失われた週末
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失われた週末 | |
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The Lost Weekend | |
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ポスター(1945)
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監督 | ビリー・ワイルダー |
脚本 | チャールズ・ブラケット ビリー・ワイルダー |
原作 | チャールズ・R・ジャクソン |
製作 | チャールズ・ブラケット |
出演者 | レイ・ミランド ジェーン・ワイマン |
音楽 | ミクロス・ロージャ |
撮影 | ジョン・サイツ |
編集 | ドーン・ハリソン |
配給 | パラマウント映画 |
公開 | ![]() ![]() |
上映時間 | 101分 |
製作国 | ![]() |
言語 | 英語 |
製作費 | 125万ドル[1] |
興行収入 | 1100万ドル![]() ![]() |
配給収入 | 430万ドル![]() ![]() |

『失われた週末』(うしなわれたしゅうまつ、The Lost Weekend)は、1945年のアメリカ合衆国の映画。パラマウント映画作品。
戦前ドイツから渡ったシナリオ・ライター出身のビリー・ワイルダー監督が、幻覚におびえるアルコール依存症の男の恐怖と苦悶を描いた作品である。チャールズ・R・ジャクソンの原作小説をもとに、ワイルダーのパートナーだったチャールズ・ブラケットと共に脚本を書き、ブラケットが制作した。ミクロス・ロージャによる音楽は映画音楽において初めてテルミンを使用したもので、登場人物の心理状態を示す音響効果として作用した。
第18回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞の4部門を受賞。また、第1回カンヌ国際映画祭では最高賞であるグランプリ(現在のパルム・ドール)を受賞した。
アカデミー作品賞とカンヌの最高賞を同時に受賞したのは『失われた週末』、『マーティ』(1955年)、『パラサイト 半地下の家族』(2019年)、『ANORA アノーラ』(2024年)の4作のみである。
ストーリー
最初にニューヨークの情景。カメラがパンするとアパートの窓からぶら下がった酒ビンをとらえ、中の住人を映し出す。
主人公ドン・バーナム(レイ・ミランド)は33歳で、売れない小説を書いており、今やひどいアルコール依存症である。兄ウィク(フィリップ・テリー)と恋人のヘレン(ジェーン・ワイマン)が八方手を尽くすがどうにもならない。
今度の週末も兄ウィクは弟を旅行に連れ出して酒を忘れさせようとする。しかし、兄とヘレンを音楽会へ送り出し、その間に酒を飲もうとするが、部屋には一滴もない。兄が置いていった掃除婦の給料10ドルを横取りして、なじみのナット(ハワード・ダ・シルヴァ)の酒場に行く。
ここから、酒を求めて彷徨う描写が始まるが、時々フラッシュバックでヘレンとの関係が示される。彼女は3年前に知り合って以来、彼の酒癖を直すため虚しい努力をしてきたのである。再び現在に戻り、ドンは酒を買って家へ帰り小説を書き始めるが、酒が無くなると動きがとれない。持ち金は全て使い尽くし、近所のレストランへ行き、ふと隣の女のハンドバッグに手をかけるが、見つかって店から放り出される。
最後の手段で、命から2番目に大切なタイプライターを質に入れようとするが、ユダヤ人の祭日でどこも休業。仕方なく、顔見知りでドンを憎からず想っている娼婦のグロリア(ドリス・ダウリング)から5ドル借りるが、その後階段から転落して気絶してしまう。
気がつくとアルコール依存症専門の病棟であった。強迫観念に襲われて逃げ出し、アパートへ帰るが、ここでも幻覚に襲われて苦しむ。そして遂に訪ねてきたヘレンのコートを質に入れピストルと取り替え自殺しようとする。しかし、ヘレンの愛に留められ、今度こそは更生しようと心に誓った。
キャスト
役名 | 俳優 | 日本語吹替 | |
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テレビ神奈川版 | PDDVD版 | ||
ドン・バーナム | レイ・ミランド | 納谷悟朗 | 佐藤晴男 |
ヘレン・セント・ジェームズ | ジェーン・ワイマン | 沢田敏子 | 加藤沙織 |
ヴィック・バーナム | フィリップ・テリー | 筈見純 | 芦澤孝臣 |
ナット | ハワード・ダ・シルヴァ | 塩見竜介 | 御園行洋 |
グロリア | ドリス・ダウリング | 翠準子 | 瀬尾恵子 |
ビム | フランク・フェイレン | 村松康雄 | |
デヴァリッジ夫人 | メアリー・ヤング | 川路夏子 | |
不明 その他 |
緑川稔 高村章子 辻村真人 高田竜二 国坂伸 仲木隆司 青木明子 峰あつ子 |
藤田周 萩柚月 中神亜紀 田坂浩樹 小浅和大 |
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演出 | 好川阿津志 | 大前剛 | |
