付けしてもらうという手法を採った。このため現場で脚本をいじるため、斎藤博が原稿用紙を持って現場に同行した。小泉は前作『生徒諸君!』が初主演だったこともあり、スタッフに溶け込めず。本作は地に近い役で、中原も小泉の大ファンで楽しそうに撮影をやるので今回はスタッフにも溶け込め、宴会もあり和気あいあいの撮影になった。中原の小泉に対するミーハー部分がいい意味で活かしきれるかが作品の出来に関わるだろうと評された。
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