横綱 - 現役引退
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横綱土俵入りは雲龍型を選択、東関部屋と同じ高砂一門である九重親方(第58代横綱千代の富士)が土俵入りの指導を行った。新横綱の1993年3月場所は10勝5敗に終わり、横綱2場所目の同年5月場所は千秋楽結びの一番、大関貴ノ花と13勝1敗同士の相星決戦で惜しくも敗北。それでも横綱3場所目の同年7月場所から11月場所まで、幕内優勝3連覇を達成。さらに同1993年は、自身初の年間最多勝を獲得。その後も1994年11月場所に至る迄11場所の間一人横綱を維持。1994年3月場所では12勝3敗同士で新大関貴ノ浪、平幕貴闘力との優勝決定戦三つ巴で連勝して優勝、混戦を制した。 1994年5月場所前、巡業中に武双山との稽古中に左膝を痛めるも、一人横綱の責任感から同5月場所を強行出場。さらに5月場所9日目の小城錦戦で右膝も故障するが、10日目まで曙ただ一人10連勝していた。しかし11日目、当時前頭筆頭の貴闘力に土俵際の引き落としに敗れて金星配給しついに初黒星。翌12日目、前日の貴闘力戦で両膝のケガが悪化したため突如途中休場、横綱不在となってしまう。場所後両膝を手術したがその回復が遅れ、同年7月場所、9月場所は共に全休。11月場所で3場所ぶりに復帰し10勝5敗に留まるも、同場所千秋楽結びの一番の当時大関貴乃花との取組は、今後も大相撲史に語り継がれる歴史的な大熱戦となった。曙は惜しくも貴乃花に土俵際での上手投げに敗れたが、福岡国際センターの館内は大拍手が鳴り止まなかった。また貴乃花はこれで大関で2場所連続全勝(30連勝)を達成し場所後横綱昇進を決め、翌1995年1月場所からは曙、貴乃花と同期生同士の二人横綱となった。 なお、曙の横綱土俵入りは四股の足がほとんど上がらず、この点では貴乃花と比べて見劣りがした(しかし、四股は古来足を高く上げるものではなく、玉錦以前の四股に戻ったとも言え、本質的な問題ではない。むしろ足を高く上げ土の付いた足の裏を客に見せるのは不浄であるとするのが従来的な概念)。また、土俵中央最後の左の四股の前に横に出す手は右手だが、1993年9月場所、横綱4場所目を迎えた曙はなぜか土俵入りの際、左手を上げて左の四股を踏んだ(これは初日から4日目まで続いた)。しかしたくましい上半身が引き立つせり上がりは非常に迫力があり、NHKの大相撲中継でも度々アップで映し出された。いかつい顔もせり上がりで正面を睨むこの時ばかりは映え、総じて魅力ある土俵入りを見せたといえる。1998年2月に行われた長野冬季オリンピックでは、東横綱の貴乃花が直前の同年1月場所中体調不良で途中休場となったため、欠席した貴乃花の代役として西横綱の曙が開会式のときに横綱土俵入りを演じた。 1994年5月に両膝を故障した後は若貴らの活躍や、同じハワイ出身で後輩の武蔵丸の台頭もあって優勝間隔が空くことが多くなり、2001年1月場所の引退までのおよそ6年間で幕内優勝は4回に留まった。特に1997年5月場所の優勝以降3年間は個人後援会が結婚に反対した末解散し、2000年には第2子が生まれたが、後援者が去って行き私生活でも苦境に立たされていた中での出来事であった。後援会解散以降は資金難に苦しめられ、年寄名跡を取得できなかった。それでも2000年7月場所は初日から13連勝を決めて(成績は13勝2敗)、19場所ぶり10回目の幕内優勝を達成し復活を果たしたが、自身はこれで満足出来たため引退する事を考えたという。しかしその後「もう少しだけ頑張ってみよう」と思い直し、翌9月場所は終盤まで優勝を争い優勝次点に留まったが、千秋楽結びの一番で14戦全勝だった第67代横綱武蔵丸に唯一の黒星をつけ先輩横綱の意地をみせる。次の同年11月場所は、3横綱5大関が全員千秋楽まで皆勤し、さらに8力士全て9勝以上の勝ち越しというハイレベルの中、曙は14勝1敗の成績で2場所ぶり合計11回目の優勝を果たしたが、これが結果的に曙自身最後の幕内優勝となる。その2000年は1993年以来7年ぶりに6場所無欠場皆勤、かつ2度目となる年間最多勝も獲得している。 翌2001年の1月場所は、持病となった両膝のケガの悪化により全休。その1月場所終了直後の2001年1月22日、両膝の回復がこれ以上見込めないなどの理由により、突如現役引退を表明する。引退については1月場所12日目の夜、東関と話し合い、東関親方は「もう1度頑張ってみろ」と慰留したが、曙から返事はなかったという。「2人きりの部屋で、黙ったまま長い間見詰め合った。ああ終わりだなと思った」と東関は引退の際に語った。「2年前の引退ピンチの時も励まして、再起させた。今度も昨年は2度も優勝しているし、励ませば大丈夫と思っていた。でも、ひざの状態は限界を超えていた」と東関も限界を認めるしかなかった。時津風理事長は「言葉や生活習慣の違うところに飛び込み、精進して横綱に上り詰めたのは立派」とねぎらった上で「この世界では、引退はいつも背中合わせ。曙は新しい世紀の場所で、貴乃花のあのような土俵を見届けて、心安らかになれたでしょう」と心情を思いやった。2横綱時代となるが「武蔵丸はまだ元気。貴乃花も復活。5大関もこのままではない。若い力も台頭して、これからいい展開になると思う」と安泰ぶりを強調していた。引退会見での曙は「8〜10勝の平凡な勝ち越しなら出来るが、もう優勝争いは不可能」「横綱として足を引きずった惨めな姿で土俵に上がりたくない」と決意したという。印象に残った本場所として初優勝の場所と2000年の2度の復活優勝の場所を挙げた。また、後年になって両膝の怪我の原因が腰にあったことを明かしている(曙の背骨は普通の人間より一つ多く、その背骨の摩擦が膝まで来ていた)。ロイター通信は「DAWN(夜明け)を意味するアケボノは、コニシキ以上の品格を備えていたため、タブーとされた外国生まれのグランドチャンピオン(横綱)になれた。スポーツに秀でるだけでなく、ウルトラ閉鎖的な相撲の世界にも適応したキャリアを終えた」と報じ、AP通信は「ハワイ生まれで、相撲の最初の外国生まれの横綱が引退した。横綱昇進時には多くの日本人から、横綱は日本人じゃなきゃ、と反対された。多くの逆風も無言でしのいだが、ついに輝かしいキャリアに幕を下ろした」と紹介した。 元横綱曙の引退相撲は、2001年9月場所後に行われた。横綱最後の土俵入りには、同期のライバルだった横綱貴乃花が右膝の手術後長期療養中により参加せず、太刀持ちは横綱武蔵丸、露払いは武蔵丸と同じ武蔵川部屋で当時大関の武双山がそれぞれ務めた。なお曙の断髪式には貴乃花も出席し、ほか武蔵丸や小錦らが鋏を入れていた。引退後、若乃花、貴乃花とともに相撲人気を高めた貢献者として、日本相撲協会から功労金1億円が贈られた。礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」と評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆、力士からの評価はとても高かった。当時の横綱審議委員であった内館牧子も「礼儀正しさに感激しました。帰り際にもドアの前できちんとお辞儀をし、いつも曙の悪口を言ってる私自身が恥ずかしくなる程でした」と賞賛の意を述べている。
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