最年少の院内総務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 06:39 UTC 版)
「ウィリアム・ノーランド」の記事における「最年少の院内総務」の解説
1946年の選挙で、ノーランドは民主党の対抗馬を圧倒し、74%対15%の大差で当選した。上院では、トルーマン政権の国内政策、通称「フェア・ディール政策」への痛烈な批判者として知られた。とりわけ社会保障プログラムや、大規模な公共事業工事による予算の膨張に強く反対した。対外的には前任者のハイラム・ジョンソンが孤立主義者として知られていたのとは対照的に、冷戦政策の支持者であったが、より強硬な政策を主張した。朝鮮戦争の際には、中華人民共和国の義勇軍投入に関して撤退を求める最後通牒を発し、もしこれを拒めば中朝国境の鴨緑江より北での行動を開始すべきだとの強硬論を展開した。また、彼は親中華民国(台湾)、反中華人民共和国のスタンスで知られ、台湾から来た上院議員(Senator from Formosa)と揶揄された。 1953年、共和党のアイゼンハウアー元帥が大統領に当選し、また議会でも上下両院で共和党が多数派を奪還した。だが7月31日に上院共和党の指導者、ロバート・タフト上院院内総務が死去した。ノーランドは当時共和党政策委員長であったが、タフトの後任の上院多数党院内総務に就任した。院内総務に就任したとき、彼は45歳であった。上院院内総務としては最年少である。彼はアイゼンハウアー大統領とは立場を異にしたと一般には思われ、メディアは彼と大統領の「確執」を報じたが、実際には政権を立法府の立場から支えた。1954年の中間選挙では共和党は少数党に転落し、その後は苦しい議会運営を迫られた。端的な例は、政権の意向を受けて提出された1957年の公民権法である。ノーランドは公民権擁護の立場で知られ、法案の成立に全力を尽くした。だが同法案は南部選出の民主党議員の猛烈な反対にさらされた。結局同法案の拘束力を弱める修正動議が提出され、ノーランドはこの修正に反対する勢力を率いたが、修正は南部の民主党議員のみならず、大半の北部選出の民主党議員(この中にはジョン・F・ケネディらリベラル派とみなされていた議員も含まれる)さらには一部の共和党員の賛成により採択された。結局この修正を施された法案が可決され、ノーランドも法案への賛成を余儀なくされた。
※この「最年少の院内総務」の解説は、「ウィリアム・ノーランド」の解説の一部です。
「最年少の院内総務」を含む「ウィリアム・ノーランド」の記事については、「ウィリアム・ノーランド」の概要を参照ください。
- 最年少の院内総務のページへのリンク