翻訳 | 岸本康子 | 鈴木紫穂 | |
効果 | |||
調整 | |||
制作 | グロービジョン | ミックエンターテイメント | |
解説 | |||
初回放送 | 1977年2月7日 『月曜ビッグスクリーン』 |
主な受賞歴
アカデミー賞
- 受賞
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- アカデミー作品賞:
- アカデミー監督賞:ビリー・ワイルダー
- アカデミー主演男優賞:レイ・ミランド
- アカデミー脚色賞:チャールズ・ブラケット、ビリー・ワイルダー
- ノミネート
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- アカデミー撮影賞 (白黒部門):ジョン・F・サイツ
- アカデミー編集賞:ドーン・ハリソン
- アカデミー作曲賞:ミクロス・ロージャ
ゴールデングローブ賞
ニューヨーク映画批評家協会賞
カンヌ国際映画祭
その他
キャメロン・クロウ『ワイルダーならどうする』(キネマ旬報社、2001年)巻末フィルモグラフィーp.43によると、ワイルダーが『失われた週末』を作った時、パラマウントスタジオは酒造業界から「その作品を処分してくれたら500万ドル払おう」との申し出を受けたという。ワイルダーは「私に持ちかけてくれたら喜んで話に乗ったのに」とジョークを言ったものの、アルコール依存症を真剣に描いた最初の監督として強い誇りを持っていた。
関連項目
- ジョン・レノン - 1973年から約2年間にわたってオノ・ヨーコと一時別居状態となり、その間アルコール中毒に苦しんだ。この期間は本映画になぞらえて「失われた週末」と呼ばれている。
- セルロイド・クローゼット
脚注
- ^ a b “The Lost Weekend (1945) - Financial Information” (英語). ザ・ナンバーズ. 2024年9月12日閲覧。
- ^ “60 Top Grossers of 1946” (英語). バラエティ: 8. (1947-01-08) .
- ^ Finler, Joel Waldo (2003) (英語). The Hollywood Story. Wallflower Press. p. 358. ISBN 978-1-903364-66-6 2024年2月12日閲覧。
外部リンク
失われた週末
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レノンはパンと18か月の愛人関係にあった期間を、後に同タイトルの映画・小説から「失われた週末」と呼んだ。 1973年半ば、パンはレノンのアルバム『マインド・ゲームス』のレコーディングに取り組んでいた。当時レノンとオノは夫婦間の問題を抱えており、別居する事ことにした。そしてオノはパンにレノンの同居人になるよう提案した。オノはレノンとうまくいっておらず、言い争いをしては仲違いしていると説明し、レノンは他の女性に目移りするだろうと言った。更にレノンがパンが性的に魅力的だと思うと言っていたと伝えた。パンは彼女の雇用主でありオノの夫でもあるレノンとの関係を始めることは絶対にできないと返答した。オノはパンの抗議を無視し、すべて予定通り手配すると言い渡した。オノは後のインタビューでこのやり取りを追認した。1973年10月、レノンとパンは『マインド・ゲームス』のプロモートのためニューヨークを離れてロサンゼルスに向かい、友人宅にしばらく滞在した。 滞在中、レノンは2つのレコーディング・プロジェクトに着手するように勧められた。ミュージシャンになるきっかけとなった古いロックン・ロールの曲を集めたアルバムの作成と、他のアーティストのプロデュースである。1973年12月、レノンはフィル・スペクターと協力して、オールディーズのアルバム『ロックン・ロール』をレコーディングした。酒に焚き付けられたレコーディング・セッションは伝説的なものとなった。ロサンゼルスのすべてのミュージシャンが参加を望んだが、直ぐにレノンの飲酒とスペクターの常軌を逸した行動(スタジオのコントロール・ルームでの銃の発砲など)によりセッションは中断した。その後、スペクターは自動車事故に遭って、レコーディングテープが行方不明になったと主張した。 1974年3月、レノンはハリー・ニルソンのアルバム『プシー・キャッツ(英語版)』の制作を開始した。このアルバムタイトルは、トルバドール(英語版)での2度の飲酒事件でメディアから刻印された「バッドボーイ」のイメージに対抗するため名付けられた。一度目はレノンが額に生理ナプキンを付けて、当時お気に入りのレコードの1つであった「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」をリリースしたアン・ピーブルスのコンサートでウェイトレスと乱闘し、二度目はその2週間後、レノンとニルソンがスマザーズ・ブラザーズ(英語版)を野次った後、クラブから叩き出された。レノンがミュージシャンが時間通りにスタジオに集まれるように1つ屋根の下に住むのは良い考えだと判断したので、パンはサンタモニカに彼女とレノン、ニルソン、リンゴ・スター、キース・ムーンが住むためのビーチハウスを借りた。