最年少横綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 23:55 UTC 版)
ここまで照國に優勝経験は無いが、安定感のある成績と双葉山を倒した星が買われて「事実上の優勝者」と判定されたため、場所後に安藝ノ海と揃って横綱へ昇進。この時23歳4ヶ月で第20代横綱・梅ヶ谷藤太郎の持つ最年少横綱の記録を39年ぶりに更新した。 新横綱となった1943年1月場所は、双葉山に唯一の黒星を付けられて14勝1敗に終わり、双葉山が全勝のため初優勝を逃す。その後も成績は安定しているが、第二次世界大戦による食料事情の悪化に加えて敗戦による影響もあって体重が激減したり、終戦直後も糖尿病や左肩・左膝の故障が多発して優勝は出来なかった。東京大空襲で持ち家を3件焼失する、1948年10月には引退後の部屋新設に向けて土地を購入するも詐欺に遭い代金の二重払いを強いられるなど私生活でも災難に見舞われた。 それでも1950年9月場所は13勝2敗で吉葉山潤之輔との優勝決定戦を制し、横綱昇進から8年後に悲願の初優勝を達成した。1951年1月場所には全勝優勝を達成し、この連覇によって「優勝なき横綱」の汚名を返上すると同時に、優勝額復活第1号を飾ることになった。その後は無傷だった右膝も故障して優勝が無く、1953年1月場所には糖尿病の悪化に胃潰瘍が加わって3日目から休場、同場所14日目に「回復の見込みがない」として現役引退を表明した。引退は照國の自発的な意思とされたが、14日目の夜に横綱審議委員会の例会が開催されることから、報道機関からの強硬論も相まって引退勧告されるものと誤解したのではないかと横審では指摘された。
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