失われた背負投
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 22:52 UTC 版)
山下との善戦を終えた大迫は、選手権後には次の目標に五輪を据えると、国際大会での実績を積むために北朝鮮での国際大会に出場した。86kg級で準優勝に甘んじたため無差別級にもエントリーした大迫だが、決勝戦で身長2mを超す北朝鮮代表選手の腋固で左肘を脱臼。これにより、背負投型の選手にとって最も大事な釣り手を、大迫は使えなくなってしまった。 スポーツ外科という分野が未熟だった当時、「治る確率は五分五分」と言われた手術を受けるかどうか、大迫は悩んでいた。医者から「成功しても1年間は柔道をできない」と告げられたため、年齢的に後のない大迫は、手術をせずに手負いの状態で柔道を続ける決断をする。これは即ち、十八番の背負投を捨てる事を意味していた。 再起のため背負投に変わる得意技として一本背負投を磨くが、肘の痛みと戦いながらの稽古は熾烈を極めた。いつ癒えるとも判らない肘の故障に加え、時を同じくして腰椎分離症も併発した大迫は、国際大会に出場しても鳴かず飛ばずの成績が続き、1987年の世界選手権の選考会で3位に終わった後に、旭化成柔道部の監督に引退を相談した。監督の説得もあり一旦は引退を思い止まったものの、その後すぐに全柔連の強化選手から外され一気に脱力。この時の心境を大迫は「何もかも終わりだと思った」と述懐する。
※この「失われた背負投」の解説は、「大迫明伸」の解説の一部です。
「失われた背負投」を含む「大迫明伸」の記事については、「大迫明伸」の概要を参照ください。
- 失われた背負投のページへのリンク