最年少コーチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 09:57 UTC 版)
「デイブ・ディバッシャー」の記事における「最年少コーチ」の解説
1964-65シーズン、ディバッシャーは健康を取り戻したが、チームは開幕以後2勝9敗と大きく出遅れた。11月、ピストンズオーナーのフレッド・ツェルナーは思い切った行動に出た。それはヘッドコーチのチャールズ・ウォルフを解任し、選手のディバッシャーを抜擢するというものである。すでにベイリー・ハウエルとドン・オールはチームを去っており、ディバッシャーは新加入のテリー・ディッシンガーと共にチームの主力を担っていたが、彼は加えて選手兼コーチという重責を担う事になったのである。さらに、当時24歳のディバッシャーはリーグ最年少ヘッドコーチとなった。ディバッシャーのコーチ就任後は4勝1敗と成績は上向き、シーズン後半には2度の4連勝を達成したが、シーズン終盤に8連敗を喫し、最終成績は31勝49敗だった。選手としてのディバッシャーは平均16.7得点11.1リバウンド3.2アシストとダブル・ダブルの成績を残した。オーナーがディバッシャーにコーチの任を与えたのは、当時マイナーリーグでもプレーしていたディバッシャーをバスケットボールに集中させるためでもあると推測された。その思惑は成功したと言える。彼は1965年のオフシーズンにシカゴ・ホワイトソックスの招聘を拒否し、バスケットボールと野球の二重生活を終わらせ、NBAに集中することになった。 コーチとしてのディバッシャーは成功しなかった。最大の理由は人材の不足である。数少ない戦力、ディバッシャーとは同期で元新人王のディッシンガーは兵役のため2年間チームから離れてしまい、チーム内にめぼしい戦力はディバッシャーのみだった。コーチとして選手人事にも携わるディバッシャーは、戦力補強のために他チームのゼネラルマネージャーとトレードについて話すことがあったが、ピストンズから欲しい選手を尋ねたとき、返ってくる答えはいつも同じだった。「あなただ」。4年目、1965-66シーズンのディバッシャーは平均16.4得点11.6リバウンドの成績を記録し、NBAオールスターゲームに初出場したが、チームは22勝58敗に沈んだ。1966-67シーズンには期待の新人デイブ・ビンが加入。ビンは新人王を受賞し、ディバッシャーはキャリアハイとなる平均18.2得点をあげるが、チームは低迷から抜け出せなかった。シーズン終盤、チームはディバッシャーをコーチの任から解き、後任のドニー・ブッチャーを当て、ディバッシャーはようやくコーチの重責から解放された。コーチングキャリアは3シーズン222試合で79勝143敗、勝率 .356だった。。Newsday紙には「コーチから解任されてホッとしたよ」と当時の心境を語っている。
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