この時期、パンはレノンに家族や友人に手を差し伸べるよう勧めた。彼とポール・マッカートニーは関係を修復し、ビートルズの解散後初めて一緒にプレイした(en:A Toot and a Snore in '74を参照)。更にパンはジュリアン・レノンが、ほぼ4年ぶりに父親のもとに訪れるよう手配した。 ジュリアンは、より定期的に父親と会うようになった。レノンは1973年のクリスマスにジュリアンにギブソン・レスポールのギターとドラムマシンをプレゼントし、いくつかコードを弾いて見せてジュリアンの音楽への興味を促した。「父と私の関係は以前よりずっと良くなった」とジュリアンは回想する。「彼がメイ・パンと一緒にいた時、私たちはとても楽しく、沢山笑い、全般的に素晴らしい時間を過した。父とメイとの当時の私の思い出は非常に鮮明だ。―それは私が彼らと共に思い出せる最も幸せな時間だった。」 1974年6月、レノンとパンはマンハッタンに戻った。レノンは飲酒をやめ、レコーディングに集中した。レノンは以前リバプールのミミ伯母(英語版)の家に住んでいた時、猫を飼っていた。彼とパンはメジャーとマイナーと名付けた2匹の猫を飼った。同年初夏、2人は東52番街434のペントハウスアパートメントに移り、レノンはアルバム『心の壁、愛の橋』に取り組んだ。8月23日、レノンとパンは、クイーンズのパノラマビューを望むテラスからUFOを見たと語った。デッキに辿り着くため、2人は台所の窓から登らなければならなかった。その夜、裸のレノンが興奮してパンを呼び寄せ、外のデッキで合流した。2人は共に100フィート以内の距離に静かに浮かぶ円形の物体を見た。レノンは、彼の「公認の」写真家であるボブ・グルーエン(英語版)に電話し、起こっている事を話した。グルーエンは警察を呼ぶべきだと提案したが、レノンは笑い飛ばし、新聞を呼んで「私はジョン・レノンです。昨夜空飛ぶ円盤を見ました」と言うつもりは無いと言った。グルーエンは地元の警察署に電話し、他に3人の目撃証言があることを確認した。デイリーニューズはレノンとパンが住むニューヨークの同じ地域で5人の目撃証言がある事を報じた。レノンは自身の曲「ノーバディ・トールド・ミー」で、この事件について言及している。 『心の壁、愛の橋』はアルバムチャートでトップの座に上り詰めた。更に「真夜中を突っ走れ」で、生涯で唯一のアメリカにおけるナンバーワン・シングルを達成した。パンは「夢の夢」でレノンの名前を囁いている。「予期せぬ驚き」はパンについて書かれている。ジュリアンはアルバムの最後のトラック「ヤ・ヤ」でドラムを演奏した。『心の壁、愛の橋』のレコーディング中、キャピトル・レコードのプロモーション担当副社長アル・クーリー(英語版)は、スペクターの混沌としたセッション・テープを手に入れ、ニューヨークに持ち込んだ。レノンは『心の壁、愛の橋』で組んだのと同じミュージシャンと共に、オールディーズのアルバム『ロックン・ロール』を完成させた。パンは『心の壁、愛の橋』でRIAAゴールド・レコード賞を受賞し、アルバム『ロックン・ロール』の制作コーディネーターとしての仕事を続け「Mother Superior」としてクレジットされた。また、ニルソン、スター、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイのアルバムにも取り組んだ。 ニューヨーク州モントーク(英語版)のアンディ・ウォーホルの屋敷にミック・ジャガーを訪ねた時、レノンとパンはモントーク・ポイント灯台(英語版)の近くで売りに出されているスコットランド風のコテージを見かけた。1975年2月、レノンは不動産ブローカーに買い取りを依頼した。同月、レノンとパンは、ウイングスがアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』をレコーディングしているニューオーリンズにポールとリンダ・マッカートニーを訪問する計画を立てていたが、オノがレノンの喫煙習慣に対する新しい治療法があると言った後、訪問予定の前日にレノンはオノに従った。会合の後、レノンは家に帰ることもパンに電話することもできなかった。パンが翌日電話をかけた時、オノはレノンは催眠療法の施術後で疲れ果てているので面会はできないと言った。2日後、レノンは共通の歯科予約で姿を見せた。パンがレノンは洗脳されたに違いないと思う程、彼はぼうっとして混乱していた。レノンはパンにオノと和解したので、2人の関係は終りだと語った。その後の数年間、パンは内密にレノンと数回会ったが、彼らの関係が再燃する事は無かった。 レノンはこの期間を公的には後悔してみせているが、私的には後悔していない。1964年からレノンと親交のあるジャーナリストのラリー・ケイン(英語版)は、「失われた週末」の期間を詳述したレノンの包括的な伝記を書いた。ケインとのインタビューで、レノンはパンと過した時期について「ラリーの知っての通り、私は今までで一番幸せだったかも知れない...私はこの女性(パン)を愛し、何曲か美しい音楽を作り、大酒やたわ言やその他もろもろで色々とやらかした。」と説明した。
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